僕らのこと ブルー・サマーの理由(4/6)
夕刻。
一人で下校している途中で、道端に猫がうっそりと佇んでいるのを発見した。毛並みのよい、黒猫だ。
曇天の下、薄闇が迫るなかでも、毛づやが輪のように光るのがはっきり分かる。こちらをじっと見ている目は、青と金色のオッドアイ。白猫のオッドアイは何度か見かけたことがあるが、黒猫は珍しい。
目が合ってしまったのでゆっくりまばたきをすると、黒猫は警戒する様子もなく、こちらにぽてぽてと近づいてきた。そのまま俺の膝に体を擦り寄せる。
「懐っこいやつだな、お前」
見ると、赤い首輪をしている。飼い猫のようだ。
腰を落として、喉や頬や耳の後ろを掻くように撫でてやると、うっとりと目を細め、喉を鳴らし始めた。かわいいやつ。
「猫はいいよな。やんなきゃいけないこともねーし、やっちゃいけねえこともねーし、悩み事なんてないもんな」
誰にともなく呟く。猫に向かってというより、自分自身に向けて。
黒猫はそんなことない、とでも言うように、色違いの瞳を見開いてニァアアァ、と鳴く。
「そっかそっか、猫も忙しいか。悪いこと言ったな」
こうして猫を撫でていると、荒んで毛羽立った心の表面が、少しずつ滑らかになっていく。ちくちくと心臓を刺しつづける、長さも太さも異なる針が、一本ずつぽろぽろと抜け落ちていく。現実逃避といわれればそれまでだが、この効能は決して人間には作れない。
一頻りもふもふしてやると、黒猫は撫でられるのに飽きてきたようだった。その気配を察知し、俺は満足して立ち上がる。
別れの挨拶だと言わんばかりに、猫がすねに何度も頭突きをかましてくるので、俺は含み笑いをこらえる。かわいいやつ撤回だ。とても、かわいいやつ。
「じゃあな。車には気をつけろよ」
ちらりと振り返ると、そういった意思は無いに違いないのだろうが、色の違う双眸が、見送るようにじっと俺に向けられていた。
前日の下校と同じく、翌日も一人で登校すると、自分のクラスの下駄箱の前に男子生徒がいて、俺にちらりと視線をくれた。
ほとんどのクラスメイトは、俺の姿を見かけるとそそくさと先へ行ってしまう。彼もそうするのだろうなと思った。別にそれで傷つきはしない。目つきも言葉遣いも悪い、授業を勝手に抜け出たりサボったりする生徒となんか、誰だって関わりたくないだろう。俺だって嫌だ。
そんなだから、その男子に、おはようと声をかけられて驚いた。予定外の事態に、おはようと返すのがワンテンポ遅れる。朝から調子が狂う。
事態はそれで終わらなかった。
そいつは俺が上履きを履くのをなぜか待っており、一緒に教室まで歩く流れになった。背格好は俺と同じくらいだが、やたらと姿勢がいいので、相手の方が一回り大きく見える。何が起こっているんだと混乱する。
相手の顔をまともに見て、昨日の数学の時間、最後まで教壇の上に残っていた生徒だと気づいた。
「茅ヶ崎ってさ、猫好きなん?」
意外な展開に口ごもっていると、相手が自然体な様子で尋ねてくる。脳裏にオッドアイの黒猫の姿が浮かぶ。
「もしかして、昨日の?」
「見ちゃまずいとこだったかな」
「別に、そういうわけじゃねえけど……」
悪事をはたらいていたわけでもないので見られてもまずくはないが、かなり気まずくはある。猫相手に笑ってたり、話しかけたりしていたのを見られたということか。だいぶ恥ずかしい。
「……そっちも、猫好きなのか? ええと──」
「あー俺の名前、分かんないよな。太田だよ。猫は好きだけど、近づくと逃げられるんだよな」
気を害する素ぶりも見せず、そう太田は教えてくれる。
