彼らのこと・回想 The Bird doesn't sing a Aubade. (4/4)
初めての子を相手にしたことがないわけじゃないが、そう経験が多いわけでもない。じっくり時間をかけて慣らしていく。大丈夫、夜は長いのだ。そう焦ることはない。
「ヴェルナー……」
シャーロットが俺の名をうわ言のように繰り返す。その様子は切なげと言ってもよく、俺の心臓がきゅうと締めつけられる。表情は今や溶けきって、瞳は生理的な涙で潤んでいた。蠱惑的に腰がくねる。その乱れた顔を他の男の前で見せるのだ、と思うとたまらない。嫉妬で気が狂いそうだった。
俺だけを見ていてほしかった。永遠が叶わないならば、せめてこの一瞬だけ。この夜だけは、どうか。
俺よりも幾回りも小さいシャーロットの手が、添え木を探す植物みたいに俺の腕を掴む。
「ヴェルナー……我慢できないの、早く来て……足りないの……」
「ロッティちゃん、そんなこと言われたら俺──」
「ヴェルナーの……もっと熱いの、ほしい……」
「どこで覚えたの、そんなの……」
シャーロットの表情が、声が、吐息が、体が、体温が、匂いが、水音が、俺の欲望を煽る。もう限界だった。
一緒に気持ちよくなりたい。
シャーロットの上に跨がる。この光景が幻だったとしても驚かない。彼女の瞳の中に恐怖はなかった。
シャーロットがびくりと反応して、俺の体に足を絡めてくる。極力ゆっくり、少しずつ、深くしていく。シャーロットの呼吸は上がり、顔は徐々に痛みに耐えて歪んでいったけれど、苦悶の表情にまではならなかった。
繋がった悦びを感じたのは、きっと俺だけだっただろう。
「動くね。辛かったら言って」
腰をスライドさせる。奥を突くたび、甲高い声が可憐な唇から漏れ出た。
シャーロットと、ひとつになっている。
その事実だけが真理で、他のことなんてどうでもよかった。俺はシャーロットを愛しているのだと、その時強烈に感じた。愛している。世界で、シャーロットだけを。
「好き。大好き。愛してる」
体位を変える。リズムを変える。
シャーロットはいやいやをするように、首を振る。君が俺を好きじゃないのは分かってる。でも言わずにいられなかった。
「ヴェルナー……だめ……」
不意に、彼女が呻いた。俺は慌てる。一人で突っ走りすぎたか? 好きな人と繋がれたのが嬉しくて、独りよがりになっていたかも?
「ごめんっ、痛かった? 苦しい……?」
「駄目よ……」
涙で潤みきった眼が、俺を見上げていた。
「そんなに優しかったら、練習にならないでしょ……っ、もっと、酷くして……」
シャーロットの言葉は震えていた。切実な、乞うような声色だった。俺の体もぞくりと震える。
彼女の泣きそうな声が、自分の内には存在しないと思っていた暗い欲望に、火を点けたのを感じた。
「──ごめん」
俺は本能の欲求に従い、シャーロットを抱いた。いろんな角度、いろんな深さ、いろんなリズムで。こんなめちゃくちゃなのは初めてだった。それは抱くというより、犯すと表現した方が正しかった。大好きな人を、世界でただ一人愛している人を、俺は欲望の赴くまま、身勝手に、でたらめに犯した。
シャーロットの目尻に光るものが伝ったとき、俺はなんてことをしているんだ、と愕然とした。
「……ロッティちゃん、もうやめよう……?」
「やめないで……お願い……」
シャーロットは必死になっていた。影のために、任務のために、汚くなるために。それが彼女の願望ならば、叶えてあげたかった。俺にできるなら、叶えなければと思った。俺は自分のなかの理想を殺した。
シャーロットは声を押し殺し、泣きじゃくっていた。この腕のなかで。俺が、泣かせたのだ。彼女が仰け反っても、唇を噛み、腰を動かし続けた。部屋に嗚咽が響いた。幸福感などとうに萎みきっていた。
俺は何度目かの絶頂を迎え、罪悪感という名のどろどろした液体が、薄いゴムの内部に溢れ出る。
俺は彼女に、ちっとも優しくできなかった。
* * * *
―シャーロット・エディントンの話
ふと目が覚めると、窓の外には冷たい夜が残っていて、隣ではヴェルナーがすうすうと寝息をたてていた。私は今夜、この人に抱かれたのだ。穏やかな寝顔に指を伸ばそうとして、すんでで思いとどまる。愛おしいだなんて、私に思う権利などない。
朝が遠くから迫ってくる気配がした。行かなきゃ、と思うのに、体は指示に従わない。眠ったままのはずなのに、ヴェルナーが身じろぎをして、その逞しい腕で私を抱き締めた。自分を好きだと言ってくれる人と、こうして眠るのは最後なんだ、その実感が涙として溢れ出て、彼の胸を濡らす。
