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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
30/137

僕らのこと ブルー・サマーの理由(6/6)

 "ずっと前から知っていたんだ"。

 "八年前に、影を辞めたときからな"。


 先生のその台詞が、耳に残っていた。心の喉元ともいえる場所に、ささやかな、しかしくっきりした痛みの輪郭を持って、引っかかっていた。

 入学当初の出来事を思い返す。先生が、俺の試験の解答を美しいと言ってくれた瞬間のことを。俺の目をまっすぐ見て、俺一人のために向き合ってくれた時のことを。

 あの時の俺は何も知らなかった。先生の過去も。先生がいた世界も。先生が何を考えているかも。

 何日ものあいだ、自分を内面から苛んでいた問いを、今の俺は明確な言葉で表すことができる。


 それは、桐原先生が自分に目をかけてくれたのは、俺の信頼を得、影の話をすんなり信じさせるための計画・・ではなかったか、という疑念だ。


 俺が先生の立場だったとして、影の話を生徒に話すつもりがあるなら、その前にその生徒に目をかけておくだろう。でなければ、未来の見える人間がいるだとか、秘匿された倫理違反の犯罪グループの存在だとか、それに敵対する組織が身近にあるだとか、そんな突飛な話をすんなり信じられるはずがない。

 それこそ俺は、桐原先生が言うから渋々信じたのだ。ヴェルナー一人が相手だったら、馬鹿馬鹿しいと断じて帰っていた可能性だってある。

 "生徒のために何でもしたいと思っているものだ"。

 先生はそう言った。

 あれは、計算されたものだったのだろうか?

 あれは、俺の信用を得るための、本心とはかけ離れた方便にすぎなかったのだろうか? 打算的で、まるで人間味のない、無味乾燥な行為だったのだろうか。

 俺はあの時、とても嬉しかった。やさぐれた俺の心に、あたたかい光が投射されたように思えた。

 しかし、俺のこの感情が、意図的に作り出されたものだったとしたら。

 桐原先生に直接問いかけて、もし答えがイエスだったら、俺は確実に傷つくだろう。そして再び、他人など信用に足らないという思いに囚われるだろう。

 ──昨日までの俺ならば。

 昨日の俺と今日の俺は、少しだけ違う。クラスメイトのおかげで、自分を受け入れてくれる場所が、どこかにはあるだろうと信じることができる。それは、音楽が短調から長調に転じるような、些細で、それでいて明確な違いだ。

 俺は桐原先生に会うために、先生に問いをぶつけるために、職員室に向かっている。下校時間が迫っているが、たぶん、先生はいるはずだという無根拠な確信を持って。

 弓道部員の彼らを真似て、背筋を伸ばし、胸を張る。ノックをして、職員室のドアを開く。

 今しがた帰ろうとしていた先生が、俺を見て驚きに顔を染める。それは果たして、桐原先生だった。

 職員室には他に先生はいない。好都合だ。


「なんだ、まだ帰っていなかったのかね。早く校舎から出た方がいい」

「……聞きたいことがあるんです。のことで」


 俺はまっすぐ先生の目を見据える。逸らさずに、真正面から。こんなにも近くから、先生の視線を受け止められる。

 先生はそんな俺の様子から何か察したのか、私の家に来るかね、と静かに問う。俺は何の逡巡もなく頷きかえした。



 桐原先生の家では、リビングのソファでヴェルナーがのんびりと寛いでいた。俺の護衛は先生の家を拠点にしているのだ、と説明を受ける。先生より先に帰ってるなんて、やっぱりこの人は真面目に護衛なんかやってないんだな、と思う。今さら、落胆も怒りもないけれど。

 俺の姿を認めると、まるで来るのを予期していたみたいに、整った顔を歪ませて上品とは到底いえない笑みをつくる。


「おっ、来たな。なあ坊っちゃん、オッドアイの黒猫に話しかけるのは、もうやめといた方がいいぜ」

「……あんたも見てたのかよ」

「見てたっつーか、俺は聞いただけだけどな。どこに人の目があるか分からねえんだ、ちょいと用心するのをお勧めするね。いいかい、人の目ってのはな、人間の目じゃないかもしれないんだぜ」


 さっぱり意味が分からない。この人は一体何を言っているのだろう。禅問答でもしているのだろうか。

 困って桐原先生に視線を移すと、肩をすくめられた。放っておけ、という意味だと勝手に解釈する。


「ヴェル、少し外してくれ。茅ヶ崎と話がしたい」

「はいはい、邪魔者は消えますよっと。あとは二人でごゆっくり」 


 ヴェルナーは不審なほど物わかりよくドアの磨りガラスの向こうへ消える。俺は桐原先生に促されてリビングのソファに座る。

 先生は、俺を見ている。星のない夜空の瞳。底知れぬ夜の海の瞳。


「聞きたいこととはなんだね」


 俺は思っていることを、考えていることをできるだけ詳しく話した。分かりやすく説明できた自信はないけれど、先生は何も言わずに耳を傾けてくれた。

 そして俺は問う。先生が、俺に声をかけてくれたこと。あれは計算だったのか、と。

 疑問を形にしてしまってから、無意識に腿の上で拳をつくる。掌にはいつの間にか汗をかいていた。緊張しているのだ。

 それでも、下を向くことはしなかった。

 先生がふ、と短く息を吐く。その口が開くところが、微速度撮影の再生かと思うほどスローに見えた。

 先生が、いや、とあっさり否定したので、俺の全身から一気に力が抜ける。


「あれは純粋に、教師としての欲求だったんだ。能力があるのに、それを持て余している。くすぶらせている。勿体ないと思った。それに、君があまりにも昔の私に似ていたから、見て見ぬふりができなかった」