高校に入学してほぼ丸三カ月経つが、未咲や輝以外のクラスメイトとまともに会話したのは、これが初めてだった。太田の口ぶりは穏やかで地に足が着いている感じで、旧知の人間に話しかけているのかと思うほど無理がなかった。
二人並んで昇降口を抜け、廊下に達すると、生徒会役員の面々がずらりと勢ぞろいしている。
模範的に着こなされた制服の列。
なかなか壮観な眺めだった。朝の挨拶運動とかいうのが始まったのだろうか。強制的に挨拶を強要されるのは、あまり気分のよいものではない。
その列の先頭に立つ男子生徒を、俺は知っている。まあ、この高校の人間は誰でも知っているだろうが。
生徒会長の九条悟。たぶんおそらくきっと、未咲が好きな相手。
相も変わらず一分の隙もない立ち姿に、文句のつけようがないパーフェクトな微笑みをうかべている。彼自身が空気清浄機なのではと疑うほど、周りの空気が澄んで見える。なんて輝かしいオーラ。目が焼けそうだ。
俺は気づかれぬうちに横をすり抜けようとした。が、悟は目ざとく俺を見つける。
「おはよう、茅ヶ崎くん。久しぶりだね」
「……おはようございます」
「バスケ部の話、あれからどうだろう? 今は試験前で部活休みだけど、いつでも見学に来てくれていいからね」
「はあ……」
「じゃあ、今日も頑張ろうね」
清涼な初夏の風に似た笑みが俺に向けられる。うぐぐと歯の奥で唸りつつなんとか頷きを返す。脳裏に、日光にやられて昇天するモグラの図が不意にちらつく。なんという情けない体たらくだ。
横にいる太田が、そんな俺を目を丸くして見ていた。
「すげーな茅ヶ崎、生徒会長と知り合いなのかよ」
「……別に、俺が悪名高いだけだろ」
そういう事情でもないのだが、俺は投げやりに答える。太田が口の端っこでちょっと笑う。
教室にたどり着くまで他愛もない話をした。俺のなかの混乱と動揺はいつしかほどけていた。太田は普通にいい奴だった。
「そういえば、茅ヶ崎は試験勉強進んでる?」
「……まあまあかな」
不意に、痛いところを突かれる。期末試験まであと二週間弱。実際は心のもやもやに阻まれてちっとも進んでなんかいないが、正直に言うのは憚られた。
突如として太田が、ぱんっ、と乾いた音をさせて両手を合わせる。え、何、と俺は軽く驚く。
「お願いがあるんだけどさ。良かったら数学、教えてくれないかな? 俺、数学すげー苦手で」
唐突に切り出された頼みに、つい足の歩みが止まる。予想外ではあったが、嫌な気持ちはなかった。むしろ、
──俺でいいのか?
その思いが胸に広がる。
咄嗟に反応できないでいると、太田はばつが悪そうに眉尻を下げた。
「悪い、駄目だったらいいんだ。いきなり無理言ってごめんな」
「いや……別に、俺はいいけど」
「え、マジで? ありがとう!」
ぼそぼそという俺の返事に、太田の表情がぱっと明るくなる。下がった眉が跳ね上がる。なぜそんなに嬉しそうなのか。
自分の口が放つのは弁解じみた言葉だ。
「でも俺、あんま人に教えたことないし、うまく説明できないかも……」
「いや、茅ヶ崎が教えてくれるってだけで充分だよ! 俺も、現文か社会系ならちょっと得意だから、一緒に勉強会しようぜ。今日の放課後とかどう?」
急展開に頭が着いていかない。かろうじてこくりと首を縦に振る。
太田はほくほくした顔だ。自分の言葉でこんなに誰かの表情がプラスに転じた例なんて、最近ではちょっと記憶にない。
「良かった。マジ嬉しいわ」
「喜ぶのはまだ早ぇだろ」
「確かに」
太田がぷっと噴き出す。
やべ、ホームルーム始まる、と急ぐ周りの声に我に返り、俺たちは教室への移動を再開させた。




