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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
32/137

彼らのこと・回想 夜の檻/澱に歌う(2/2)

 今回の任務絡みで、ヴェルナーとは久しぶりに連絡を取った。罵られるかもしれない、と予感していた。

 たとえ彼から罵声を浴びせられても、自分の行為への当然の罰として受け入れられたはずだった。しかしヴェルナーから私に向けられたのは、罵言ばげんではなくて好意だった。

 私は当惑した。差し出された優しさを上手に納めておく場所など、心のどこにも存在しなかったから。いっそ罵倒してくれた方が良かったのに、"あの夜"を超えてもなお変わらない彼の態度は、私を少なからず動揺させた。

 これ以上、平気な顔をして、ヴェルナーの前に居ることはできない。彼に背を向け、ドアレバーを押し下げる。

 後ろで、衣ずれの音がした。


「もっと一緒にいたい」


 後ろから、力強い腕に抱きすくめられる。耳元で囁く低い声が、ぎゅっと心臓を締め付けた。

 苦しくないぎりぎりの強さの、抱擁の圧力。密着した服越しに伝わる、彼の肌の熱。そしていつもは付けていないはずの、男物の香水がほんのりと鼻腔に香る。

 その匂いを嗅いだ途端、強いアルコールを飲んだ瞬間のように、視界と脳がくらりと揺れた。彼に酔う、という表現が脳裏をかすめ、書き損じにするみたいに、脳内のペンでぐしゃぐしゃに塗りつぶす。

 耳に息がかかるほどの距離で、ヴェルナーが熱っぽく私の名を呼んだ。発熱する前みたいに、体がぞくぞくした。


「何をするの」


 彼の腕の中で身をよじり、ヴェルナーの赤い双眸を捉えたところで、下から睨みつける。さらなる抗議の声をあげようとした口は、ヴェルナーのそれで塞がれた。

 あっ、と思う暇もなかった。

 無意識に全身がびくりと跳ね、背筋を悪寒とも快感ともつかない震えが走る。反射的に彼の体を押すと、そこにはいつかの夜と同じ、どっしりとした胸板があった。

 背後には硬いドアがあって、逃れることができない。腰をしっかりと抱かれ、唇を柔らかくまれ、ヴェルナーの思うまま、容易く歯列を割られた。別の生き物にも思える、熱い舌が中に入ってくる。なんて、狂おしいほどの熱量なのだろう。

 ヴェルナーは角度と深さを変えて、私の中心まで侵さんと迫り、熱を与える。いつの間にか後頭部に添えられた指が、髪を内部から掻き回す。

 次第に頭が空っぽになって、じわりと視界が潤み、体の奥の方がじんじんと疼きだした。鼻から漏れる自分の息が、甘ったるい響きを含んでいて、嫌悪を覚える。彼の火傷するほどの熱情で、全部溶かされかけている。頑なに閉ざしていたはずの心の扉まで、ヴェルナーにこじ開けられそうになる。

 これほどはげしく私を求めるのは、後にも先にも、きっと彼だけだ。

 脳髄を満たす甘やかな痺れ。思考に濃い霧がかかって、何も考えられない。腰に力が入らなくなり、思わず支えをヴェルナーの体に求めると、まるで縋りつく格好になった。

 ヴェルナーが少しだけ含み笑いを漏らして、体を離す。しようと思えば腕ずくで何でもできるだろうに、ヴェルナーはそれ以上は欲してこなかった。

 彼の片手は私の腰に添えられたままだ。その感触を心地よいと感じてしまう私は、本当に愚かしく、どうしようもない。

 ヴェルナーが自分の唇を舌でぺろりと舐める。


「愛してる」

「……そんなの、他の女にも言ってるんでしょう」

「君だけだよ」


 大きな掌がそろりと頬に触れた。

 ヴェルナーは女の扱いが上手かった。きっと何人もの女の体を愛撫し、その耳に愛を囁き、唇に熱情を落としたに違いなかった。

 熱い手だった。彼の手は真冬でも熱くて、その手で触れられると、彼の熱を受け入れることしかできないのだった。炎の人なのだと思う。


「……発情期の犬だって、もう少し節度があるわよ」

「そう言う割には抵抗しないんだね」


 ヴェルナーが男の顔をして言う。私を見つめる赤い眼の奥に、青白い情欲の炎が灯って見える。けれど口元に浮いているのは、痛みをこらえている時と同じ、切なげな微笑だった。

