彼らのこと 過去からの来訪者・後編(3/6)
「……そういえば、ハンス君。私は君を知っていた」
唐突な物言いに驚いたのだろう、ハンス君が青い目をしばたかせる。
「え? どこかでお会いしましたか」
「いや、私が一方的に見たことがあるんだ。ヴェルが昔、君の写真を持っていてな」
それも、八年前のことだ。ヴェルナーが俺の弟子だと言って、ハンス君の写真を見せてくれたのをようやく思い出した。といっても、そこに写っている彼は年端もいかない無邪気な少年だったが。見た目の雰囲気が違いすぎて、すぐには分からなかったのだ。
ハンス君は横に座っている自らの師匠に、じっとりとした視線を送る。
「写真って何ですか、ヴェルナーさん。どういうことですか」
「まあ、いいじゃねえか。何でも」
ヴェルナーは目を逸らしている。
「僕、聞いてないですよ。写真なんて持っていってたんですか」
「まあ、いいじゃねえか。それより飯食えよ」
どうやらこの話題は地雷だったらしい。
私は食事中、二人の奇妙な来訪者を観察した。どうも二人のあいだには、微妙な空気が流れているようだ。
ヴェルナーはハンス君の暴言を軽業師のように受け流しつつ、それでいてどこか弟子に遠慮しているような節がある。ハンス君はハンス君で、師匠に向ける軽蔑の視線には、時おり羨望や嫉妬が混じった。
どんな事情があるのか知らないが、典型的な師弟関係には到底見えない。二人の関係にはどうも確執がありそうだった。
食器の片付けまで済ませてダイニングに戻ると、二人の姿はそこには無く、黒猫のノイだけが床にちょこんと座っていた。猫は私を見るなり立ち上がり、尻尾をぴんと立ててリビングの方へ歩き出す。ついてこいと言っているようだ。あまつさえノイは途中で一度振り返り、ニァアと鳴いてみせたりもした。
リビングへの扉を開ける。ノイはとてとてとてと迷うことなく進み、二人掛けのソファーに腰かけていたハンス君の膝に飛び乗って、そこにちんまりと収まった。
ハンス君の隣ではヴェルナーが長い脚を組んで寛いでいる。まあ座れよ、と彼は一人掛けのソファを指差した。
「ここは私の家なんだが」
「お前のものは半分くらいは俺のものみたいなもんだろ」
「どういう理屈だ。とにかく、話というのを聞かせろ」
赤毛の男が口の端に引きつったような笑みを浮かべた。つくづくこの男は嫌な笑い方をする奴だと思う。
「俺がここに来たってことはどういうことか、もう大体分かってるんだろう?」
胃の底がずしりと重くなる。
一人の教え子の顔が思い浮かんだ。
鋭い視線と、ぶっきらぼうな口調と、刺々しい雰囲気と、デリケートな精神と、数学の才とを併せ持った、一人の男子生徒。
「……茅ヶ崎のことだな」
観念したように言うと、ヴェルナーが勿体ぶった様子で首肯する。
「そうそう、茅ヶ崎リョウスケくんのことで」
「龍介だ」
「あーそっか、いやあどうも──」
「男の名前を覚えるのは苦手、なんだろう」
ため息混じりに言葉尻を奪って続ける。幾度となく聞いた台詞。
ヴェルナーがにやにやと気の抜けた笑みを浮かべて、分かってるじゃんか、と楽しそうに言う。
対する私は胸の内で嗚呼、と嘆いた。無念、という思いが毒のように全身に回る。こうなることを、覚悟しておくべきだったのに。
私と茅ヶ崎龍介。私たちは、出会うべくして出会った仲だ。
それは言うなれば、運命、という陳腐な言葉でしか定義できない出会いだった。
影を辞す人間に課される、ひとつの義務がある。影の予見士が予見した、"罪"に狙われる可能性がある人物の"監視"である。
影の元エージェントへは、対象となった人物と出会えるように手筈が整えられ、一般人としての生活が始まる。対象者が"罪"に襲われたりした場合は、影へ報告せねばならないのだ。
私の場合、その対象が茅ヶ崎龍介だった。
ヴェルと再会するまで、私はその事実を半ば忘れかけていた。
八年前、"罪"の指導者が死んだことにより、組織は弱体化し、一般人が"罪"にピンポイントで狙われる可能性は無視できるほど小さくなった。もう二度と影と関わり合うことはない。無邪気にも、そう信じていた。忘れたふりができていたのだ。自らの過去も、彼女のことも、こそばゆいような感情も、胸を抉るような感情も、何もかも。
現役の影のエージェントが会いに来るということは、茅ヶ崎龍介に関しての、何らかの警告に違いない。今日、ヴェルナーと再び相見えたとき、地獄に突き落とされた気分だった。
重い心持ちのまま、浮かんだ疑問をそのまま口に出す。
「しかし……分からんな。罪の勢力は弱まったのではなかったか? 指導者は死んだはずだろう」
「ああ。八年前に、"英雄"の手によってな」
「……」
英雄、という単語に、その場の二人が反応する。私と、ハンス君だ。自分の心境は苦いものだったが、ハンス君は目を輝かせている。
