彼らのこと 過去からの来訪者・後編(5/6)
「その流れはなんというか……おかしいのではないか?」
指摘すると、ああそうだ、とヴェルナーが珍しく神妙な顔をして頷いた。
「こんな事態は誰も予想してなかった。みーんなあたふたしてるよ。影の誰にも、何が起こってるのか分からねぇんだ。こんなことは初めてだ」
「どうしてそんな状態になる? 影にはシューニャがいるだろうに」
首をひねりながら尋ねる。
シューニャは影の中でも数少ない、というよりも唯一の特級予見士だ。彼の見る未来は正確無比で、予想が外れることはない。不測の事態なるものと、影は無縁のはずだった。
そして、彼のその力によって、彼女は──ルネは死んだ。
「シューニャは予見を辞めたよ」
冷たい声音にはっとする。その口元に浮いているのは、はっきりした冷笑だった。
「八年前からね。ルネの一件で、シューニャも少なからず傷ついたってわけだ。俺は、まだあいつを許す気にはなれねーけどな」
「……」
「あの時──お前が止めてなかったら、俺はシューニャを殺してたかもしれん。あいつがいなかったら、ルネが若くして死ぬこともなかったし、お前も幸せだっただろう。正直言って俺はあいつが憎いよ。お前はどうだ?」
血の色の眼の中心の、底のない深淵が、こちらを手招きしている。引き込まれそうに思えて、その目からふいと視線を逸らした。
「……許すも何も、初めから私は腹を立ててなどいないよ。もしもの話はやめよう。あれは運命だった。シューニャが悪いんじゃない、仕方なかったんだ」
「そう言う割には、お前の方が引きずってるみてーだけどな」
言葉が心にぐさりと突き刺さる。言葉の棘を乱暴に引き抜いて、その辺に放り投げた。傷口から吹き出る血には気づかないふりをする。
「……昔のことはもういいではないか。一体、影に何が起きているのか──」
「どうにもきな臭ぇんだよ。何か、とんでもねーことに巻き込まれてる気がする」
ヴェルナーが焦点の合わない目をして呟く。それは独り言のようでもあり、彼の体を借りて届いた、何者かからの警句のようでもあった。
「とんでもないこととは何だね」
「さあな。それは分からねぇけど」
「根拠はないのか」
「だって俺は予見士でも何でもねぇからな。で、戻るか、戻らないか。返答は変わらないかいる」
ヴェルナーは上体を前のめりにし、膝の上で指を組む。穏やかな顔つきで目を少し細め、返答を促すように小首を傾げた。
戻る? 影へ?
あり得ない、と思う。しかし茅ヶ崎龍介が狙われる可能性を思うと、否応なく彼の顔が目の前にちらつくのも確かだ。
「……。私に何をさせようと言うんだ」
「俺もそれはまだ知らねえんだ。さしあたり、その茅ヶ崎くんって子の身辺警護の続きでもするんじゃねーかな」
かつての戦友が、ゆったりとした口ぶりで問いかけてくる。
「お前の心境を抜きで考えれば、そんなに悪い話じゃねえと思うけどな。影に戻れば武器の使用許可が下りる。今の状態じゃあもしそのお坊っちゃんが襲われても、お前は手をこまねいて見てることしかできんのだぜ。とっても心優しい錦くんに、それができるかい?」
冷やかしめいた言い方だったが、ヴェルナーの目はあくまでも真剣だ。その言葉は私の心境の核心を突いた。
自問自答する。果たして、彼が傷つけられそうになったとき、見殺しにできるのだろうか、と。あまりにも深く関わりすぎた、彼のことを。
自分は今、己の気持ちと、彼の身の安全とを、天秤にかけているのだ。
「……今でも、代わりに死ぬくらいはできるだろう」
「教え子のために身代わりになるって? そいつァ泣かせるねぇ」
ヴェルナーがひゅうっと口笛を吹く。
ソファに背を預けて、しばし中空を仰ぎ見た。
影には戻れない、もうあんな思いを味わうのはごめんだ、という固い気持ちがある一方で、誰かが目の前で傷つくのを見るのはもう嫌だ、という気持ちが強いのも事実だった。
「……すぐには返答しかねる。少し、考える時間をくれないか」
相手は鷹揚に頷く。
「ああ、いいぜ。俺達もしばらくここにいるしな。ゆっくり考えたらいい」
「すまんな。答えが出たら連絡するから、連絡先を教えてくれるか」
「ん? 別に、口頭で直接伝えてくれたらいいよ。しばらくここにいるっつったろ」
その言が咄嗟に理解できない。同時に、黒い不安の雲が心の中に湧き立ち始める。
「……すまない。何か、誤解があるようだ。貴様の言う"ここ"とは、どこだ? 私は"この街"と理解したのだが」
ヴェルナーが目を見張り、えっ違う違う、と手を振る。嫌な予感はもはや暗雲となり、胸の内を覆い尽くしている。
彼の右手の人指し指が、真っ直ぐ下を示した。
「"ここ"って、ここのことだよ。お前んちのこと」
──この男は今何と言った?
