僕らのこと ブルー・サマーの理由(3/6)
「……じゃあ、桐原先生も」
ヴェルナーが遠い目をして、大きく頷く。
「そりゃあそうさ。あいつなんて、人一倍苦労してんだろ」
「先生が……」
無意識のうちに、拳を握っていた。さらりと紡がれた言葉を思い出す。
『君が"罪"に狙われる可能性があることは、ずっと前から知っていたんだ。』
喉元の奥の方をかりかりと引っかく、あの台詞。
「なあ坊っちゃん、君、あいつのことでも何か悩んでいるんじゃないのかい」
はっとして顔をあげる。ヴェルナーは俺の顔をつぶさに眺めていた。この人はどこまで察しがいいのだろう、怖いくらいだった。
「悩みなんて──」
「隠さなくてもいいじゃんか。このお兄さんに何でも言ってみな? ま、聞くだけは聞いて相談に乗るとは言ってねえけどな、あは」
そう臆面もなく言い放って飄々と笑う。
ヴェルナーの言い回しは適当の極みだったが、それゆえに、駄目で元々、言うだけ言ってみるか、という気持ちにさせられるのは不思議だった。
「桐原先生が影の一員だったって……本当なのか」
「ほー……へえ、あいつ君に話したのか。ちょっと意外だな。ほんとだよ、今は大人しく見えるかもしれないけど、昔はけっこうトゲトゲしてたなー」
「それは」
あんたに対しては今もそうなんじゃないのか、と言いかけたが、面倒になりそうなので寸前で飲み込む。
「まあ、一員だったっていうか、今もなんだけどね」
「は?」
「錦の奴、影に戻ってきてくれたんだよ。それは聞いてない? 坊っちゃんが危ないって言ったら血相変えちゃってねー」
「……そうなのか?」
「そうそ。あ、あいつがいきなり物騒なもん取り出して暴れまわっても、びっくりしないでね。……って、あれ? 坊っちゃん、聞こえてる?」
俺は聞いていなかった。
桐原先生は元・影のメンバーであり、そして現在、影の一員に復帰している。
そう考えたら、ここ何日も心の一角に居座っている、もやもやの正体が掴めたように思えた。
それは、問いの形をしていた。
そして、その解を求めようとする行為が、ともすれば自分を傷つけかねない予感もあった。
いきなり黙りこんだ俺に顔を向け、ヴェルナーは目をしばたかせる。気まずい間を取り持つように、終業のチャイムが鳴り、ややあって、上履きの音や話し声が聞こえてくる。そのざわめきの中に、こちらに近づいてくる足音を聞いた。
気づいた俺が顔を上げるのと、ヴェルナーがよう、お疲れさん、と言うのが同時だった。
きりりと引き締まった顔色で、当の桐原先生がそこに立っていた。ヴェルナーが楽しそうに手を振るのを、先生は一瞥しただけで黙殺する。
茅ヶ崎、と先生が俺に紙を差し出してくるので、慌ててソファから起き上がった。
「ここにいたか。さっき、期末試験の事前問題を返却し損ねたのでな」
淡々とした声音に、どこか気遣いの響きを聞いてとる。ヴェルナーが俺の手元を覗いて、おーすごいすごいと声を上げた。反対に俺は、言葉を失う。
九八点。
嘘だろ、と思った。小学校に入学してからというもの、算数や数学のテストでは百点しか取ったことのない、俺が。
心臓が逸る。どこだ。どこを間違えたんだ。
誤答はすぐに見つかった。取るに足らない計算間違い。凡ミスだ。こんなの、いつもなら絶対やらかさない。やはり今の俺は、おかしいのだ。
「証明問題も返却しておこう」
手に紙が重ねられる。いつもはほとんど無い、赤ペンでの修正がたくさん入っていて、俺はまたひやりとした。先生が手を伸ばして、用紙のある部分をなぞる。
「ここの部分、自明とあるが、この条件は自明ではない」
「あ……」
「他にも色々不備はあるが──証明は焦ってするものではないぞ、茅ヶ崎。最近の君の解答は、数学以外のことを考えながら書いたように見える」
言葉のナイフが心臓をえぐる。図星だった。
