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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
36/137

彼らのこと・回想 The Bird doesn't sing a Aubade. (4/4)

 初めての子を相手にしたことがないわけじゃないが、そう経験が多いわけでもない。じっくり時間をかけて慣らしていく。大丈夫、夜は長いのだ。そう焦ることはない。


「ヴェルナー……」


 シャーロットが俺の名をうわ言のように繰り返す。その様子は切なげと言ってもよく、俺の心臓がきゅうと締めつけられる。表情は今や溶けきって、瞳は生理的な涙で潤んでいた。蠱惑的に腰がくねる。その乱れた顔を他の男の前で見せるのだ、と思うとたまらない。嫉妬で気が狂いそうだった。

 俺だけを見ていてほしかった。永遠が叶わないならば、せめてこの一瞬だけ。この夜だけは、どうか。

 俺よりも幾回りも小さいシャーロットの手が、添え木を探す植物みたいに俺の腕を掴む。


「ヴェルナー……我慢できないの、早く来て……足りないの……」

「ロッティちゃん、そんなこと言われたら俺──」

「ヴェルナーの……もっと熱いの、ほしい……」

「どこで覚えたの、そんなの……」


 シャーロットの表情が、声が、吐息が、体が、体温が、匂いが、水音が、俺の欲望を煽る。もう限界だった。

 一緒に気持ちよくなりたい。

 シャーロットの上に跨がる。この光景が幻だったとしても驚かない。彼女の瞳の中に恐怖はなかった。

 シャーロットがびくりと反応して、俺の体に足を絡めてくる。極力ゆっくり、少しずつ、深くしていく。シャーロットの呼吸は上がり、顔は徐々に痛みに耐えて歪んでいったけれど、苦悶の表情にまではならなかった。

 繋がった悦びを感じたのは、きっと俺だけだっただろう。


「動くね。辛かったら言って」


 腰をスライドさせる。奥を突くたび、甲高い声が可憐な唇から漏れ出た。

 シャーロットと、ひとつになっている。

 その事実だけが真理で、他のことなんてどうでもよかった。俺はシャーロットを愛しているのだと、その時強烈に感じた。愛している。世界で、シャーロットだけを。


「好き。大好き。愛してる」


 体位を変える。リズムを変える。

 シャーロットはいやいやをするように、首を振る。君が俺を好きじゃないのは分かってる。でも言わずにいられなかった。


「ヴェルナー……だめ……」


 不意に、彼女が呻いた。俺は慌てる。一人で突っ走りすぎたか? 好きな人と繋がれたのが嬉しくて、独りよがりになっていたかも?


「ごめんっ、痛かった? 苦しい……?」

「駄目よ……」


 涙で潤みきった眼が、俺を見上げていた。


「そんなに優しかったら、練習にならないでしょ……っ、もっと、酷くして……」


 シャーロットの言葉は震えていた。切実な、乞うような声色だった。俺の体もぞくりと震える。

 彼女の泣きそうな声が、自分の内には存在しないと思っていた暗い欲望に、火を点けたのを感じた。


「──ごめん」


 俺は本能の欲求に従い、シャーロットを抱いた。いろんな角度、いろんな深さ、いろんなリズムで。こんなめちゃくちゃなのは初めてだった。それは抱くというより、犯すと表現した方が正しかった。大好きな人を、世界でただ一人愛している人を、俺は欲望の赴くまま、身勝手に、でたらめに犯した。

 シャーロットの目尻に光るものが伝ったとき、俺はなんてことをしているんだ、と愕然とした。


「……ロッティちゃん、もうやめよう……?」

「やめないで……お願い……」


 シャーロットは必死になっていた。影のために、任務のために、汚くなるために。それが彼女の願望ならば、叶えてあげたかった。俺にできるなら、叶えなければと思った。俺は自分のなかの理想を殺した。

 シャーロットは声を押し殺し、泣きじゃくっていた。この腕のなかで。俺が、泣かせたのだ。彼女がっても、唇を噛み、腰を動かし続けた。部屋に嗚咽が響いた。幸福感などとうにしぼみきっていた。

 俺は何度目かの絶頂を迎え、罪悪感という名のどろどろした液体が、薄いゴムの内部に溢れ出る。

 俺は彼女に、ちっとも優しくできなかった。


 * * * *

―シャーロット・エディントンの話


 ふと目が覚めると、窓の外には冷たい夜が残っていて、隣ではヴェルナーがすうすうと寝息をたてていた。私は今夜、この人に抱かれたのだ。穏やかな寝顔に指を伸ばそうとして、すんでで思いとどまる。愛おしいだなんて、私に思う権利などない。

 朝が遠くから迫ってくる気配がした。行かなきゃ、と思うのに、体は指示に従わない。眠ったままのはずなのに、ヴェルナーが身じろぎをして、その逞しい腕で私を抱き締めた。自分を好きだと言ってくれる人と、こうして眠るのは最後なんだ、その実感が涙として溢れ出て、彼の胸を濡らす。

