僕らのこと ブルー・サマーの理由(1/6)
─茅ヶ崎龍介の話
清々しい朝。そのはずだった。
食事が喉を通らない。
テーブルの上には、いつも通り色彩にあふれ、見るからに美味しそうな母お手製の料理が並んでいる。なのに、なぜか食欲が湧かない。口に入れても、食べ物の味がよく分からない。発泡スチロールでも咀嚼しているような食感がして、不快感すら覚える。
俺の心の中には風の吹きすさぶ荒野が広がっていて、爽やかな朝の雰囲気とはまるでかけ離れた有り様だ。ダイニングのテレビは滑稽なまでに快活な情報番組を映しており、その押しつけがましい明るさが、ささくれだった神経を逆撫でしてくる。
俺の箸がほとんど動いてないことに、母の涼子が気づいたらしい。こちらを心配そうに見やる。
「龍ちゃん……あんまり食べてないけど、お母さんの作った料理、美味しくなかったかしら?」
「……いや」
その後に続けて、美味しいよ、とはとても言えなかった。
新聞に目を通していた父の辰太朗も、食後の日課を中断して顔を上げる。三十代の顔に不釣り合いな丸眼鏡の奥から、草食動物のように穏やかな眼が覗いていた。
「なんだ龍介、食欲が無いのか? 今は体を作る大切な時期なんだ。ちゃんと食べた方がいいぞ」
「……それは、分かってる」
「お母さんの料理はいつも美味いだろう? 感謝して、食べなきゃいかんな。……涼子さん、いつも美味しいごはんをありがとう」
「まあ辰太朗さんったら……龍ちゃんの前で……」
父と母が見つめ合う。
両親はとても仲が良い。二人ともまだ三十代な上に外見も若々しいので、新婚夫婦と勘違いされることもしばしばだ。
仲睦まじい夫婦、申し分なく栄養バランスの取れた食事、掃除のゆき届いた部屋、テーブルと窓際に飾られたみずみずしい植物、窓から射し込む淡黄色の光。どこからどう見ても、理想的な家庭の朝の風景だ。
ただ一つ、息子が俺であるという点を除いては。
いたたまれなくなって、椅子の上に置いていた通学鞄を手に取った。
「……もう出るから」
「あら、そう? お昼はしっかり食べるのよ。じゃあ、行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃい、龍介」
逃げるようにして外に出る。異物、という言葉が、胸の内側でぐるぐると渦巻いていた。
* * * *
息子が出ていった後の扉が、ガチャ、と音をたてて閉まる。
「……恋患いかしら?」
涼子は小首を傾げ、のんびりと呟いた。
* * * *
―茅ヶ崎龍介の話
倦んでいる、と感じる。
何に対してかは分からない。ここ数日ずっと気が塞いで、もやもやした正体の掴めない感情が、心の中にしつこく居座っている。振り払おうとしても、それは靴底へ貼りついたガムに似て、無視するには大きい存在を主張してくる。自分のことなのに自分ではどうにもできなくて、頭を掻きむしりたくなる。
数学の授業中、窓の外に目をやった。朝には陽が差していた空がどんよりと淀み、灰色の厚ぼったい雲が、天球全体をぐいぐいと押し下げているみたいに見える。すぐにでも雨が降ってきそうだ。
六月末の空気は湿度も温度も高く、教室に満ちた不快さに、鼻腔が圧迫される。備え付けのエアコンは、七月にならないと使用許可が下りないらしい。
前方に顔を戻す。教科書の章末問題を割り振られた生徒たちが、壇上で解答を板書しているところだった。書き終えた生徒から順々に席へ戻り、今は一番難しい問題を当てられた男子一人だけが残っている。チョークは遅々として進まず、明らかに解法が分かっていないのが分かる。
数学担当の桐原先生は黒板の脇の椅子に腰かけ、その様子をじっと見ていた。どこをどう見ても普通の先生が座っているようにしか見えないが、彼がただの教師でないことを、俺は知っている。
まっすぐ前に向けられた桐原先生の視線は、苛々するでもなく呆れるでもなく淡々としたもので、むしろ俺の方が苛々していた。どうしてそんな、無理に公式に当て嵌めようとして歪になった数式を、左辺とイコールで結べるのか。俺には数式の悲鳴が聞こえてくるようだった。
