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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
16/137

彼らのこと 過去からの来訪者・後編(1/6)

桐原きりはらにしきの話


 冷たい指で心臓を鷲掴みにされた心地。

 いるはずのない人物が、そこにいた。もう二度と見ないと思っていた顔。忘れかけていた──忘れたと勘違いしていた苦々しい思い出たちが、閃光のように脳裏に明滅する。情報の洪水にうろたえる。自分が立っている場所が崩れていくような感覚があった。


「おいおい、ばったり幽霊に出くわしたみたいな顔をすんなよ、錦。傷つくだろうが」


 そこに立っている赤目赤髪の長身の男が、薄く笑いながらほざく。武力組織である影の一員、ヴェルナー・シェーンヴォルフ。

 忌々しい、自分の旧友だ。

 男がつかつかと歩み寄ってきて、その血色の瞳でじろじろとこちらを見た。


「八年間でずいぶん変わったなあ、お前。一瞬人違いかと思ったぜ」


 八年。そうだ。八年前まで、私は影の一員だった。そして、敵対する"(ペッカートゥム)"との抗争に明け暮れていた。記憶の隅に追いやり、忘れたふりをしていた事実。


「それに、眼鏡なんかかけちゃってさ。目が悪いわけでもねーくせによ……ってちょっと待って痛い痛いから引っ張らないで痛いから」


 完全に停止していた思考を奮い立たせてヴェルナーの腕を掴み、強引に階段下の目立たないスペースに引き入れる。できるなら無駄に悪目立ちするこいつを人目に晒したくない。加えて会話も聞かれたくない。

 放り出すようにその腕を離して、赤毛の男と相対あいたいした。昔と変わらない、本心の読めない顔。その顔を彩る、鮮血のような赤。この場にこの男がいる、という現実に目眩すら覚えた。

 身に纏うボルドーのスーツと黒いシャツが、彼の髪色や虹彩と相まって強烈な印象を与える。どう見ても頭のネジが何本か飛んでいる。


「何をしに来た。なぜ貴様がここにいる?」


 何年も遣う機会のなかったドイツ語に頭を切り替え、詰問した。ドイツはヴェルナーの母国である。相手はやれやれといったように軽く肩をすくめた。


「何年も会ってなかった友人にいきなりそれかよ? そりゃあお前、新しい環境で頑張ってるであろう大切な友人に陣中見舞いをだな……」

「白々しい嘘を吐くな。用向きは何だ。さっさと済ませてさっさと帰れ」


 ヴェルナーの、整った顔にへらりとした笑みが浮く。きつい口調で話しているというのに、一体何が可笑しいのか。


「あー、はは。お前のそのおっさんくさい喋り方、すっげー懐かしいわ。つうか、年齢の方が喋り方に追いついてきたか? 三十歳だもんな。もう立派なおっさんか?」

「……わざわざドイツから私を馬鹿にしに来たのか?」


 ヴェルナーの顔をじっと見る。正確には睨む。

 こいつと最後に会ったのも八年前だが、軽薄が服を着て歩いているようなこの男の外見は、当時と殆ど変わっていない。驚くほどに、だ。


「貴様は変わらんな。能天気なところも、口が軽いところも、ちゃらんぽらんなところも、何一つ」

「え、昔と変わらないって? そんなに褒められると照れるじゃねーか」


 褒めていない。

 皮肉をこれでもかとばかり込めたのに、ヴェルナーには全く通じないらしい。

 思い返せば昔もそうだった。いつも捉えどころの無い態度で、私の小言や苦言を受け流してばかりいた。彼のそういう、何ものにも囚われない奔放なところが私は嫌いだった。

 変わっていてくれれば良かったのに、と思う。彼の容姿や性格が当時と変わっていたなら、余計なことを思い出さなくて済んだかもしれないのに。

 ──例えば、彼女のことであるとか。

 記憶の奥底で、銀色が揺れる。


「ま、陣中見舞いってのは冗談だよ。上から仰せつかった任務でさ。話したいことがある」


 急に眼光を鋭くして、ヴェルナーが告げた。

 聞きたくなかった。きっとろくでもない話だと容易に想像がつくから。この男の所属する影とは、"そういう"ところなのだ。


「……分かった」


 渋々頷いて、スーツのポケットから車のキーを取り出す。お、という顔をした青年に、それを手渡す。


「任務の話なら、私の家でした方がよかろう。まだ仕事があるから、車の中で待っていろ。黒のセダンだ。勝手に乗り回すなよ」

「へいへい」


 鍵を受け取ったヴェルナーがきびすを返す。早いとこ終わらせろよ、とひらひら手を振る後ろ姿が、一瞬だけ昔の彼に見えて、息が詰まる。

 その残像を振り切って、また職員室に戻った。



 仕事を終える頃には、薄闇がじわじわと大気を飲みこみ始めていた。コウモリが不規則な軌跡を描いて、校舎の周りを飛び交っている。外に出た途端に日中の熱の名残が肌に纏わりつき、不快感を誘う。

