彼らのこと 過去からの来訪者・後編(1/6)
─桐原錦の話
冷たい指で心臓を鷲掴みにされた心地。
いるはずのない人物が、そこにいた。もう二度と見ないと思っていた顔。忘れかけていた──忘れたと勘違いしていた苦々しい思い出たちが、閃光のように脳裏に明滅する。情報の洪水にうろたえる。自分が立っている場所が崩れていくような感覚があった。
「おいおい、ばったり幽霊に出くわしたみたいな顔をすんなよ、錦。傷つくだろうが」
そこに立っている赤目赤髪の長身の男が、薄く笑いながらほざく。武力組織である影の一員、ヴェルナー・シェーンヴォルフ。
忌々しい、自分の旧友だ。
男がつかつかと歩み寄ってきて、その血色の瞳でじろじろとこちらを見た。
「八年間でずいぶん変わったなあ、お前。一瞬人違いかと思ったぜ」
八年。そうだ。八年前まで、私は影の一員だった。そして、敵対する"罪"との抗争に明け暮れていた。記憶の隅に追いやり、忘れたふりをしていた事実。
「それに、眼鏡なんかかけちゃってさ。目が悪いわけでもねーくせによ……ってちょっと待って痛い痛いから引っ張らないで痛いから」
完全に停止していた思考を奮い立たせてヴェルナーの腕を掴み、強引に階段下の目立たないスペースに引き入れる。できるなら無駄に悪目立ちするこいつを人目に晒したくない。加えて会話も聞かれたくない。
放り出すようにその腕を離して、赤毛の男と相対した。昔と変わらない、本心の読めない顔。その顔を彩る、鮮血のような赤。この場にこの男がいる、という現実に目眩すら覚えた。
身に纏うボルドーのスーツと黒いシャツが、彼の髪色や虹彩と相まって強烈な印象を与える。どう見ても頭のネジが何本か飛んでいる。
「何をしに来た。なぜ貴様がここにいる?」
何年も遣う機会のなかったドイツ語に頭を切り替え、詰問した。ドイツはヴェルナーの母国である。相手はやれやれといったように軽く肩をすくめた。
「何年も会ってなかった友人にいきなりそれかよ? そりゃあお前、新しい環境で頑張ってるであろう大切な友人に陣中見舞いをだな……」
「白々しい嘘を吐くな。用向きは何だ。さっさと済ませてさっさと帰れ」
ヴェルナーの、整った顔にへらりとした笑みが浮く。きつい口調で話しているというのに、一体何が可笑しいのか。
「あー、はは。お前のそのおっさんくさい喋り方、すっげー懐かしいわ。つうか、年齢の方が喋り方に追いついてきたか? 三十歳だもんな。もう立派なおっさんか?」
「……わざわざドイツから私を馬鹿にしに来たのか?」
ヴェルナーの顔をじっと見る。正確には睨む。
こいつと最後に会ったのも八年前だが、軽薄が服を着て歩いているようなこの男の外見は、当時と殆ど変わっていない。驚くほどに、だ。
「貴様は変わらんな。能天気なところも、口が軽いところも、ちゃらんぽらんなところも、何一つ」
「え、昔と変わらないって? そんなに褒められると照れるじゃねーか」
褒めていない。
皮肉をこれでもかとばかり込めたのに、ヴェルナーには全く通じないらしい。
思い返せば昔もそうだった。いつも捉えどころの無い態度で、私の小言や苦言を受け流してばかりいた。彼のそういう、何ものにも囚われない奔放なところが私は嫌いだった。
変わっていてくれれば良かったのに、と思う。彼の容姿や性格が当時と変わっていたなら、余計なことを思い出さなくて済んだかもしれないのに。
──例えば、彼女のことであるとか。
記憶の奥底で、銀色が揺れる。
「ま、陣中見舞いってのは冗談だよ。上から仰せつかった任務でさ。話したいことがある」
急に眼光を鋭くして、ヴェルナーが告げた。
聞きたくなかった。きっとろくでもない話だと容易に想像がつくから。この男の所属する影とは、"そういう"ところなのだ。
「……分かった」
渋々頷いて、スーツのポケットから車のキーを取り出す。お、という顔をした青年に、それを手渡す。
「任務の話なら、私の家でした方がよかろう。まだ仕事があるから、車の中で待っていろ。黒のセダンだ。勝手に乗り回すなよ」