違う、やめて、間違ってるよ、助けて。
もちろんその声は妄想にすぎないのだが、俺は現実に気分が悪くなってきた。のっそりと立ち上がり、そのまま教室の後ろのドアへ向かう。クラスメイトたちが、はっと身を固くする気配を肌に感じながら。
桐原先生がちらりとこちらに視線を寄越したが、口は結んだままだった。
無言のうちに教室から抜け出た俺の脳裏へ、数日前の夜の光景が、はっきりと立ち現れる。俺は、自分の記憶を追体験していた。赤目赤髪の謎の男・ヴェルナーと初めて会い、"罪"の存在を知らされ、さらに桐原先生が、ヴェルナーのいる組織に身を置いていた、と語った夜。
家まで送ってもらうため、俺は先生が運転する車の中にいた。
車内の静寂。前方には赤信号。
先生の告白がにわかに理解できなくて、信号機をじっと見る先生の精悍な横顔を、俺はまじまじと見つめた。
「──え、身を置いていたって……。保護されてたとか、そういう?」
恐るおそる尋ねた問いは、いや、と容易く否定される。
「あの男と──ヴェルナーと同じだよ。八年前まで、私も影の一員だったんだ」
「じゃあ」
その先を言いかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。聞いてどうするんだ、と自分に言い聞かせる。聞けるわけないだろ。
先生も、人を殺したことがあるんですか、なんて。
俺の思考を読むように、先生が横目でちらりとこちらを見た。
「そうだな。聞かない方が利口だ」
「──先生が……どうしてそんなところに?」
俺の疑問に、先生が自嘲めいた笑いを溢す。乾いた笑いだった。
「それは逆だ、茅ヶ崎。君は、"影の一員だったあなたが、なぜ先生に?"と訊かねばならない。私は教師としてよりも、影の一員として生きてきた期間の方がずっと長いんだ」
「……」
何も言えない。その事実を、どうやって受け止めたらいいのかが分からない。
押し黙る俺へ、独り言めいた調子で、先生が静かに語りかける。
「実を言うと、君が"罪"に狙われる可能性があることは、ずっと前から知っていたんだ」
「……そうなんですか」
「ああ。八年前に、影を辞めたときからな」
「そんな……前から……」
絶句する。
八年前。俺は、小学校の低学年だった。その頃にはもう、先生と知り合うのだと決まっていたというのか。
頭の中を、誰かがぐるぐるかき回しているみたいに、思考がまとまらなかった。
不意に先生が俺の顔を見た。星のない夜空を思わせる、深い黒の瞳に見つめられる。鋭さと思慮深さが混じり合う、猛禽のような目だと思った。
「私が怖いかね」
問いかけは落ち着いていた。
すぐには答えられなかった。先生の姿のその向こうに、見通せない暗がりが果てなく広がって見えた。その不透過の淀みが俺のそばまで這い寄ってきて、足元の感覚が覚束なくなる。そのままどこまでも落ちていきそうに感じられた。
俺はそこで、氷山の九十パーセントは海面下にある、という話を思い出していた。人間も、それと似ているかもしれない。
先生の過去を、自分は、何ひとつ知らない。
怖いと答えるのも、怖くないと答えるのも、なんだか違う気がした。
「……分かりません」
「そうか」
先生は表情を変えないままに軽く首肯する。
胸の中でわだかまる、ぐにゃぐにゃした不定形の思いが、そのまま口をつく。
「──あの」
「ん?」
「先生は……誰なんですか」
我ながら馬鹿な質問だと思った。が、先生は難しい表情をつくって、
「それは私も知りたいところだな」
顔を歪め、皮肉っぽく言った。
前方の信号が青に変わり、また車がするりと動きだす。その後は、俺の家に着くまで、会話はなかった。
喉に小骨が刺さっている、ちょうどそんな感じで、先生の話の何かが、思考回路の途中に引っかかっていた。
「無理に今までどおりに振る舞おうとしなくてもいいからな」
家の前で、ドアを開けて降りようとする俺に、先生が告げた。
曖昧に頷くことしか、俺にはできなかった。




