僕らのこと ブルー・サマーの理由(2/6)
ふらっと教室を出て向かった先は、いつもの旧校舎だ。
梅雨入り前には屋上に放置していたソファを、先日、屋上へ続く階段の傍らに移動させておいた。雨が降るとよくないからだ。
のそのそ歩いてきた俺は、その上にごろりと横になる。屋上ほどの開放感は無いが、人がいないだけ教室よりましで、ドアのガラスから外が見えるだけ、保健室よりましだった。
目を閉じて、気分の悪さを忘れようとする。
教室という場所が苦手なのはずっと前からだ。同じデザインの机と椅子がずらりと並び、皆が同じ服を着て、同じ教科書を開きながら同じ内容のノートを取る。狭い箱に同じ年齢の子どもを集めて押し込め、行動を時間で管理する。画一的で特徴のない人間を生産するための養殖場みたいだと思っていた。
クラスメイトたちは何の疑問も持たない様子で、毎日時間割の通りに過ごしている。きっと、俺の感覚のほうがおかしいのだろう。
教師たちは個性が大事だと繰り返すけれど、あんなところで個性なんて育つのだろうか。そもそも、教師たちの言う個性とはおそらく、創造力とか協調性とか寛容さとかリーダーシップとかの"優等生的な"個性であって、教師にしてみれば、俺が持っているのは"個性"の枠組みから外れた、ただの厄介な性質にすぎないだろう。
みんなには当たり前でも、俺にとっては苦痛でしかない。
青臭い考えをこねくり回していると、こちらにすたすたと近づいてくる足音に気づいた。幼なじみかつ学級長の未咲であれば、ぱたぱたと駆けてくる音がするはずだ。
先生かな、桐原先生以外に見つかったら面倒だな、と暗鬱な気持ちを抱きながら目を開けると、鼻先三十cmほどの至近距離に赤目赤髪の彫りの深い顔があって、うわ、と口に出してしまう。反射的に上体を起こし、ソファの上で後ずさる。
「やあお坊っちゃん、浮かない顔だね。さては恋患いかい?」
派手な外見のその男、ヴェルナー・シェーンヴォルフは、俺の顔を覗き込む体勢で、厚い雲でも払えそうな、明るい笑みを作った。
欧米人だからなのか──欧米人が皆そうなのかは分からないが──ヴェルナーは人に対する距離が近い。自分の領地にずかずかと立ち入られるようで、少し恐怖感があった。
能天気な彼の問いに、俺はむすっと答える。
「……そんなんじゃねーよ。なんであんたが、ここに居るんだよ」
「あれ、違うの? 俺はお坊っちゃんがどこへ行こうと着いてくよ、君を守らないといけないからねェ」
ヴェルナーは唇を横に引き伸ばして笑う。揃った白い歯の中で、肉食獣のように尖った犬歯が目立つ。何度見ても気障ったらしい笑顔だ。
俺の命は、狙われているらしい。
数日前にそんな話を聞かされてから、この調子の軽い外国人が護衛に就いた。いまだに実感は無く、以前と比べて変わったのは、至るところでヴェルナーの姿をちらちらと見かけるようになったことくらいだ。
もし本当に危険な目に遭ったとき、この適当極まりない人が助けてくれるのかどうか、俺は怪しんでいる。
「誰かに見られたらどうすんだよ。説明すんのが面倒くせぇだろ」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと人の気配は避けてきたから。でも今は授業中だろ。こんなところに来るなんて、さてはお坊っちゃん、不良だな?」
「……だったら何?」
ヴェルナーがしげしげと見てくるのを、俺は下から睨み返した。明らかに面白がっているのが気にくわない。彼の台詞には、見れば分かることをわざわざ明言する、あの不可思議な英語の例文に似た趣があった。
これはペンです。
君は不良です。
他人はいつもそうだ。表面上の要素で判断して、分類して、自らがいる領域ではないところに勝手に押し込める。あいつは自分とは違うのだと安心する。俺はいつでも分類される方だから、そういうのには慣れきっている。
視線が交錯して、にわかに訪れた沈黙を、ヴェルナーの薄笑いが破る。
「君は違うように見えるけどなァ」
「違うって、何が」
「君は不良を気取りたいわけじゃないだろ? 人が多いところが苦手なんじゃないのかい。君は人と関わるのを怖がってるように、俺には見えるね」
「……」
冷たい風に頬を撫でられたかのように、すっと顔が冷えた。一瞬、呼吸を忘れる。心臓をぎゅっと握られたみたいに、胸が苦しくなった。
どうして分かったのだ、と声なき声を漏らす。そこは触られたくないところだった。この人は、物事を横目で適当に眺めているようで、実際はじっくり観察しているのだ。
俺は、他人が怖い。
