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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
34/137

彼らのこと・回想 The Bird doesn't sing a Aubade. (2/4)

 影という組織には、三つの部署がある。支援部、諜報部、それから俺のいる執行部だ。

 シャーロットは以前は支援部の所属だったはずだが、俺と一緒ということは、今は執行部所属ということか。執行部とは、とどのつまりは相手と直接事を構える部所だ。一番の下衆人の集まりだ。

 支援部から執行部への異動。

 その制度は、あるにはある。だがそれは、滅びた文明の荒廃した遺跡よろしく、ひっそりと規律のなかに打ち捨てられているものにすぎない。異動認可のための試験は、身体能力やら戦闘技術やらの基準がやたらと厳しく、幼少から訓練を受けた者でないと、クリアするのがほとんど不可能なのだ。

 それを、シャーロットはパスした。

 軽い目眩に襲われる。どれほど努力したのだろう。どれほど苦労したのだろう。あの、男を前にしただけで狼狽えていた、線の細い女の子が。


「──頑張ったんだね」

「今も、頑張っている途中よ」


 辛さなど微塵も感じさせない、彫像めいたほほえみ。仮面の上から張りつけた、作り物の笑顔。

 不意に、周りの状況なんかぜんぶ無視して、澄ました形の椅子なんか蹴り倒して、彼女をぎゅっと抱きしめたい衝動に駆られた。

 けれど、なけなしの理性が俺を座面に縫いつけて、ワイングラスをすっと持ち上げさせるにとどめる。


「そっか……つまり、君もろくでもない連中の一員ってわけだ。ようこそ、人でなしの集まりへ」

「ありがとう」


 乾杯は既に済んでしまっていたけれど、シャーロットもグラスを掲げてくれ、二人揃って赤い液体を口に含む。

 ああ、渋いな。すごく渋い。


「ねえ、どうして部署変えなんてことをしたのか分かる」


 今度は試すような視線が向けられる。俺は閉口して、顔の横でひらひらと手を振った。婉曲な表現は嫌いじゃないが、シャーロット相手に腹の探りあいみたいなことはしたくない。


「回りくどいのはやめにしよう。聞きたい話って、ルネのことだろ」

「今の話でよく分かったわね。そうよ」

「俺が話せる内容で、君が聞きたいことなんて、それくらいしか思いつかないからね。君はルネの背中を追いかけて、部署変えをした。そういうことじゃないのかな」


 シャーロットがゆっくりと、噛み締めるように頷く。

 ルネ・ダランベール。

 執行部所属の、俺のかつての上官。シャーロットが親しくしていた相手。ルネはもうこの世の人ではない。敵の手にかかって、二年前に死んだ。

 ルネとシャーロットは女性同士ということもあってか、しばしば二人きりで長々と話しこんでいた。何を話していたのか俺は知らない。二人でいるところに近寄っていったら、しっしっとルネによく追い払われたものだ。

 柄にもないかもしれないが、俺はルネを尊敬していた。上官として、人間として、心から慕っていた。彼女は全き真のリーダーだった。

 そして、ルネに敬愛の情を持っていたのはシャーロットも同じだったのだろう。道半ばで途絶えてしまった彼女の足跡を、シャーロットは辿ろうとしている。追いつこうとしている。そしていつか、追い越そうとしているのだ。

 そう考えると、日中シャーロットが身につけていた男性的なスリーピーススーツも、男だらけの執行部にあって、課せられた使命を果たしていくことへの決意の表れに思えた。


「それで、ルネの何が聞きたいんだい」

「辛かったらごめんなさい。……最期のこと」


 申し訳なさそうに、シャーロットが切り出す。予想はついていた。シャーロットは、ルネの死に目には立ち会えていないから。

 それは、思い出というにはあまりに生々しい記憶だ。

 もう二年。まだ二年。

 血染めの最期だった。美しい銀髪を自らの鮮血で染めて、命を髪に吸い取らせて、ルネの体は少しずつ熱を失っていった。永遠の眠りが近づいても、彼女は苦痛の中で笑っていた。死ぬのが自分で良かった、君たちでなくて良かった、と。