 気の重さを感じつつ車へ向かうと、ヴェルナーは助手席のシートを目一杯倒して寝入っていた。規則正しく寝息をたてている。熟睡である。

 ふうと一つため息を吐く。どこまで能天気なんだ。


「おい、出発するぞ。シートベルトを締めたまえ」

「んあ? ああ……お疲れさん」


 ふあーあと犬歯を晒すほどの大欠伸をしてから、赤毛の青年が眠たげに目をこすった。

 エンジンをかけつつ、横目でヴェルナーを見る。


「……生きていたんだな」

「勝手に殺すなよ。そりゃあこっちの台詞だっての」

「……それにしても貴様、その格好は何なんだ」

「これ? かっこいいでしょ」

「格好いいかどうかはさておき……貴様も影の一員なら、極力目立たないように努力するべきなんじゃないのか」


 こいつの私服姿を見るのは初めてだ。よもやこんな派手な格好をして現れるとは夢にも思わなかった。

 影の面々は大抵、街行く人々に紛れるような目立たない格好をする。今の時代、組織の命運を左右する最も重要なファクターは"情報"だ。目立つ格好をするほど、影のメンバーがどこにいるかという情報を敵に与えやすくなる。それはとても大きなリスクだ。

 

「いやあ俺の場合、地味な格好しててもきっと注目を一身に集めちゃうからね。主に女の子からの」

「……そうか。それは厄介だな」


 投げやりに相槌を打つ。真面目に忠告した自分が馬鹿だったか。この男と話しているとため息が絶えない。昔そうだったように。

 車をバックさせ、学校の駐車場から出る。周辺にはもう生徒の姿はない。いつも通りの帰宅の風景だ。助手席に妙な男が座っていることを除けば。


「それにしても、お前にまた会えるとは思ってなかったよ。再会できて嬉しいぜ」

「私は全く嬉しくないがな」

「ったく、相変わらず愛想のねえ野郎だなぁ」

「貴様に愛想を振り撒かなくてはならない理由が分からん」


 ヴェルナーがそこでぷっと吹き出す。


「なぜそこで笑う?」

「いや、今の台詞……俺たちが初めて会った日にも同じこと言ってたぞ、お前。忘れたか?」

「……わざとだ」


 正直覚えていなかったが、認めるのもしゃくな気がして、悔し紛れにそう返した。

 黒のセダンは帰路につく大勢の車に混じり、時に車線を跨ぎながらするすると進む。色とりどりのライトの波に乗る。こうして運転することに快さを感じる。隣にこいつがいなければもっとよいのだが。


「お前、子供はいねーの?」


 唐突な問い。

 危うくおかしなところでブレーキをかけそうになり、すんでのところで踏みとどまる。

 出し抜けに何を言い出すのだ、この男は。


「……独身なのに子供がいると思うかね」


 質問に質問で返すと、ヴェルナーは唇を尖らせた。


「ちぇー、何だよつまんねえな。三十なんだから子供の一人や二人いたっていいだろ。子煩悩にでもなってたらからかってやろうと思ってたのによ」

「私に何を期待しているんだ、貴様は……。私は一生結婚はしないよ」

「は? なんでだよ。まさかまだ昔のこと引きずってんのか?」

「……」


 まただ。

 視界の片隅で、手招きするように、銀色がひるがえる。自分の名を呼ぶ、あの人の声が聞こえる。水を失った魚のように、呼吸ができなくなる。

 ──やめてくれ。もうその記憶にはきつく封をしたんだ。この期に及んで、栓をゆるめるような真似はよしてくれ。

 何も言えないでいると、ヴェルナーが呆れたように嘆息した。


「はあ……図星かよ。未練がましい奴だねえ」


 違う、そういうことじゃない、と内心で反駁するが、説明するのも億劫になって、止めた。

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