「へいへい」
鍵を受け取ったヴェルナーが踵を返す。早いとこ終わらせろよ、とひらひら手を振る後ろ姿が、一瞬だけ昔の彼に見えて、息が詰まる。
その残像を振り切って、また職員室に戻った。
仕事を終える頃には、薄闇がじわじわと大気を飲みこみ始めていた。コウモリが不規則な軌跡を描いて、校舎の周りを飛び交っている。外に出た途端に日中の熱の名残が肌に纏わりつき、不快感を誘う。
気の重さを感じつつ車へ向かうと、ヴェルナーは助手席のシートを目一杯倒して寝入っていた。規則正しく寝息をたてている。熟睡である。
ふうと一つため息を吐く。どこまで能天気なんだ。
「おい、出発するぞ。シートベルトを締めたまえ」
「んあ? ああ……お疲れさん」
ふあーあと犬歯を晒すほどの大欠伸をしてから、赤毛の青年が眠たげに目をこすった。
エンジンをかけつつ、横目でヴェルナーを見る。
「……生きていたんだな」
「勝手に殺すなよ。そりゃあこっちの台詞だっての」
「……それにしても貴様、その格好は何なんだ」
「これ? かっこいいでしょ」
「格好いいかどうかはさておき……貴様も影の一員なら、極力目立たないように努力するべきなんじゃないのか」
こいつの私服姿を見るのは初めてだ。よもやこんな派手な格好をして現れるとは夢にも思わなかった。
影の面々は大抵、街行く人々に紛れるような目立たない格好をする。今の時代、組織の命運を左右する最も重要なファクターは"情報"だ。目立つ格好をするほど、影のメンバーがどこにいるかという情報を敵に与えやすくなる。それはとても大きなリスクだ。
「いやあ俺の場合、地味な格好しててもきっと注目を一身に集めちゃうからね。主に女の子からの」
「……そうか。それは厄介だな」
投げやりに相槌を打つ。真面目に忠告した自分が馬鹿だったか。この男と話しているとため息が絶えない。昔そうだったように。
車をバックさせ、学校の駐車場から出る。周辺にはもう生徒の姿はない。いつも通りの帰宅の風景だ。助手席に妙な男が座っていることを除けば。
「それにしても、お前にまた会えるとは思ってなかったよ。再会できて嬉しいぜ」
「私は全く嬉しくないがな」
「ったく、相変わらず愛想のねえ野郎だなぁ」
「貴様に愛想を振り撒かなくてはならない理由が分からん」
ヴェルナーがそこでぷっと吹き出す。
「なぜそこで笑う?」
「いや、今の台詞……俺たちが初めて会った日にも同じこと言ってたぞ、お前。忘れたか?」
「……わざとだ」
正直覚えていなかったが、認めるのも癪な気がして、悔し紛れにそう返した。
黒のセダンは帰路につく大勢の車に混じり、時に車線を跨ぎながらするすると進む。色とりどりのライトの波に乗る。こうして運転することに快さを感じる。隣にこいつがいなければもっとよいのだが。
「お前、子供はいねーの?」
唐突な問い。
危うくおかしなところでブレーキをかけそうになり、すんでのところで踏みとどまる。
出し抜けに何を言い出すのだ、この男は。
「……独身なのに子供がいると思うかね」
質問に質問で返すと、ヴェルナーは唇を尖らせた。
「ちぇー、何だよつまんねえな。三十なんだから子供の一人や二人いたっていいだろ。子煩悩にでもなってたらからかってやろうと思ってたのによ」
「私に何を期待しているんだ、貴様は……。私は一生結婚はしないよ」
「は? なんでだよ。まさかまだ昔のこと引きずってんのか?」
「……」
まただ。
視界の片隅で、手招きするように、銀色が翻る。自分の名を呼ぶ、あの人の声が聞こえる。水を失った魚のように、呼吸ができなくなる。
──やめてくれ。もうその記憶にはきつく封をしたんだ。この期に及んで、栓を弛めるような真似はよしてくれ。
何も言えないでいると、ヴェルナーが呆れたように嘆息した。
「はあ……図星かよ。未練がましい奴だねえ」
違う、そういうことじゃない、と内心で反駁するが、説明するのも億劫になって、止めた。




