彼らのこと・回想 夜の檻/澱に歌う(1/2)
─シャーロット・エディントンの話
私は彼の体を知っている。
影の執行部唯一の、女性エージェント。
それが今の私の肩書きだ。
執行部の上司から、または諜報部から指示された、敵対組織の"罪"の人間を始末する。それが私たちの本来の仕事だけれど、私のところにはもっと、色んな依頼が回ってくる。
例えば、体で機密情報を奪ってこい、だとか。
そんな時だって、私は顔色ひとつ変えずに任務を遂行することができる。シャーロット・エディントンという本当の名を意識の彼方へ追いやり、ターゲットの男に盲目的で、頭はいいけれど世間知らずな女になりきる。自分に覆い被さってくる男を、哀れだと感じる余裕さえある。
好きでもない男の粗雑な指づかいや、柔らかくもない唇の感触。
それが私の日常。
今回の仕事は、そんな秘儀めいた行為を一切伴わない、とある政治家の護衛という堅い業務だった。
さるパーティーに出席する間の護衛を頼みたいというのが氏の秘書からの申し入れで、民間人が多く招かれたパーティーの場に、通常のSPがうろうろするのは好ましくない、という判断に基づくものだ。 私たちはそういう一般的な仕事も請け負っている。合法的かつお金になることなら、我々はどんな依頼でも受ける。
その政治家は、資金面で裏社会と繋がっていると専らの噂だった。彼は市長戦への立候補を控えており、どうもそれをきっかけに、裏との関係を断とうとしているらしかった。
裏の住人が腹を立て、報復を目論むかもしれない。出席者に紛れ、怪しい人物がいないか見張ってほしい。依頼内容はそんなところだった。
正直気の進まない仕事だったが、引き受けた以上、文句は言えない。
「金さえ貰えりゃあ俺は何でもいいよ。依頼主が汚いおっさんだろうが何だろうが、きっちりやることやるだけさ」
任務のパートナーとして呼び寄せた、ヴェルナー・シェーンヴォルフはそう言って笑っていた。年配の有力者ばかり招かれたパーティーに若い女、つまり私が一人でいては嫌でも目立つので、異性のパートナーを探した次第だ。そこに他意はない。声をかけたのはヴェルナーが最初でもないのだから。
依頼主の恐れた通り、会場では一悶着起こって、私たちは少々暴れる羽目になった。我々にとってはよくある事態だ。特筆すべきことでもない。
任務完了の報告を終えてホテルに戻る頃には、深夜といってよい時間になっていた。
堅苦しいロイヤルブルーのドレスを脱ぎ、シャワーを浴びて整髪料を洗い流し、ブラウスとスラックスという格好に着替える。いつもならここにベストとジャケットとクロスタイを加えるが、面倒なので部屋に置いていく。髪を乾かすのもそこそこに、部屋のキーだけを持って、自分に宛がわれた居室を後にした。
風を切って、大股で廊下を進む。敷かれた紺色のカーペットが、ピンヒールの衝撃音をすっかり受け止めてくれる。
目指す部屋番号の扉が見えた。コンコンコン、と小さくノックする。
「はーい」
緊張感のない声とともにドアが開き、同僚であるヴェルナーのやや野性的な、整った顔がひょいと覗く。私を見るやにっこりと相好を崩し、そのまま大きくドアを内に引いた。
「どうぞ、ロッティちゃん」
「夜遅くにごめんなさい」
「いやァ全然、気にしないで」
ヴェルナーの部屋はなぜか暗く、彼自身はパーティーに出席したままの格好だった。上等な黒のスーツにシルバーのベストとネクタイを合わせ、前髪と襟足はワックスで撫で付けている。一暴れしたというのに、髪型には少しの乱れもない。
まともな格好ならそれなりに見えるのに、という気持ちは口に出さずにおく。言ったらきっと付け上がるからだ。
「電気くらい点けたら」
「月をね、見てたんだ。満月。綺麗だよ」
そう言ってカーテンが開かれた窓の外を指差す。部屋の入り口からは、天頂近くにあるはずの月の姿は角度的に捉えられない。それでも、ぼんやりと浮き上がった景色が、冴えた月の輝きを仄めかしていた。
暗い部屋で満月を眺めるなんて、ヴェルナーは意外とロマンチストなのかもしれない。私とは違って。
満月を見てると少し怖くなるよ、とヴェルナーが抑えた声で呟いた。
