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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
46/137

彼らのこと・回想 花降る夜に(2/2)

 えーっ、と素っ頓狂な声を上げてしまう。


「長谷川先生は分かりま――知ってましたけど、桐原先生もですか? 信じられなあい」

「いえ……私は……」


 嬉しい、と正直な気持ちが心に浮かぶ。こんな素敵な人がフリーだなんて、特に信じてもいない神様に感謝したいくらいだ。これは願ってもないチャンスのような気がする。

 桐原先生は眉尻を下げ、困った表情になっている。考えてみれば、彼と色恋の話はあまりマッチしない。ひょっとしたらこういうのは慣れてないのかも。困りぎみの顔もまた、いい。かわいい。


「信じられないっすよねえ。ま、桐原さんはその気さえあれば、すいすいっと結婚までこぎ着けそうですけど。俺なんかとは違って」

「いや……私などと結婚したい人がいるとは思えませんが……」


 手を胸の前にかざし、何かをせき止めるような仕草をしながら桐原先生が言葉を濁す。

 いるよ! そんな人めちゃくちゃいるよ! いまあなたの目の前にいますよー!

 と叫びたいところだが、そんなことをしたら酒乱の烙印を押されるだけに違いない。出会ったばかりでそんな醜態を晒したら、もはや挽回不可能なほど印象は悪くなる。落ち着くんだ、私。これから頑張って、少しずつアピールしていこう、私。

 そこで、桐原先生の肩越しに、長谷川先生が悪戯っぽい目配せを寄越した。そしてジョッキを携えて、そっとどこか別の場所に歩み去っていく。あとは二人でお好きなように、ということか。それか、あとは一人で奮闘せよ、ということか。

 いずれにしろ、勝負はこれからだ。いや何の勝負かは分からないが。私は気合いを入れようと、景気づけにカルーアを煽った。

 氷ばかりになったグラスを置くと、何か頼みますか、とお品書きがすっと渡される。私が一杯飲むうちに、桐原先生は徳利一本を軽く開けていた。しかも一人きりで。まるで水でも飲んでるみたいだ。

 話しながら、桐原先生がすいすいと飲み進めるのにつられ、いつにないハイペースでカクテルを注文してしまう。

 頭がぽーっとする。舌が滑らかになる。

 私は途中で、自分がお酒に弱いという事実を、すっかり忘れてしまっていた。

 いつの間にか、瞼がひどく重い。



 薄目を開ける。

 開けるということは今の今まで閉じていたというわけで、私にはそんな自覚も記憶もなく、つまりは過去のどこかの時点で、無意識のうちに瞼を下ろしていた、という結論を得る。

 私はしっかりと固い、でも弾力のある何かにもたれ掛かっていた。数秒その状態でぼーっとし、自分が今まさに眠りから目覚めたことを徐々に理解した。それにしても、この温かくて触り心地の最高なものは何だろう……。

 半分寝ぼけたまま、それを両腕でがっしり挟むようにすると、腕の中で身じろぎする感覚がある。

 その振動で完全に覚醒する。そして肝が冷えた。

 私がもたれていたのは、桐原先生の腕だった。その上しかもあまつさえ、がっしりした胴に手を回してしまっている。

 私ったらなんて大胆――いや失礼極まりないことを!

 一瞬で目が冴えた私は、彼からぱっと体を離した。


「すっ、すみません! 失礼なことを……あの、わざとじゃないです、違うんです!」

「いえ、大丈夫ですよ」

「でも私いま、しがみついてましたよね? ご迷惑おかけしました……ッ」


 がばっと頭を下げる。室温は高いのに、冷や汗が浮いてくる。どうしよう、セクハラだと訴えられたら色々と終わりだ。酔っていたからなんて言い訳にならない。桐原先生に嫌われるどころか、校長先生、教育委員会まで話が広がり、私は退職を余儀なくされ、社会的な死を迎える――。

 悪い想像に恐々としながら、怖々桐原先生の顔をうかがうと、彼は特別何の感情も示していなかった。何事もなかったかのように、平然としている。


「いえ、特に痛いとかはなかったので。本当に気にしないで下さい」


 そう、穏やかな調子で言う。

 痛くなかったらいいのだろうか。そういう問題なのだろうか。いや、どう考えても大丈夫じゃない。明らかに迷惑かけてますよね、それ。

 "迷惑かけてない"の基準、どんだけ甘いんだ……!

