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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
27/137

僕らのこと ブルー・サマーの理由(3/6)

「……じゃあ、桐原先生も」


 ヴェルナーが遠い目をして、大きく頷く。


「そりゃあそうさ。あいつなんて、人一倍苦労してんだろ」

「先生が……」


 無意識のうちに、拳を握っていた。さらりと紡がれた言葉を思い出す。

『君が"罪"に狙われる可能性があることは、ずっと前から知っていたんだ。』

 喉元の奥の方をかりかりと引っかく、あの台詞。


「なあ坊っちゃん、君、あいつのことでも何か悩んでいるんじゃないのかい」


 はっとして顔をあげる。ヴェルナーは俺の顔をつぶさに眺めていた。この人はどこまで察しがいいのだろう、怖いくらいだった。


「悩みなんて──」

「隠さなくてもいいじゃんか。このお兄さんに何でも言ってみな? ま、聞くだけは聞いて相談に乗るとは言ってねえけどな、あは」


 そう臆面もなく言い放って飄々と笑う。

 ヴェルナーの言い回しは適当の極みだったが、それゆえに、駄目で元々、言うだけ言ってみるか、という気持ちにさせられるのは不思議だった。


「桐原先生が影の一員だったって……本当なのか」

「ほー……へえ、あいつ君に話したのか。ちょっと意外だな。ほんとだよ、今は大人しく見えるかもしれないけど、昔はけっこうトゲトゲしてたなー」

「それは」


 あんたに対しては今もそうなんじゃないのか、と言いかけたが、面倒になりそうなので寸前で飲み込む。


「まあ、一員だったっていうか、今もなんだけどね」

「は?」

「錦の奴、影に戻ってきてくれたんだよ。それは聞いてない? 坊っちゃんが危ないって言ったら血相変えちゃってねー」

「……そうなのか?」

「そうそ。あ、あいつがいきなり物騒なもん取り出して暴れまわっても、びっくりしないでね。……って、あれ? 坊っちゃん、聞こえてる?」 


 俺は聞いていなかった。

 桐原先生は元・影のメンバーであり、そして現在、影の一員に復帰している。

 そう考えたら、ここ何日も心の一角に居座っている、もやもやの正体が掴めたように思えた。

 それは、問いの形をしていた。

 そして、その解を求めようとする行為が、ともすれば自分を傷つけかねない予感もあった。

 いきなり黙りこんだ俺に顔を向け、ヴェルナーは目をしばたかせる。気まずい間を取り持つように、終業のチャイムが鳴り、ややあって、上履きの音や話し声が聞こえてくる。そのざわめきの中に、こちらに近づいてくる足音を聞いた。

 気づいた俺が顔を上げるのと、ヴェルナーがよう、お疲れさん、と言うのが同時だった。

 きりりと引き締まった顔色で、当の桐原先生がそこに立っていた。ヴェルナーが楽しそうに手を振るのを、先生は一瞥いちべつしただけで黙殺する。

 茅ヶ崎、と先生が俺に紙を差し出してくるので、慌ててソファから起き上がった。


「ここにいたか。さっき、期末試験の事前問題を返却し損ねたのでな」


 淡々とした声音に、どこか気遣いの響きを聞いてとる。ヴェルナーが俺の手元を覗いて、おーすごいすごいと声を上げた。反対に俺は、言葉を失う。

 九八点。

 嘘だろ、と思った。小学校に入学してからというもの、算数や数学のテストでは百点しか取ったことのない、俺が。

 心臓がはやる。どこだ。どこを間違えたんだ。

 誤答はすぐに見つかった。取るに足らない計算間違い。凡ミスだ。こんなの、いつもなら絶対やらかさない。やはり今の俺は、おかしいのだ。


「証明問題も返却しておこう」


 手に紙が重ねられる。いつもはほとんど無い、赤ペンでの修正がたくさん入っていて、俺はまたひやりとした。先生が手を伸ばして、用紙のある部分をなぞる。 


「ここの部分、自明とあるが、この条件は自明ではない」

「あ……」

「他にも色々不備はあるが──証明は焦ってするものではないぞ、茅ヶ崎。最近の君の解答は、数学以外のことを考えながら書いたように見える」


 言葉のナイフが心臓をえぐる。図星だった。

 こんなにも、自分の中の憂いは、外に現れてしまうものなのか。ささやかなバツ印と、赤い訂正たちが、俺の気持ちのよりどころがぐらついていることを、喚きながら声高に主張しているように思える。