「怖い? なぜ」
「俺の名字に、狼って入ってるだろ。満月を見てるとさ、君を襲う狼に変身しちゃいそうで怖いよ」
シェーンヴォルフ。
雰囲気をぶち壊しにする発言をして、ヴェルナーが尖った犬歯を覗かせて獰猛に微笑む。本当に、飢えた狼のようだと思う。
「あなたはいつでも下品な狼みたいなものよ。今さらそんなの杞憂でしょう」
突っぱねるように言葉を投げると、ヴェルナーが首を傾げ、怒らせちゃった?と思案げに指で頬を掻いた。意味を図れず、何が、と問い返す。
「君以外に綺麗なんて言葉を遣うから、気に障ったのかと思って」
「……月相手に、嫉妬なんかしないわよ。あなたが何に対してどんな言葉を遣おうが、私の知ったことじゃないわ」
「ムキにならなくても、今宵の君は世界一綺麗だったよ。君のドレス姿は素晴らしく美しかった。脱いでしまったのは残念だ、まだ見ていたかったのに」
噛み合わないヴェルナーとの会話で、先刻シャワーとともに洗い流したはずの疲労感が、体にじんわりと広がってくる。
彼と久しぶりに会って、ああそうだ、こんな男だった、と記憶が甦っていた。歯が浮くような台詞を、ヴェルナーは何でもないような顔で口にする。だから信用されないのだと、彼が理解する日は来るのだろうか。
ヴェルナーがにじり寄ってきて、まだ湿り気を含んだ私の髪に触れた。彼の赤い双眸に、慈愛めいた光が宿っていることを、私は知覚する。掬い取られた金髪の一房が、彼の指のあいだを流れ落ちる。
「ねえ、着飾ったままするのもいいと思わない?」
ゆったりとした低い囁きに対し、何を、とは訊かない。着替えてきて、本当に良かったと思う。
「──あなた、私のことばかり見ていたの。任務中でしょう」
「俺はいつでも君だけを見てるよ」
ヴェルナーがさらにぐっと近づいてくる。たった今の発言を体現するような、まっすぐな視線に射抜かれて、その場に釘付けになった。
彼の瞳には上目遣いの私が映りこんでいた。こうして見下ろされると、私たちが女と男であることを否応なく突き付けられる気がして、背中のあたりがひどくざわついた。
「ところで、どんな御用かな。夜の相手なら喜んでお受けするけど」
ヴェルナーが腰に手を回してくるのを、間髪入れず振り払う。
「あなたにお礼を言いに来たの。わざわざドイツから来てくれて、ありがとう」
「水くさいな。君のためならどこへでも行くさ」
「そんな便利屋みたいなこと、言っていいのかしら」
「だって俺は君のものだから。ずっと前からね」
真剣な眼差しで、さらりとそんなことを言う。
「……要らないわ」
「つれないなァ」
ヴェルナーは肩をすくめ、寂しそうに笑った。あまり見たことのない彼の表情に、心が漣立つ。
不意にヴェルナーが目を伏せて、私の右手を恭しく掬い取った。そのまま口元へそっと運んで、指先に唇を押し当てるだけの、優しい口づけをする。彼のそんな仕草に、胸が詰まるような苦しさを感じてしまうのはなぜだろう。
「……あなたには似合わないわ、そういうの」
「やっぱり?」
ヴェルナーがにやっと笑う。わざと礼儀を欠いた私の物言いにも、気を害した気配はない。
迷いなく私を見つめる彼の視線に、ある夜のことが思い出された。
ひんやりした夜気が指の先から浸食してくる、そんな冷たい夜。あの日も彼は同じ目をしていた。どこか悟ったような、見るもの全てを包み込んでしまう、底知れぬ深さの目。
私は思わず顔を逸らし、無意識にぐっと拳を握り締める。
頭上からは、夜をそのまま音に変えたような、トーンを落とした声が降ってくる。
「今日の任務で、君に会えて良かったよ。元気そうで何よりだ」
「……今さらどの面下げて会いに来たんだと思ったでしょう」
「まさか。君から連絡が来たときは、天にも昇る思いだったよ」
「……私、明日の朝にはここを発つの。その前に、あなたにお礼を言いたかった。それだけよ。私はもう戻るから」
居たたまれなくなって、話を切り上げる。
ヴェルナーは相変わらず、私にひどく優しい。ヴェルナーが私を嫌っていないことが、私には大いに謎だった。
数年前、私は彼に対して、許されない行為をはたらいたのに。