彼はこれからも、その大きな手を私へと差し伸べ続けるだろうか。その手を取って、彼の胸に洋々と広がる愛の海に飛び込んで、二人で溺れてしまえたら。
そんなことを考えられるのも、今だけだ。もう少ししたら、私は私の想いを殺す。それまで、あと僅かだけ、このままで。
私はヴェルナーの腕の中で、声を殺して咽び泣いた。
* * * *
―ヴェルナー・シェーンヴォルフの話
行為の後、いつの間にか眠ってしまったらしいことを、暗がりの中で目覚めて知る。
まだ夜明け前だ。目が覚めた原因は衣ずれの音だった。シャーロットが服をその身に纏い直している。濃紺のカクテルドレスではなく、ダークグレーのパンツスーツを。信じられないことに、傍らにはキャリーケースが置かれていて、既に荷支度を整えてある風情だ。
ベッドの上で起き上がると、彼女の澄んだ眼がこちらを向く。
「起こした? ごめんなさいね」
「ロッティちゃん……? どこに行くの」
「決まってるでしょ。イングランドに帰るのよ。部屋の鍵はお願いね」
「どうして? まだ夜なのに……。そんなに焦らなくても──」
「あなたと違って、私は忙しいの」
「そんな……せめて朝まで、一緒にいられない?」
「駄目よ。それは恋人がすること。私たちは違うでしょう」
追い縋る調子の俺の言葉へ、シャーロットは静かに答える。その声は高地に吹くそよ風のように優しく、清涼で、それでいて冷淡だった。俺の下で取り乱していたのが嘘だったみたいに、シャーロットは淡々としていた。
厳然とした事実を突きつけられ、俺の喉は言うべき単語を何も発せられない。ああこれで、シャーロットは他の男に抱かれる準備が整ったのだな、とぼんやり考える。
仕事着を身につけたシャーロットは、もはや元の彼女ではなかった。未知に震える雛ではなかった。そこにいる彼女はもう、俺の手が届かないところへ飛びたってしまっていた。その理解が、俺の心にざっくりと傷をつける。
シャーロットが体の正面をこちらに向き直す。粛然とした佇まいで、俺への言葉を紡ぐ。
「私はあなたが、私の頼みを断らないことを──断れないことを、初めから知ってた。それを分かっていて、私はあなたを利用したの。あなたの好意を踏みにじったのよ。……非道い女だと思ったでしょう」
それを、俺は全裸のままで聞いている。阿呆みたいだった。
でも君は、俺のことを分かってないよ、シャーロット。苦笑して、肩を竦める。
「全然だよ。本当に非道い人間は、自分を非道いだなんて言わない」
「……あなたはもっと気をつけた方がいいわ。あなたは優しすぎる。だから私みたいな、たちの悪い女に付け入られるのよ」
「君はたちの悪い女なんかじゃないし、そんな心配も要らないよ。俺が好きなのは、君だけだから」
シャーロットは押し黙り、眉間に力を入れ、奥歯を噛む。苦痛に耐えている表情。
好きだなんて言ってごめんね、と心の中で謝る。だけど、本当のことなんだ。応えてほしいとも思わない。
籠で歌う鳥より、自由に羽ばたく鳥の方が美しい。
俺は語りかける。遥か彼方へ飛び去らんとする彼女に。
「優しくできなくてごめんね。君に辛い思いをさせてしまった。泣かせてごめん」
「あなたが気に病む必要はないのよ。私が望んだんだもの。私があなたに、頼んだことよ」
「それでも君に……優しくしたかったんだ。ロッティちゃん、どうか忘れないで。俺はいつでも、君だけを愛してる」
「……私のわがままを聞いてくれて、ありがとう。さよなら」
ぽつりと言い残して、最愛の人は未明の闇へ消えていった。
ドアが静止するのを見届けてから、ベッドに倒れこむ。シーツからシャーロットの残り香が立ちのぼる。酷い気分だった。彼女のすすり泣きが、耳にこびりついて離れてくれない。生まれてこのかた、こんなに惨めな気持ちになったことはなかった。
シャーロットは俺を利用したと言った。俺の好意を踏みにじったと表現した。
それは違うよ、と俺は唸る。
俺は嬉しかった。まるきり打算の意図しかなくとも、彼女が俺を選んでくれて、とても嬉しかった。シャーロットに利用され、いいように扱われ、最終的にボロ雑巾同然に棄てられようと構わなかった。むしろ、それが俺の願いだった。ひたむきな望みだった。
俺を利用してよ、ロッティ。
擦り切れるまで利用して、そうして手酷く棄ててくれ。
でもそれを言う相手はもういない。小鳥は飛びたってしまっていた。
朝の歌を聞かせてくれないままに。
冷えた夜気が体を浸食してくる。冷たい夜はまだ、明けない。