その恐怖心を、"関わるのが面倒だから"という言い訳で、何重にもくるんで見えないように隠していた。自分でも忘れていた本当の理由を、ヴェルナーは容易く暴いた。
嘘という鎧を失って丸裸にされた本心が、ぶるぶると小刻みに震える。
「むやみに怖がらなくてもいいんじゃない」
ヴェルナーが唐突に優しげな口調になる。
彼の思考の展開に着いていけず、は?とえらく不機嫌な声が出てしまう。
「坊っちゃんはあれだろ、人と関わって傷つくことが怖いんだろ」
それは俺の嫌いな断定口調だったけれど、そういう台詞にありがちな、蔑みやからかいの意図は全く感じられなかった。そのことが、俺を少し動揺させた。
でもよ、とヴェルナーが続ける。
「人間ってのは案外、寛容な生き物のはずなんだぜ。坊っちゃんは小さい頃に嫌な思いをしたのかもしれんが、十五才にもなればそれなりの分別をみんな身につけてるだろ。それに、大概の人間は自分のことで手一杯さ。他人にそこまで興味持ってねーよ」
「……」
俺は押し黙る。確かに、人は成長するものだろう。俺だって、自分にしか見えてない景色のことを、誰彼構わずぺらぺら喋るなんて馬鹿なことはしなくなった。
けれど、ヴェルナーの言葉をそっくり飲み込むには、俺の過去の経験は苦すぎた。
そうかもしれない、とは思う。でも、そうでないかもしれない、とも思う。
堂々巡りの思考に陥りかけた俺へ、銀幕のスターよろしく、ヴェルナーの完璧なウインクがばちんと送られてくる。
「何にせよ、人は一人じゃ笑えないもんだぜ、坊っちゃん。人が腹の底から笑うのは、誰かと一緒にいるときだけだ」
「……あんた、たまには良いこと言うんだな」
「だろォ?」
皮肉のつもりだったのだが、どうもヴェルナーには通じないらしかった。
赤髪の男は、ソファの脇にある階段へ腰を下ろし、どこか達観した目を細めて俺に向ける。
「悩めよ、坊っちゃん。若者は悩むべきだぜ。"青春は苦悩の時代だ"って、たぶんどこかの偉い人も言ってるはずだし」
「どこの誰だよ」
「そんなの俺に聞かれても知らねーよ」
「……あんた、適当すぎんだろ……」
口を尖らすヴェルナーに苦言を呈すると、今度は腕を組んで教え諭す顔つきになる。
「あのねェ、そうやって簡単に人に聞くのはよくないと思うよォ。その前に自分で調べてみる、そういう気持ちが大切なんじゃないのかなぁ」
「あんたが言ったんだろうが……」
とは言いつつ、あまりにも目の前の男が堂々と構えているために、ちょっとだけ"俺が悪いのか?"という思いが湧いてくる。
ヴェルナーの捕らえどころの無さに、俺は困惑していた。困惑というか、辟易していた。こんなのらりくらりとした人間が、大人然とした表情で、平気で世を渡っていることが信じられなかった。
俺にはこんなにも悩みがあるのに、ヴェルナーは何も思い悩む要素なんかないような、いっそ間抜けともいえるつるりとした顔を周囲に晒している。それがひどく、羨ましくもあった。
意図せず、あんたは良いよな、と口に出していた。
「うん?」
「あんたは人生楽しそうで、良いよな」
「そりゃあ、楽しもうと思ってるからね。人生ってのは一度きりなんだぜ、今楽しまないでいつ楽しむんだい?」
ヴェルナーは笑う。くつくつと、本当に、心底楽しそうに、笑う。
彼の台詞が、俺のなかで反響した。
いつ?
楽しむ?
そんなの、考えた試しがあっただろうか。俺はぽかんとして、ヴェルナーの顔をただただ見た。
「坊っちゃんはどこかで、自分の人生なんて、と思ってやしないかい?」
「……」
「恵まれた環境に生まれて、順風満帆な人生を歩んでる人間だっているだろうさ。だが、羨ましがったり自分の境遇を嘆いたりしたって、他人にはなれねえんだ。だったら、与えられた場所でどう楽しんで生きるか、そいつを考えるのが、一番有益な時間の使い方だと思わないかい?」
問われて、俺は答えられなかった。
俺はどうして、こんなところでこんな変な外国人に人生論を説かれているんだろう?
そう疑問に感じつつ、軽薄が間違って人の形を持ってしまったようなこの男にも、他人を羨んだり境遇を嘆いたりした時期があったのかと思うと、なんだか不思議な心地がした。
「……あんたも、苦労してんだな」
「はは。そうは見えねェだろ? 大人ってのはな、大なり小なり苦労してきてんだよ。それが、大人になるってことだ」
「……」
自分の周りの大人の顔が次々と思い浮かぶ。みんながみんな、それなりの苦労を重ねて大人になったというのだろうか。
父親。母親。親戚。先生方。近所の人。
そして、僅かな痛みとともに浮かぶ、まるで過去のことなど読ませない凛々しい顔。