「あの人……ヴェル……さんも、そんなこと言ってましたよね。俺、そんなに似てるんですか」

「ああ、いや」


 先生はいたずらが見つかった子供のように、決まり悪そうに笑う。らしくない表情だ。でも、悪くない表情だ。


「あの男が言うのは見た目だろう。そうじゃなく、境遇という意味でだ。私も数学に没頭したかったんだが、環境がそれを許さなかった。まあ、私は君とは違って、ただの凡人だがね」

「凡人なんて──」

「事実だよ」


 先生は、目尻を下げて、表情を緩める。


「私の行為が、君の言うように解釈できることに思い至らなかったよ。私のしたことが、君を追いつめていたんだな。すまなかった。あの事前問題と証明のミスも、私のせいだったんだな。私が影に復帰したのも、隠すつもりはなかった。いつか話さねばならないと思っていた。──言い訳にしかならないが。どうか、許してもらえないだろうか」


 先生は深々と頭を下げる。元はといえば俺の勘違いが原因なのに。大人が躊躇いなく詫びる姿を見慣れていないため、慌てる。込み上げるものがある。そんな、と自分も頭を下げると、手の甲が濡れる感覚があった。

 ぽたりと、水滴が落ちたのだ。

 俺は泣いていた。

 自分がこんなに追いこまれていたなんて、知らなかった。ただこれは、悲しみとか怒りだとか、感情がたかぶったときの涙ではない。感情が弛緩したときの、安堵の涙だ。

 この涙は、あたたかい。

 大丈夫かね、と先生がやや焦った調子で言う。俺は、おなかに力をいれて、はいと答える。昨日の力ない返事とは違うと宣言するように。一直線に、しっかりと先生まで届くように。


「それなら、いいが」

「……あの」

「うん?」

「数学の証明問題、試験が終わったら再開してください」

「ああ、分かった」

「それと、この前の質問の答えなんですけど」

「質問?」

「先生のこと、怖くないです。俺にとって、先生は先生ですから」

「そうか」


 先生が相好を崩す。立派なたてがみを持ったライオンを連想させる、強い包容力を感じる笑み。俺もつい釣られて笑う。

 そこで、終わったみたいだな、と舞台俳優ばりの大袈裟なターンを決めて、ヴェルナーが部屋に戻ってきた。


「おやおや、いくら男の子とはいえ、他人を泣かすのは感心しないねェ」

「貴様、ドアのそばで全部聞いていたな」

「何のことだか」


 桐原先生は一転して凄味のある顔になる。刺々しく冷たい視線を、ヴェルナーは小首を傾げるだけで受け流した。


「それより錦、飯は?」

「……今から作るから待っていろ。茅ヶ崎はどうする? 夕飯、食べていくかね」

「……はい」


 俺はまた迷わず答える。



 夕食は、煮魚を中心にした純和風の献立だった。

 茶碗に盛られた真っ白なご飯から、ほかほかと湯気が立ち上る。それがやけに眩しく目に染みた。

 俺の前に先生が座っていて、その隣にヴェルナー。日本人と遜色ないくらい器用に箸を使っている。へえ、とちょっと意外に思う。


「今回も遅くなってすまんな。親御さんに謝っておいてくれ」

「いや、食べていくと言ったのは俺なんで……。親には先生が準備してるあいだ、連絡しときました。母さ──母が、後で菓子折りとか持ってくかもしれません。いつもお世話になってますとか言って」

「そういうのは気持ちだけで充分です、と君から言っておいてくれ」


 穏やかだ。会話も、心の内も、料理の味も。

 食事の際に数日間感じていた、砂を噛むような感覚もすっかり無くなっていた。一回の咀嚼ごとに、素材の味が湧きだすみたいに濃くなってくる。それを存分に味わう。味わえる。

 美味しい。心の底から思う。とても美味しい。

 美味しさとは喜びなのだ。


「先生が作る料理って、ほんとに美味しいですよね」

「そんなにしみじみ言うほどではないと思うが……。自分の家で食べるものは違うのかね」

「いや、家のも美味いんですけど、洋食が多いというか──レストランみたいな食事が多いんで。こういう和食はあんまり無いです。おふくろの味っていうか」


 いきなり、黙々と箸を動かしていたヴェルナーが盛大に吹き出した。先生が信じられないといった表情を浮かべる。


「汚いな……何なんだね急に……」

「いやだって、生徒にもオカン認定される錦って……あーもう面白すぎ」


 ヴェルナーは肩をぷるぷる震わせながらダイニングを出ていく。扉が閉まった途端、一人で笑い転げるヴェルナーの声が聞こえてきた。


「ああいう大人になってはいかんぞ」

「分かってます」


 俺は神妙に頷く。

 できれば桐原先生みたいな大人になりたいな、とダシの利いた味噌汁を啜りながら考えた。

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