彼らのこと 過去からの来訪者・後編(2/6)
「……そう言う貴様はどうなんだ。貴様も、もう二八だろう。身は固めたのか」
「んー? 俺はねえ、八年前と同じ女を愛し続けてるよ。未だに気持ちは受け入れてもらえてないけどね」
「……」
「一途でしょ?」
「……それこそ未練がましいと言うんじゃないのか」
今日何回目か知れないため息をつく。
ヴェルナーはまるで揺らめく炎のように掴みどころがない。この男との会話にそろそろ疲れてきた。年齢を重ねて少しは落ち着いたのでは、という淡い期待はとっくに崩れ去っていた。
黙っていてほしいのに、男はまた口を開く。
「つーかお前、もしかして影を辞めてから誰とも一度も付き合ってねーの?」
肯定すると、ヴェルナーは大袈裟に驚いた表情を作った。
「まじかよ……いかんなあ、それはいかんよ、錦くん。そんなことではどんどん心が老化していってしまうよ。あ、体もかな?」
「……貴様は年下なのに、どうしてそう偉そうなんだ」
「だって俺の方が経験豊富だしぃ」
ちょっと待て。
「貴様はさっき、一人の女性を愛し続けていると言わなかったか?」
「もちろん心変わりはしてないよ。でも、心と体は別物だもーん」
「男の風上にも置けんな貴様……それに大の男がもんとか言うな」
呆れを通り越して、私の中にヴェルナーへの怒りが沸々と湧いてきた。
こいつの女好きは昔から目に余るものがあったが、それはどうやら変化していないか、悪化しているらしい。
だらしなく笑う傍らの男を一発殴りたいという私の思いを乗せ、黒いセダンは自宅への道筋をひた走る。
自室の扉を開け、電気を点ける。なかなかいいとこ住んでるじゃねえか、とヴェルナーが呑気な感想を述べた。
たかが二十分程度言葉を交わしていただけなのに、私の気疲れは相当なものだった。これからさらに影の話を聞かされる、と思うと気が滅入る。
ヴェルをダイニングの椅子に座らせ、自身もその前に座る。
「話を聞かせてもらおうか」
「ああ、その前に。お前に紹介したい奴がいるんだ」
ヴェルが不遜な笑みを浮かべる。おい、もういいぞ、とダイニングから続くキッチンの扉へ呼びかけた。
誰に言っているんだ、と言いかけたところで、閉ざされていた扉がすうっと開く。肝を冷やして、扉を凝視する。
「待ちくたびれましたよ、ヴェルナーさん」
悠然とした微笑みと共に姿を現したのは、金髪碧眼の美しい青年だった。
唖然としてその青年を見つめる。同時に、不思議な既視感に襲われた。
年の頃は二十歳前後だろうか。金細工のように繊細な髪と、優美な顔の造りを兼ね備えている。垂れ気味の目は髪と同じ色の長い睫毛に縁取られ、虹彩は覗き見た海がそのまま焼き付いたような深い青だ。美青年という形容がこれほどはまる人間も珍しいと思えた。
しかし私の視線を捕らえたのは容姿ではなく、青年が着ている服だった。紺色の、見覚えのある軍用服。影と"罪"の闘争が著しかった八年前まで、影のエージェントに支給されていた戦闘服だ。
ヴェルナーがふふんと鼻で笑う。
「人の気配に気づかなかったのか? 平和ボケしてんじゃねーの?」
「……平和ボケの、何が悪いんだ」
「ま、いいけどね。こいつは俺の部下であり弟子でもあり義弟でもある、ヨハネス・リヒターだ。ハンスと呼んでやってくれ」
「初めまして桐原さん、ハンスといいます。ヴェルナーさんからよくお話は聞いていました。それからこの子は」
とハンスと名乗った青年が足元に視線を落とす。釣られて見ると、その脚に寄り添うように、毛並みの整った金目の黒猫が佇んでいた。
「僕の大切なパートナーのノイです。どうぞお見知りおきを」
ニァア、と猫が鳴き、ハンス君の口元が優雅な曲線を描いた。
思わずこめかみを押さえる。頭痛がしてきそうだった。
「ちょっと待ってくれ。色々と聞きたいことがあるんだが……」
「勝手に家にお邪魔したことは謝ります。何も盗っていませんし、壊してもいないので、ここはひとつ見逃して下さいませんか」
「いや、それはまあ良いとして……。君のその格好は何なんだ」
「これですか?」
ハンス君が指先で焦げ茶色のシャツの襟を持ち上げる。
