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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
21/137

彼らのこと 過去からの来訪者・後編(6/6)

 浅い微睡まどろみの中で、銀色の夢を見る。

 懐かしくなるような、悲しくなるような、切なくなるような、そんな夢だ。とろとろとたゆたうあたたかな光を浴びて、いまや届かないものへ向かって手を伸ばした。きっと指の先には、あの人がいたのだろう。

 僅かに呻く。目覚まし時計がけたたましく鳴っている。意識が夢の底から現実へと引き上げられる。カーテンのあいだから射し込む朝陽が、室温を上昇させているのが分かる。起きねば。

 私は、おや、と思った。覚醒に近づいた思考は、息苦しさを感じている。なぜ息苦しいのだろう。原因は。

 目を開く。

 ひらけた視界にまず映ったのは、至近距離に迫った安らかなヴェルナーの寝顔だった。


「うわああああああ!」


 瞬間的にベッドの上のでかい図体を突き飛ばす。ヴェルの体は綺麗に一回転した後、どすっ、という鈍い音とともにカーペットへと投げ出された。


「あだっ! ……え、ちょ、何……え、朝? 今何時……?」

「六時だ」

「ええー……あと五時間寝かせて……」

「そこで寝るな! それより、なぜ貴様がベッドで寝ているんだ? それに何なんだその格好は!」

「あーうるさ……やめてよ朝から……俺別にいつも寝るときこの格好だし……」


 冷や汗をかきながら言い咎める。ヴェルは上半身だけのろのろと起こし、むにゃむにゃと目をこすっている。その身に纏われているのは、下着だけだった。

 パンツ一丁の大男。

 こんな人間と一晩同衾(どうきん)していたなど、想像しただけで身の毛がよだつ。道理で息苦しいわけだ。

 大きすぎた衝撃はほぼ恐怖に等しく、顎が震えて奥歯がかちかちと音をたてる。


「な――なぜよりにもよって貴様と寝床を共にしないといかんのだ?」

「いや……俺だってどうせなら可愛い女の子と一緒に寝たいよ……二の腕とかふにふにしたりしたいよ……」

「貴様の願望など知ったことか! だったらなぜ私の横に潜り込んだりしたんだ」


 ヴェルの眉間に皺が寄る。目はまだ開かない。


「あのさ、客人を床で寝させようとするなんて酷いと思わない? 錦には人の心が無いの? 人でなしなの? 鬼なの?」

「貴様らを客人として招いた覚えは無いが?」

「はあ……錦はもっと俺に優しくすべきだと思うよ。世界のどこの大統領もそう言うと思うよ」

「……。そこまで言うならもういい、明日から私が床で寝る」

「えっ……そんなこと言われたら俺の無けなしの良心が痛むじゃん……」

「自分で無けなしとか言うんじゃないこのたわけ」


 ヴェルは寝ぼけまなこのまま、半分夢の世界にいるようだ。

 ベッドから降り、赤髪の男の前に立つ。そのぼんやりとした顔を見下ろして、つくづく眺める。

 この男の意表を突いてやるのも悪くないか、と思案を巡らせてみる。既に心は決まっているのだ。

 出し抜けにヴェルナーの額を鷲掴みにして、無理に上を向かせ、


「おい」

「やだ、乱暴はやめて……優しくしてってば……」

「昨日の話、受けてやってもいいぞ」


 そう言い放った。

 昨晩、ベッドの上で、暗い天井を見上げているうち、意志は固まった。自分の気持ちと、茅ヶ崎龍介の身の安全、双方を天秤にかければどちらに傾くか、決まりきっていたことなのだ。決断を阻んでいたのは、ただ自分の臆病さだけだった。

 手を放して、ヴェルナーの表情の変化を見る。瞑目したままのしかめっ面から、何か問いたげな半目になり、やがて目の焦点が合ってくる。表情が二転三転し、最終的に顔全体が驚きの色に染まった。


「え! いいのか?」

「二度は言わん」

「そっかぁ、嬉しいよ。お前が戻ってきてくれるなんて――」

「ただし、条件がある」


 食い気味に言葉を返すと、ぎらっと光るような笑みが跳ね返ってくる。


「ほう、交換条件ってわけかい? いいぜ、言ってみな」

「……影の一員である以前に、今の私は一介の教師だ。だから、もし影と教師の立場で相反する決定を迫られた時には、教師としての立場を優先させてもらう」


 ふむ、なるほど、という頷き。


「それは問題ないと思うぜ」

「もうひとつ」

が強くなったもんだねぇ、お前も」


 にたにたと笑うヴェルナーの冷やかしには応じない。


「貴様は昨日、"茅ヶ崎龍介の護衛のために来た"と嘘を吐いたな。その嘘を(・・)真実にしてほしい(・・・・・・・・)んだ。茅ヶ崎の護衛を実行してくれるなら、私も貴様らに加わろう」