 彼はこれからも、その大きな手を私へと差し伸べ続けるだろうか。その手を取って、彼の胸に洋々と広がる愛の海に飛び込んで、二人で溺れてしまえたら。

 そんなことを考えられるのも、今だけだ。もう少ししたら、私は私の想いを殺す。それまで、あと僅かだけ、このままで。

 私はヴェルナーの腕の中で、声を殺して咽び泣いた。


 * * * *

―ヴェルナー・シェーンヴォルフの話


 行為の後、いつの間にか眠ってしまったらしいことを、暗がりの中で目覚めて知る。

 まだ夜明け前だ。目が覚めた原因はきぬずれの音だった。シャーロットが服をその身に纏い直している。濃紺のカクテルドレスではなく、ダークグレーのパンツスーツを。信じられないことに、傍らにはキャリーケースが置かれていて、既に荷支度を整えてある風情だ。

 ベッドの上で起き上がると、彼女の澄んだ眼がこちらを向く。


「起こした? ごめんなさいね」

「ロッティちゃん……? どこに行くの」

「決まってるでしょ。イングランドに帰るのよ。部屋の鍵はお願いね」

「どうして? まだ夜なのに……。そんなに焦らなくても──」

「あなたと違って、私は忙しいの」

「そんな……せめて朝まで、一緒にいられない?」

「駄目よ。それは恋人がすること。私たちは違うでしょう」


 追い縋る調子の俺の言葉へ、シャーロットは静かに答える。その声は高地に吹くそよ風のように優しく、清涼で、それでいて冷淡だった。俺の下で取り乱していたのが嘘だったみたいに、シャーロットは淡々としていた。

 厳然とした事実を突きつけられ、俺の喉は言うべき単語を何も発せられない。ああこれで、シャーロットは他の男に抱かれる準備が整ったのだな、とぼんやり考える。

 仕事着を身につけたシャーロットは、もはや元の彼女ではなかった。未知に震える雛ではなかった。そこにいる彼女はもう、俺の手が届かないところへ飛びたってしまっていた。その理解が、俺の心にざっくりと傷をつける。

 シャーロットが体の正面をこちらに向き直す。粛然とした佇まいで、俺への言葉を紡ぐ。


「私はあなたが、私の頼みを断らないことを──断れないことを、初めから知ってた。それを分かっていて、私はあなたを利用したの。あなたの好意を踏みにじったのよ。……非道ひどい女だと思ったでしょう」


 それを、俺は全裸のままで聞いている。阿呆みたいだった。

 でも君は、俺のことを分かってないよ、シャーロット。苦笑して、肩を竦める。


「全然だよ。本当に非道い人間は、自分を非道いだなんて言わない」

「……あなたはもっと気をつけた方がいいわ。あなたは優しすぎる。だから私みたいな、たちの悪い女に付け入られるのよ」

「君はたちの悪い女なんかじゃないし、そんな心配も要らないよ。俺が好きなのは、君だけだから」


 シャーロットは押し黙り、眉間に力を入れ、奥歯を噛む。苦痛に耐えている表情。

 好きだなんて言ってごめんね、と心の中で謝る。だけど、本当のことなんだ。応えてほしいとも思わない。

 籠で歌う鳥より、自由に羽ばたく鳥の方が美しい。

 俺は語りかける。遥か彼方へ飛び去らんとする彼女に。


「優しくできなくてごめんね。君に辛い思いをさせてしまった。泣かせてごめん」

「あなたが気に病む必要はないのよ。私が望んだんだもの。私があなたに、頼んだことよ」

「それでも君に……優しくしたかったんだ。ロッティちゃん、どうか忘れないで。俺はいつでも、君だけを愛してる」

「……私のわがままを聞いてくれて、ありがとう。さよなら」


 ぽつりと言い残して、最愛の人は未明の闇へ消えていった。

 ドアが静止するのを見届けてから、ベッドに倒れこむ。シーツからシャーロットの残り香が立ちのぼる。酷い気分だった。彼女のすすり泣きが、耳にこびりついて離れてくれない。生まれてこのかた、こんなに惨めな気持ちになったことはなかった。

 シャーロットは俺を利用したと言った。俺の好意を踏みにじったと表現した。

 それは違うよ、と俺は唸る。

 俺は嬉しかった。まるきり打算の意図しかなくとも、彼女が俺を選んでくれて、とても嬉しかった。シャーロットに利用され、いいように扱われ、最終的にボロ雑巾同然に棄てられようと構わなかった。むしろ、それが俺の願いだった。ひたむきな望みだった。


 俺を利用してよ、ロッティ。

 擦り切れるまで利用して、そうして手酷く棄ててくれ。


 でもそれを言う相手はもういない。小鳥は飛びたってしまっていた。

 朝の歌(オーバード)を聞かせてくれないままに。

 冷えた夜気が体を浸食してくる。冷たい夜はまだ、明けない。

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