それはな、とヴェルの声が割って入った。
「こいつは影の支援部の所属でな。いつも偵察役をやってて、今みたいに大概の扉でも金庫でも開けられるんだが、武器を扱う技量がねえんだ。だから執行部員に憧れてて、外見だけでも勇ましくいこうってわけさ」
ヴェルが親指でくいとハンス君を指すと、青年の双眸が昏く光った。恨めしさの宿った視線がヴェルに注がれる。
ヴェルは執行部所属で、ハンス君は支援部所属──おかしな話だった。
影のエージェントは、三つの部署──執行部、諜報部、支援部──のいずれかに所属する。敵対組織である"罪"と直接事を構える執行部、スパイ活動を担う諜報部、様々な物資や情報を扱う支援部、役割はそれぞれにある。
影ではエージェントの各々が、弟子を取ることが推奨されている。それは、執行部員なら戦闘の技術を、諜報部員なら諜報の技術を、全て弟子に教え込むためだ。だから、師匠と弟子は普通同じ部署に所属する。この二人のような例は聞いた覚えがない。
ヴェルの得物は銃のはずだが、ハンス君はその技術を全く教えられていないということなのか。
「そんな話があっていいのか」
「もちろん僕は納得していませんよ。さっき部下ってヴェルナーさんは言いましたけど、部隊が違うから今のままじゃ名ばかり上司ですしね。どうしてこんな不能な人の下で働かなきゃいけないのか、意味が分からないです」
「おい待て、俺は不能じゃねえ。それを言うなら無能だろ」
ハンスの重たい眼差しをかわすように、ヴェルナーがあっけらかんと笑う。
「無能は否定しないのかね……」
「桐原さん、聞きました? 僕はこの無能を自称する人をやっつけて、地位をぶん取ってやるのが目標なんです。これからよろしくお願いします」
「…………」
「ま、こういう奴なんだ」
ヴェルは手慣れた風である。ハンス君は終始柔らかだが本心が読めない笑みを浮かべていた。師匠も師匠なら、弟子も弟子でかなりの曲者だ。疲労感がさらに募る。
早く話を聞こう。そしてさっさと帰ってもらおう。明日も仕事なのだし。
「それで、本題だが」
「あーその前にだね、錦くん」
「今度は何だ」
「腹減ったから何か作ってよ。お前料理は得意だったろ?」
「……」
「なんだよ。睨むなって」
「あのな……人に物を頼むには、それ相応の態度というものがあるんじゃないかね」
ヴェルナーがはっと何かに気付いたような顔をする。
「オゥ……ニシキサーン、俺タチオナカペコペーコナンデース、何カツクッテクダサーイ」
「どうして急に片言になるんだ……」
全身の力が抜ける。もういい分かった、とぞんざいに呟いて、キッチンへ向かった。
三人ぶんの夕食をテーブルに並べる。
白米、味噌汁、昨日作った煮物、ほうれん草のおひたし、買い置きの釜揚げしらす。手抜きもいいところだ。
私のエプロン姿を目にしたヴェルナーが、可笑しいのを堪えているような変な表情を浮かべ、体をぷるぷる震わせた。
「何だその顔は」
「だ、だって、ぷぷ……っ、エプロンて……お前がエプロンて……」
「訳の分からんことで笑ってないで、早く食べたらどうなんだ?」
「ぷ……、はいはい、分かったよ食べるよ」
「お二人は仲がいいんですねえ」
ハンス君が間延びした声を漏らす。
私がテーブルに就くと、ヴェルは器用に箸を繰って食事を始めた。対するハンス君は念のために出しておいたスプーンを使っている。むしろハンス君の姿の方が自然なのかもしれない。ヴェルが箸の持ち方を知っていることに、私は少し驚いた。
「箸が使えるのか」
「うん。俺、和食が好きでさ。ドイツの日本料理屋にもけっこう行くんだ。知らなかったろ?」
「ああ。初耳だ」
「だから任務で日本に行くことが決まって嬉しかったぜ。お前にも会えるしな」
「下らん」
「おいおい、照れ隠しかい?」
「その腐った目にこの箸を突き刺してやろうか?」
「お二人は仲がいいんですねえ」
どこをどう見たらそう見えるのだ。
ハンス君が白い小魚をスプーンですくって、まじまじとそれを見つめ、不思議そうな顔をする。その様子を眺めているうちに、先ほどの既視感の正体にはたと気がついた。