影を去ったあと、一度だけヴェルナーからエアメールが届いた。そこに、"罪"の首領を討ったエージェントが、"英雄"と呼ばれている旨が記されていた。
胸糞悪い。その時そう思った。
「桐原さんは、"英雄"のことをご存じなんですよね」
邪気のない声にはっとする。ハンス君がきらきらした目でこちらを見ていた。治りかけた古傷を、錆びた刃物で深く切りつけられた思いだった。心の中で、血が滴る。
「僕、"英雄"をとても尊敬しているんです。ヴェルナーさんから、桐原さんが"英雄"について知っていると伺って。僕はヨーロッパから離れるのは正直嫌だったんですけど、"英雄"の話が聞けるならと、ヴェルナーさんに着いてきたんです」
かつての戦友へ視線を移す。彼は組んだ脚を解いて、優しく微笑んでいた。
瞬間的に、喉の奥から熱くどろどろした怒りが沸き上がってくる。この男が憎い。ふざけた面を、二度と笑えないくらい、めちゃくちゃにしてやりたい。どうしてこんな仕打ちができるのか分からなかった。
「良かったらお話を聞かせてもらえませんか」
「……後にしてくれ」
私は吐き捨てる。ハンス君は心底嬉しそうに、はいっ、と答えた。
手が怒りでわなないているのを、きつく指を握り合わせて押さえつける。荒くなりかけた呼吸に気づき、一度深呼吸した。
──落ち着け。今怒りをあらわにすることに何の利もない。自分を殺せ。この場をしのぐことだけ考えろ。
抑制した声は、心もち震えた。
「……それにしても、意外だな。組織は弱体化して、もう大それたことはできなくなったと思っていたが」
「そのことだけどねえ、それも説明しないといけないと思ってたんだよね」
私の怒りに気づかないはずがないのに、ヴェルナーの口ぶりは緊張感に欠け、至極あっさりしていた。まるで明日の天気の話でもするかのように。
ヴェルナーはジャケットの内側に手を突っ込む。ハガキ大の、革の表紙の本らしきものが出てきた。
「初代が死んだあと、二代目の指導者が選定されたんだよ。洗礼名はディヴィーネ。こいつが相当な曲者でな」
洗礼名とは、"罪"の中で使われる通称名。つまり偽名である。
ヴェルは本を開き、そこから一枚の写真を取り出してテーブルの上へ置く。革表紙の本は写真入れだったようだ。
写真に目を落とし、息を飲んだ。
三十年生きてきて、これほど美しい人間は見たことがなかった。
まず目につくのは、肩口まで伸びた眩いばかりの銀白色の髪。そして、磁器に似たつやと透明感のある、なめらかな白い肌。何者かの意思の介入があったかのように、顔のパーツは全てが完璧な大きさと形を持ち、それぞれが寸分の狂いもなく顔の適切な場所へと配置されている。
おそらく隠し撮りされた写真なのだろうが、青緑色の瞳は真っ直ぐこちらを見返している。生きている人間の目とは思えないほどに、冷たく無機質な光を宿した双眸だった。限りなく人形の目に近い。背筋に冷たいものが走った。
全てが危ういバランスで成り立った人間。そんな印象を受ける。
「……これは、女か?」
「いや、男だよ。びっくりだよなあ。テロリストのボスなんかやってねーで、モデルにでもなってくれてたら俺たちも苦労しなかったのによ」
この美貌の青年が、現在の"罪"のボス。
彼の口元には、酷薄な感じの微笑が張り付いている。その陰惨な笑みから目を背けたいのに、容貌の美しさが目を惹き付けてやまない。そんな妖しげな吸引力が彼にはある。
ヴェルナーはさらにもう一枚写真を引き出した。
「ディヴィーネは指示を出すだけでほとんど表には出てこねえ。実行部隊のなかでとりわけやばい奴がこいつだ。ディヴィーネの右腕のルカ。嘘か真か、一人で町ひとつ消したって話もある」
写真を見る。映像の一部を切り取ったものらしく、かなり解像度が粗い。黒い髪、黒い服の青年が、どこかの街角に佇んでいる姿が写っている。頭身からして、かなりの長身だろう。ピントがずれていて表情がよく分からないのに、琥珀色の瞳だけが別の生き物のようにぎらぎらと光って見える。それが不気味だった。
「……まだ若く見えるが」
「ハンスと同い年の二十一歳らしいぜ、真偽は分からんがな。こいつに限らず、今の"罪"は若い奴だらけだ。十代のメンバーだってごろごろいやがる。どうもディヴィーネに傾倒した若者が集まってきてるみたいだな。そいつらはディヴィーネに心酔しきってる。だからディヴィーネの言うことは何でも聞く」
一呼吸置いて、
「それがたとえ、自分の命を危うくすることでもな」
暗く冷たい口調だった。
"美しさは人を狂わせる"。頭のなかで誰かが呟く。
思わず天井を仰いだ。自分の知らないうちに、"罪"は勢力を盛り返していたようだ。八年前の闘争で減らした人員を補い、影と対抗するだけにとどまらず、一般人をも狙うだけの力を取り戻した。その結果、茅ヶ崎の命が狙われる可能性が高まってきた。そういうことらしい。