 何事か推し量るように、相手がふうんと漏らす。私の言い分を咀嚼するための、短い沈黙がそれに続く。


「……いいだろう。上にはそのように報告しとくよ。でもさ、そんなにその子が大切なの?」

「……教え子は皆大切だ。貴様には分からんだろうが」

「ま、お前が戻ってくるなら何でもいいけどね」


 ヴェルが肩をすくめる。

 ふと胸に、昨夜と同じ不安の雲が再来した。この男の言葉を、全面的に信じていいものだろうか。許可してもいないのに、勝手にベッドに潜り込んでくるような奴だ。

 自分が組織の駒として、なにがしかの目的のために使われ、その挙げ句捨てられることになろうと、別に構わない。ただ茅ヶ崎龍介の身に及ぶ危険は、排除しなければならない。


「ヴェル。確認だが、貴様……本当に護衛をするつもりがあるんだろうな?」

「んだよ、それ。俺のことを信用してねーのか?」


 ヴェルがむっとして頬を膨らます。


「お前だけは俺のこと信じてくれるって思ってたのに!」

「貴様、自分が信頼に足る人間だと思うのか?」

「いや全然」

「……」


 言葉を失う私の前で、ヴェルナーがあっと思いついた様子でぱちんと指を鳴らした。


「だったらそのお坊っちゃんに、俺が護衛につくって話をしよう。そしたらさすがの俺でも怠けてはいられなくなる。疑り深いお前も安心だろ」

「"さすがの俺でも"という発言は気になるが、まあ確かにな……だが影の話をしたら、"罪"のことまで伝えなくてはいけなくなる。茅ヶ崎は一般人だぞ。大丈夫なのか?」


 懸念を口にする。

 たとえ"罪"に狙われているとしても、特定の人物に対して、影のメンバーが自分たちや罪の活動を説明するなど、皆無といっていい。情報はどこから漏れるか分からない。影や罪の存在を知る者の数は少ない方がいいのだ。ヴェルの提案は影の方針に反するものなのに、その口調は軽々しすぎる。

 当の本人は気楽に笑って、顔の前でひらひらと手を振っている。


「ああ、大丈夫大丈夫。初めから影と罪の話はするつもりだったから」

「……初めからだと?」


 喉の奥から嫌悪感がせり上がってきて、奥歯を噛み締める。あまり良い気分ではなかった。


「初めから、とはどういう意味だ」

「"茅ヶ崎龍介は、いずれ知ることになる"」


 ヴェルが、天からの啓示を読み上げるがごとくにそらんじる。


「……何だね、それは」

「シューニャが言ってたんだ。意味は俺には分からねぇがな。彼はいずれ知ることになるから、影のことも、"罪"のことも、すべて話せってよ」

「よく分からんが……つまり貴様は、影と"罪"の話を茅ヶ崎に伝えた上で、傍観を決め込もうとしていた、そういうことか」

「うん」


 重々しく問うた疑問への、極めて軽い返答。

 長く深いため息を吐く。どうしようもなく不快感が湧いてくる。


「貴様ら影のやり方はやはり気に食わん」

「そうは言っても、今日からまたお前も、こっちの世界の人間なんだぜ。にしても、俺の言った通りになったなあ」

「言った通り?」

「お前が影を去る日、俺がお前に言ったこと、覚えてねぇか?」

「……」

「ほら、お前の場所は空けておくから、いつでも戻ってこいってやつ」

「……ああ」


 それは記憶の片隅で、埃にまみれて転がっている程度の、ひどく朧気おぼろげな情景だ。初対面のときの台詞といい、本当に些末なことばかり覚えている男である。

 別れの日、ヴェルはどんな表情を浮かべていただろうか。もう思い出せない。あの頃のことを忘れたくて、忘れようと努めていた結果だろう。それでも、彼女の姿だけは、どうしても記憶から消えてくれない。

 忘れた方が楽だと理性では分かっている。けれど、一枚皮を剥いだところにある本能が、それを拒否する。覚えているのは結局、忘れたいことばかりだ。

 影を去ったあの日、この目に映る人々の幸せくらいは、自分の手で守るのだと決めた。その決意が今、試されているような気がする。

 日本は平和だ。自分が八年間で牙を抜かれ、人の気配に気づけなくなってしまうほどには。ヴェルは茅ヶ崎龍介に、すべてを話すと言った。平和な国で生まれ育った少年は、ひとつの才能に恵まれた普通の高校生は、ろくでもない世界の有り様を、果たして受けとめられるのだろうか。

 支えなければならない。そう思った。


「それじゃ、約束だぜ。俺がお坊っちゃんの護衛をする代わり、お前は影に戻る。二言はないな?」

「ああ。影が私をどんな形の歯車として期待しているのかは知らんが、その役目を果たしてみせようではないか」

「いいねえ、その憎まれ口。それでこそ錦だ」


 ヴェルが愉快げに唇の端を引き上げ、気取った調子で右手を差し出した。


「再びようこそ、イカれた世界へ」


 私も右手を伸ばし、その手を取る。

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