 桐原先生がいい人すぎて、私は感銘で泣きかけた。


「あ、水城さん目が覚めたんですね、良かった。もうお開きですよ」


 じわっと涙が浮いてきたところに、ほっとした長谷川先生の声が降ってくる。はっと見上げると、彼は安堵の表情を浮かべ、薄手のウインドブレーカーに袖を通しているところだった。

 慌てて周りを見回すと、なるほど、テーブルの上には空になった皿やグラスが並ぶばかりで、皆トレンチコートを羽織ったり鞄を抱えたり帰り支度をしている。いまだ席に陣取っているのは私たち二人だけだ。

 壁にかけたコートを取るため立ち上がると、その拍子によろけそうなくらいふらついたが、ほぼ同じタイミングで立っていた桐原先生が肩を支えてくれ、事なきを得る。消え入りそうなありがとうございます、の語尾は、ばくばく拍動する心臓のせいで、どうしようもなく震えた。

 長谷川先生が気遣わしげな視線を私に注ぐ。


「二次会もあるみたいですけど、水城さんはもう帰った方がいいんじゃないすか? けっこう飲んでたみたいだし」

「そうですね……まだふらふらするし、帰ろうかな」

「そうしてください。じゃっ桐原さん、ちゃんと送ってってくださいね。俺、二次会行くんで」


 靴を履きかけていた桐原先生が、え、と長谷川先生の顔を見る。彼から言葉が出ない間に、長谷川先生は次の店を目指す群集へさーっと溶け込んでいった。その際、私にだけ見えるように、こそっとウインクしたのを見逃さなかった。

 長谷川先生を追いかける桐原先生の視線が、静かに"この薄情者め……"と言っている。違うの桐原先生、彼は気を利かせて二人きりにしてくれたの、彼を憎まないで。

 ありがとうございます、と私は心のなかで感謝した。ありがとう長谷川先生。そしてごめんなさい長谷川先生。好き! LOVE じゃなくて LIKE だけど。

 それじゃ出ましょうか、と促され、連れだって店の外に出る。火照った頬を、ひんやりとした夜風が撫でるのが心地好かった。

 金曜日かつ市内で一番大きな駅そばの飲み屋街ということもあり、ほろ酔いの会社員や学生たちが、たくさん道を歩いていた。彼らもめいめい店から出てきて、楽しげな声を響かせている。中には体を極限まで密着させて歩いている男女も。普段は気に留めないが、桐原先生と二人だと妙に意識してしまう。


「水城先生は電車ですよね。何線ですか?」


 足元が覚束おぼつかない私に歩幅を合わせ、ゆっくり歩く桐原先生が尋ねた。路線名を口にすると、隣にいる彼が微笑する。


「よかった。同じ路線ですね」

「あの、駅までで大丈夫ですよ」


 先生とはもっと一緒にいたいけれど、これ以上迷惑はかけられないという思いから、私は胸の前で手をぶんぶん振った。それに、家まで送ってもらったりしたら、変な期待をしそうで怖い。彼はおかしなことはしないだろうけど、私の理性が持つかどうか。