 桐原先生の、こちらを問いたげに見る目を直視できなくて、口元あたりに目線をずらす。


「何かあったのかね」

「……」

「このお坊っちゃんね、病気なんだよ。恋患いという名の──」

「貴様は口を挟むな」


 ヴェルナーがへらへらと喋りだすのを、ぴしゃりとした声が止める。

 先生が俺を見る。変わらぬまっすぐ射抜く視線だ。ああ、駄目だ。逃げ出してしまいたい。見られていることに耐えられない。正面からその視線を受けとめることが、俺にはできなかった。


「私に言えないことならそれでもいい。証明問題はしばらく中止しよう。期末試験も近いことだし」

「……はい」


 返事は力なく、先生に届く前にきっとへにゃりと折れた。項垂うなだれて、遠ざかる足音を聞く。その背中を追いかけようとしても、体が動かなかった。動けなかった。

 ヴェルナーが、手で口を覆う身ぶりとともに、俺に視線を寄越している。


「なんだよ」

「坊っちゃん、まさか……坊っちゃんの恋患いの相手って……」

「ちげーよ。患ってもねーよ」



 こういう心境を意気消沈というのだろうなと思いつつ、とぼとぼと教室に戻る。ドアを開けると、まなじりを盛大に吊り上げた未咲に出迎えられた。噛みつかんばかりの剣幕だ。


「ちょっと! あんたのせいでまた桐原せんせーに怒られたんだからね、わたしが! どーしてくれんの?」

「……悪い」


 反論できる状態にないのでそうぼそりと返す。未咲が目を丸くして、ついでに瞼もぱちくりさせる。俺はぼんやりとそれを眺めながら、こいつ睫毛長いなとか思う。未咲が不審げに、あんたが素直に謝るなんて気持ち悪い……と堂々と失礼なことを言う。

 いつもみたいに言い返す気力も湧かない。未咲がいぶかしみながら俺の手から紙束を取っていくが、それを奪い返す気力も湧かない。

 未咲が答案に目をやり、おや、という顔をする。


「あれ、龍介が満点じゃないなんて珍しいね。ってか、今まで満点じゃないことあったっけ」


 俺は幼なじみの顔を見た。

 元気良さそうな逆ハの字の眉の形。存外長い睫毛に縁取られた、ぱっちりとした眼。決して高くなく、慎ましげに中心にちょこんとある鼻。薄めの唇と、よく笑う口から覗く白い歯並び。顔の輪郭を切り取る、茶色がかった髪。

 見慣れてしまった、未咲を構成する要素たち。

 お前は変わらないな。お前は変わらないよな。


「未咲、俺さ」


 命を狙われるかもしれないんだって。

 "罪"っていう、得体の知れない犯罪集団がこの世にはいて、そいつらに敵対する、存在を隠された組織もあるんだって。

 桐原先生もその一員で、何年も前から、俺と知り合うことになってたんだって。


 何もかもが、ずっと前から、俺が知らないところで、そういう風に決められてたんだ。


 もういっそ、そうやって吐き出してしまいたかった。

 誰かに、できれば未咲か輝に、俺が知っているすべてを話してしまいたかった。

 影に関する話は口止めされていたし、今だってヴェルナーがどこかで見ているに違いなく、会話だって聞かれているのかもしれなかった。情報漏洩に何かしらのペナルティがあるのかどうか、それは知らないが、意識して試そうなんて反逆心もない。

 だから俺は、その先の言葉を飲み込むほかになかった。

 未咲が眉をひそめて、俺が何事か言うのを待っている。


「──いや、やっぱ何でもない」

「は……? なんなのよ……」


 不快感をあらわにした未咲から、舌鋒鋭い文句を聞けるかと思ったのに、彼女は未確認生物を見る目で、俺をじろじろと眺め回しただけだった。


「なんか龍介、変」


 ぽつりと発せられた声とともに、答案用紙が突っ返される。その言葉の意味が、いつもと違う未咲の視線が、ちくちくと俺の心を刺す。

 紙束が、ずしりと重くなって返ってきたように感じられた。

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