 彼の親指が、目の下あたりを優しく撫でる。


「君のこと、もう泣かせたりしないから」

「──あなたが泣かせたんじゃないわ。あれは私が勝手に泣いただけ」

「同じことだよ」


 私の胸が、ちくりと痛んだ。

 ひどく緩慢な、涙がじりじりと伝う速度で、指が頬の上をなぞって落ちる。熱い指先は、顎にまで達すると、舟が岸から離れるみたいに、ふっつりと離れていった。

 両手をポケットに突っ込んだヴェルナーが、ねえロッティ、と呼びかける。


「君はあの日(・・・)のことで、俺に負い目を感じてるから、抵抗しないのかい。それなら、そいつは思い違いってやつだぜ。俺は君を縛らない。君は自由だ」


 息が詰まった。

 普段はおちゃらけているくせに、こういう時ばかり、ヴェルナーの言葉は簡単に核心を突く。

 あの日。忘れられない夜のこと。

 私は一度、彼の逞しい体に縋ってしまった。彼の優しさに付け入って、彼を利用した。その行為は恐らく、彼を深く傷つけた。涙を、見せてしまったから。

 私は彼の好意には応えられない。応える資格がない。私は、彼に後悔を植えつけただけの女だ。

 だのに彼は、私に負い目を感じるなと言う。縛られるなと言う。小賢しい女だと知ってなお、愛していると言う。

 そんな風に、まっすぐな目で見ないでほしかった。ヴェルナーの尽きることのない情愛は、私のように打算的でなく、もっと普通の、純粋な心を持った人に、注がれるべきだと思った。そうしてそのようなひとと二人で、幸せになってほしかった。

 互いにぽつぽつと、呟くように会話をする。


「……自由だと言う割に、私を諦めてくれる気はないのね」

「勿論」

「私はあなたに酷いことをしたのよ。あなたの心を傷つけた」

「傷ついたのは君の方だろ。俺のことは気にしなくていい」

「……あなた、頭がおかしいんじゃないの」

「うん、君のことが好きすぎて、おかしくなっちゃったかもしんない」

「罵ってくれていいのよ? 誰にでも体を許す尻軽女だって」

「そんなこと、俺が言えた義理じゃないさ。君は仕事で仕方なくそうしてるだけ。それに君は、体を許しても心までは捧げちゃいない。そうだろ」


 そう言って微笑むヴェルナーの表情には、明らかな憂いが滲んでいる。これが傷ついた人の顔でなくて、何だというのだろう。

 ぐっと顎を上げ、ねえヴェルナー、と今度は私が呼びかける。


「あなたは、起こりうると思うの。籠から逃がした鳥が、自分から籠の中に戻ってくるなんてことが」


 あの日の夜、私は確かに彼の籠の中にいた。計算ずくの行為が終わって、私が去ろうというとき、ヴェルナーは私を引き留められたはずなのだ。その意思さえあったなら。

 彼はそれをしなかった。彼自身の優しさのために、私を逃がした。籠の外で私がする行為が、再び自分の心を傷つけると知っていて。

 ヴェルナーは今も、籠の扉を開け放して待っているのだ。自らが開けた籠の中へ、私が舞い戻ると信じながら。 

 彼は煩悶を隠すように伏し目がちで、その様子が却って、痛々しげだった。


「そうだねぇ……そういうことがあってもいいんじゃないかな、とは思ってるよ」

「そう……そうね。何をどう信じるかは人の勝手だわ。たとえそれが、どんなに現実味の薄いことだとしてもね」


 私の言葉はもはや八つ当たりになっていた。

 目の前の微笑は揺らがない。私の方が泣きそうだった。

 ヴェルナーの優しさは、見はるかす海のようにどこまでも広く、大きく、深かった。私がどんなに酷い仕打ちをしようとも、かすかな笑みをその口元に湛えて、全てを受け入れ、全てを許すに違いなかった。

 こんなに狡い女に、変わらぬ愛を囁いてくれる、彼の神経が理解できない。私には、底のないその優しさが怖かった。


 彼の優しさは私を駄目にする。


 今度こそ、私は彼に背を向けた。

 私たちの間には、忘れられない夜が横たわっている。二人を繋ぐのもその夜で、隔てるのもその夜だ。こんなに近くにいるのに、彼との距離はこの上なく、遠い。

 あの日から、私の夜は続いている。彼の籠から飛び出ても、終わらない夜に囚われている。淀んだおりの底で、果てない夜の檻の中で、もがいている。

 それでもあの夜を、過ちだとは思いたくない。

  私の本当の名前を呼びながら、私を抱きしめてくれる人は、きっと後にも先にもヴェルナーだけだろうから。

 彼からの二度目は無く、ドアが閉まる直前、ヴェルナーが私へ向けて小さく手を振った。

     

「またね、Vögelchen(小鳥ちゃん)


 私は彼の部屋に背を向ける。かちゃりと小さい音をたて、ドアが閉まった。

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