 桐原先生は不思議そうな顔をする。


「せっかく同じ方面ですし、おうちの近くまで送っていきますよ。……ああ、ご迷惑でしたら話は別ですが」

「いっ、いえ、迷惑なんかじゃ……。じゃあ、お願いしてもいいですか? あの、むしろ私の方が迷惑かけてないですか?」

「いえ、全然ですよ。最寄り駅はどちらですか」


 駅名を答えると、にこりとした笑顔が返ってくる。目元を緩ませた、優しげな笑み。


「それじゃ、隣駅だ。ご近所さんですね」


 朗らかな声色だった。微妙に敬語が崩れているところに、どきっとしてしまう。もしかすると、顔には全く出ていないけれど、彼も酔っているのかもしれない。

 ホームに着くと、この駅が始発の電車が停車していて、ちょうどよく乗り込むことができた。終電まではまだ時間があるはずだけど、半分くらいは酔客のようだ。二、三人のグループがさんざめいているのが、自分にも酔いが回っているからか、快いざわめきに聞こえる。

 ひとつ空いていた席を、どうぞ、と言って先生が私に譲ってくれた。周りから見たら彼氏彼女に見えるだろうか。腰を下ろして上目で先生を盗み見ると、彼はまっすぐ窓の外を見つめていた。すごい。この角度から見ても格好いい。感動的だ。

 電車が動きだして、たたん、たたん、と規則的に揺れはじめると、すぐに対抗できないほどの睡魔が襲ってきた。


「寝ていて大丈夫ですよ。駅に着いたら起こしますから」

「はい……ありがとうございます……」


 言い終わるか終わらないかのうちに、私はまどろみに沈んでいった。



 最寄り駅に着く前に自然に目が覚めたため、桐原先生の手を煩わせる事態にはならなかった。そのことに、少し胸を撫で下ろす。

 改札を抜けてしばらく歩くと、まだ住民が寝静まるには早い時間のはずなのに、不思議と辺りには人っ子ひとりおらず、建ち並ぶ家々やアパートは窓から明かりを投げかけるだけで、しんと夜の底に沈黙していた。等間隔に灯る街灯が、微動だにしないスポットライトのように、その足元だけを皓々と照らし出している。

 まるで、世界に二人だけ取り残されたよう。

 そんなロマンスとも感傷ともつかないセンチメンタルな気分になっているのは、きっと私だけだろう。

 駅から私の家へは、小さな公園の隣を通る。公園はぐるりをフェンスで囲われており、そのフェンス沿いに、ソメイヨシノが列を成して植えられている。散りはじめた夜桜が、ぼうっと白く浮き上がって見えた。妖しく、美しい姿だ。ひんやりとした風が吹くと、桜はまるで泣いているかのように、無数の花弁をはらはらと散らす。

 桜の花が降る中を、私は桐原先生と二人、何も言わずに歩いていった。この道がどこまでも続けばいいのに、このまま、時間が止まってしまえばいいのに、と願わずにいられなかった。

 けれどこの世に永遠はなくて、やがて私の家があるマンションが見えてくる。


「あのっ、ここら辺で大丈夫です。もう、すぐそこですから」


 傍らの先生に向き直ると、彼は引き留めるような無粋なことはせず、そうですか、と淡々と頷いた。


「送ってくださって、ありがとうございました。今日は色々お話聞けて、良かったです。また機会があるの楽しみにしてます。改めて、これからよろしくお願いしますっ」

「ええ、こちらこそ。よろしくお願いします。じゃあ、おやすみなさい」

「……は、はい! 桐原先生も、おやすみなさいっ」


 桐原先生がぺこりと会釈するのへ、私はばっと頭を下げた。おやすみだなんて、普通に学校だけで接していたら絶対聞けない。貴重な言葉だ。脳内レコーダーに録音して、永久に保存しておかないといけない。

 私はしばらくそこに立って、桜が舞い散る中、だんだんと遠くなっていく彼の背中を見つめた。その背がどんなに逞しいか知っているのに、なぜだかとても儚いものに思えて、ちょっとだけ桜のように泣きたくなった。視界からいなくなるまで、桐原先生は一度も振り返らなかった。

 ――来年も二人で、綺麗な桜を見られたらいいな。

 私は彼のことを、とても愛おしいと思った。

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