 思い出す必要もない。思い出すには一度忘れる必要がある。脳裏から消えてくれない光景を、思い出すことはできない。

 今際いまわにルネは、私を忘れて、と言った。愛する人へ、私を忘れて幸せになってくれ、と。それはどんなに想像を絶する心境だったろう。

 目の奥からとめどなく溢れ出る涙の熱さを、今まさに経験しているように、俺は想起することができる。嘘だろ、という内心の叫びが、頭の中で何度も反響した。目の前の状況を理解することを、脳が拒絶していた。戦友は、二度と動かない彼女を腕に抱いて、体の動かしかたを忘れてしまったように、呆然としていた。

 眼前のシャーロットに語った後で、最期は笑って逝ったよ、と付け加える。

 シャーロットが詰めていた息を吐く。


「私ね、ルネさんが亡くなったなんて、今でも信じられないの。何事もなかったみたいに、ルネさんがひょっこり帰ってくるんじゃないかって、まだ思ってるわ……」

「……そっか」

「──ごめんなさい。すべてを見ていたあなたの前で、軽率な発言だったわね……気を悪くしたかしら」

「いや……いいんだ」


 俺は戦友のことを考えていた。一度も涙を見せずに影から去っていった、日本人らしく真面目で堅物で、ルネを愛していた男のことを。

 ルネの死後、彼は虚無に覆われたその黒々とした眼で、じっと死を見つめていた。見えない死の輪郭をなぞるような、怖いくらいまっすぐな視線で。影を辞める直前の彼は、一歩踏み間違えばふらっと彼岸へ行ってしまえる、そんなぎりぎりのところに立っていた。俺にはそう見えた。

 どうにか、彼の喪失感を癒してくれる人やものが見つかっていればいいが、と願わずにいられない。

 ウェイターが、コースのメインディッシュを運んでくる。芳しい赤ワインのソースを絡めた、牛肉のフィレステーキ。ウェイターが去るまで、お互いじっと肉汁滴るそれを眺めた。

 ミディアムレアの肉塊にナイフを入れながら、シャーロットが問う。


「ルネさんは、幸せだったのかしら」

「死者が幸せだったか不幸だったか、それを論じることに意味はないよ。その議論は、生者の慰めにしかならない。死ってのは、生者だけに意味のあることだ」

「ずいぶん達観してるのね」

「そうだね。死んだ生き物の肉を味わいながら、血の色の飲み物を楽しみながら、死者の話をすることができる人間だよ。俺も、君もね」

「……そうね」


 シャーロットの返事は、考え事に沈んでいた。

 俺は大きめに切り分けたステーキを頬張る。咀嚼する。中から肉汁が溢れ、牛肉の風味が口内を満たす。死者の沈黙は永遠だ。俺たちはいつまでも、その沈黙に耳を澄ましているわけにはいかないのだ。嫌でもこうやってものを食べて、生きて、前に進まねばならないのだ。時間の歩みに取り残されないように、不断の流れにしゃにむにしがみついて。

 その後は他愛もない近況報告をした。料理はどれも美味しかった。文句なしに和やかな店内において、いつになくしんみりした気分だった。シャーロットに聞きたい話がたくさんあったはずなのに、なぜだか言葉はあまり浮かんできてはくれなかった。



 店の外では夜風が冷たい。薄着のシャーロットに、スーツの上着を羽織ってもらう。その上で、つい無意識にシャーロットの細い腰に手を回していた。女性と歩くときの癖だ。振り払われるかと思ったが、意外にもすんなり受け入れられる。


「嫌がらないのかい」

「話を聞かせてもらったから」


 等価交換というわけだ。

 シャーロットの瞳の奥では、何か強い決意が揺らめいている。


「今日は泊まるんだろ。同じホテルだし、部屋まで送っていくよ」

「ありがとう」


 本当はずっと、一晩中でも寄り添っていたかったが、この心境と雰囲気ではできそうもない。あっという間にホテルに着いてしまい、名残惜しいながらお別れのハグをする。それはもう長々と。食事前の彼女と別人みたいに、シャーロットは妙に従順だった。


「じゃあ、おやすみ」

「ヴェルナー、ちょっと待って」


 袖を強く引かれる。体の向きを変えようとしていた俺は、簡単に体勢を崩す。強引に部屋に引き入れられた。

 背後で重い金属の音がする。ドアの鍵が自動的にかかったのだ、と思ったか思わないかのうちに、シャーロットにキスされていた。

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