こんなにも、自分の中の憂いは、外に現れてしまうものなのか。ささやかなバツ印と、赤い訂正たちが、俺の気持ちのよりどころがぐらついていることを、喚きながら声高に主張しているように思える。
桐原先生の、こちらを問いたげに見る目を直視できなくて、口元あたりに目線をずらす。
「何かあったのかね」
「……」
「このお坊っちゃんね、病気なんだよ。恋患いという名の──」
「貴様は口を挟むな」
ヴェルナーがへらへらと喋りだすのを、ぴしゃりとした声が止める。
先生が俺を見る。変わらぬまっすぐ射抜く視線だ。ああ、駄目だ。逃げ出してしまいたい。見られていることに耐えられない。正面からその視線を受けとめることが、俺にはできなかった。
「私に言えないことならそれでもいい。証明問題はしばらく中止しよう。期末試験も近いことだし」
「……はい」
返事は力なく、先生に届く前にきっとへにゃりと折れた。項垂れて、遠ざかる足音を聞く。その背中を追いかけようとしても、体が動かなかった。動けなかった。
ヴェルナーが、手で口を覆う身ぶりとともに、俺に視線を寄越している。
「なんだよ」
「坊っちゃん、まさか……坊っちゃんの恋患いの相手って……」
「ちげーよ。患ってもねーよ」
こういう心境を意気消沈というのだろうなと思いつつ、とぼとぼと教室に戻る。ドアを開けると、まなじりを盛大に吊り上げた未咲に出迎えられた。噛みつかんばかりの剣幕だ。
「ちょっと! あんたのせいでまた桐原せんせーに怒られたんだからね、わたしが! どーしてくれんの?」
「……悪い」
反論できる状態にないのでそうぼそりと返す。未咲が目を丸くして、ついでに瞼もぱちくりさせる。俺はぼんやりとそれを眺めながら、こいつ睫毛長いなとか思う。未咲が不審げに、あんたが素直に謝るなんて気持ち悪い……と堂々と失礼なことを言う。
いつもみたいに言い返す気力も湧かない。未咲が訝しみながら俺の手から紙束を取っていくが、それを奪い返す気力も湧かない。
未咲が答案に目をやり、おや、という顔をする。
「あれ、龍介が満点じゃないなんて珍しいね。ってか、今まで満点じゃないことあったっけ」
俺は幼なじみの顔を見た。
元気良さそうな逆ハの字の眉の形。存外長い睫毛に縁取られた、ぱっちりとした眼。決して高くなく、慎ましげに中心にちょこんとある鼻。薄めの唇と、よく笑う口から覗く白い歯並び。顔の輪郭を切り取る、茶色がかった髪。
見慣れてしまった、未咲を構成する要素たち。
お前は変わらないな。お前は変わらないよな。
「未咲、俺さ」
命を狙われるかもしれないんだって。
"罪"っていう、得体の知れない犯罪集団がこの世にはいて、そいつらに敵対する、存在を隠された組織もあるんだって。
桐原先生もその一員で、何年も前から、俺と知り合うことになってたんだって。
何もかもが、ずっと前から、俺が知らないところで、そういう風に決められてたんだ。
もういっそ、そうやって吐き出してしまいたかった。
誰かに、できれば未咲か輝に、俺が知っているすべてを話してしまいたかった。
影に関する話は口止めされていたし、今だってヴェルナーがどこかで見ているに違いなく、会話だって聞かれているのかもしれなかった。情報漏洩に何かしらのペナルティがあるのかどうか、それは知らないが、意識して試そうなんて反逆心もない。
だから俺は、その先の言葉を飲み込むほかになかった。
未咲が眉をひそめて、俺が何事か言うのを待っている。
「──いや、やっぱ何でもない」
「は……? なんなのよ……」
不快感をあらわにした未咲から、舌鋒鋭い文句を聞けるかと思ったのに、彼女は未確認生物を見る目で、俺をじろじろと眺め回しただけだった。
「なんか龍介、変」
ぽつりと発せられた声とともに、答案用紙が突っ返される。その言葉の意味が、いつもと違う未咲の視線が、ちくちくと俺の心を刺す。
紙束が、ずしりと重くなって返ってきたように感じられた。