雲の上で、遠雷が唸る。
「……貴様が何を言っているのか分からないのだが」
「えーだから、しばらくお前んちに居候させてもらうってこと」
「は?」
「え?」
大気をつんざく落雷。
ヴェルナーがきょとんとして、駄目なの、と言う。
もうどこから突っ込めばいいのやら分からない。本当に頭痛がしてきて、こめかみを押さえた。気分は土砂降りである。
ハンス君の膝の上で、ノイが退屈そうにニァアアと鳴いた。
「……どうしてそう……貴様は勝手に……」
開いた口が塞がらないとはまさにこの事だ。
赤髪の青年は不服そうに口を尖らせる。
「えー別にいいじゃん、俺とお前の仲じゃん」
「勝手に事を決めるんじゃない! 貴様がどう思っているのか知らんが、私は貴様にかける情けなど持ち合わせていないぞ」
「冷てぇなあ錦は。意地悪。ケチ。錦のケチくさ野郎」
「どうとでも言え。ホテルにでも泊まったら良かろうに」
途端にヴェルナーが声を荒らげる。
「ホテルに長期滞在する金なんてねーよ! どんだけ影に吸い取られてると思ってんだよ。日本までの飛行機代ですっからかんだっての」
「ちょっと待て、どうして貴様が怒るんだ」
「しかも支援部の奴にこっちでの仕事を斡旋してもらおうと思ったらなあ、日本でお前ができる仕事なんかねーよバーカって言われちまったんだよ!」
「……」
「違うもん! 俺のせいじゃないもん!」
「……一応、資金を稼ぐ努力はしたんだな」
「俺は悪くないもん!」
「おい……泣くなよ……」
おいおいと顔を手で覆うヴェルナーを慰めようとして、いやこの男は身勝手にも居座ろうとしているのだと思い直し、手を引っこめる。
ハンス君は己の上司の醜態を呆れて見ていたが、こちらに向き直って非の打ち所のない笑顔を作ってみせた。
「僕はご厄介には及びませんよ。能無しのこの人と違って仕事も見つかると思いますし、いざとなったら野宿でも大丈夫です。でも、この子だけはこの部屋に泊めてあげてほしいんです、女の子なので」
そう言って、黒猫を膝の上で抱える。ノイはニァーアと機嫌良さそうに長く鳴いた。
青と金、それぞれ一対の眸に見つめられ、思わずたじろぐ。
「いや……ここの物件はペット禁止でな……」
反射的に紡いだ言葉に対し、ハンスが信じられない、と言わんばかりの表情を浮かべた。
「……! ノイはペットじゃありません、僕の大事な相棒です!」
「違うんだ、言葉の意味が問題なのではなく」
「どうかお願いします、桐原さん」
「いやあの」
「にしきぃい」
「桐原さん!」
「…………」
二人のドイツ人が泣き、怒る。喧騒に驚いたのか、ノイがハンスの腕を飛び出し、ニァゴニァゴと鳴き声を上げながら部屋を駆け回る。まるで台風だ。
ヴェルナーとハンス君があまりにもしつこく食い下がるので、最後には私の方が折れることになった。願わくばその無駄な粘り強さを、何か有用な方向に活かしてほしい。
思わず嘆息が漏れる。どうも自分は押しに弱くていけない。彼らのいいように事が運んでいる気もするが、すべては私の不徳の致すところだろう。仕方あるまい。
詰め寄る二人に、もういい、分かったと半ば自棄になって言うと、赤い目と青い目がきらりと輝いた。どうぞ勝手にしてくれ。
「二人とも、寝泊まりは許可する。ただし、食費くらいは出してくれよ。それから寝床はハンス君がソファで、ヴェルは床だからな」
「分かりました」
「えー……」
「不満か? だったら出ていってもらってもいいんだぞ。放り出されたいのか?」
「イエ、スミマセンデシタ」
ヴェルナーがロボットよろしくぎこちなく頭を垂れる。それをハンス君が嘲笑する。
こうして不本意ながら、妙なドイツ人二人と猫一匹との共同生活が、幕を開けることとなった。




