彼らのこと 過去からの来訪者・前編(2/2)
保健室で体温計を借り、体温を計る。三六度五分。すごく平熱だ。そりゃそうだ。
職員室に戻ると、気遣わしげな表情の桐原先生に、大丈夫でしたか、と尋ねられた。はい、全然大丈夫でした、と返事をする。
桐原先生は一見冷たそうに見えるが、他人に対しては意外と世話焼きというか、心配性である。不思議な人だ。
洗ってきた箸で何の感慨もない食事を再開し、食べ終える頃、約束どおり未咲さんがやってきた。
「失礼しまーす。水城ちゃん、英語教えて!」
その声に、私より先に桐原先生が反応する。
「こら、篠村。ちゃんと敬語を遣いなさい。私相手には構わないが、他の先生には失礼だろう」
未咲さんは先生に向かってべーっと舌を出した。どうやら二人の仲は険悪なようで、二人ともを好いている私には胸が痛む光景である。
職員室の外の廊下には、質問に来た生徒と教師が座れるように、長机と椅子が設置してある。そこに座るや否や、未咲さんがぷりぷりして言う。
「ほんとあいつ、やな奴! 水城ちゃんと私は仲良しだから、生徒と先生とか関係ないし」
「未咲さんは、桐原先生のこと嫌いなの?」
「大っ嫌い。すごい感じ悪いじゃん。水城ちゃんもそう思うでしょ?」
「うーん……私は、桐原先生のこと」
好きだけどな、と思わず言いかけて慌てて口をつぐむ。代わりに、尊敬してるけどな、と続ける。
「尊敬ー? あんな性悪眼鏡を? あいつと席が隣なんて、水城ちゃんがかわいそう」
いやいや、私は嬉しいんです、と苦笑しながら心の内で返事をする。それにしても、性悪眼鏡って。ちょっと面白いなと思ったのは秘密にしておこう。
未咲さんがぺらぺらと参考書をめくって、ここが分からないの、と言った。ふむふむ。説明の手順を頭の中で組み立てる。
「これはね、この問題を例にするとね……この動詞を受動態にして……」
「じゅどうたい?」
「えーと、受身形のことよ」
「受け身? じゅどう……柔道?」
未咲さんは無邪気な顔で首をひねっている。
これはどうやら、気合いを入れて取り組む必要がありそうだ。私はよし、と気持ちを引き締めた。
時間も忘れて教えていると、別の長机に誰かが座る気配があった。未咲さんの背側、私の向いている側の机である。反射的にちらりと見ると、桐原先生だ。と、茅ヶ崎くん。
桐原先生が私に背を向ける形で椅子に座る。未咲さんが問題を解いているあいだ、そちらを少し盗み見ると、先生と茅ヶ崎くんが穏やかに談笑していた。わ、笑ってる。あの茅ヶ崎くんが。
茅ヶ崎くんが数学を得意としていることは、今年の一年生の担当教員なら誰でも知っている。彼は、数学の入試問題を完璧に解答して入学してきたのだ。数学のセンスを持つ者同士、ウマが合うのかもしれない。
いいな、桐原先生と二人きりなんて。茅ヶ崎くんが羨ましい。
不純な想いを脳内で育てていると、できた!と未咲さんが元気な声を発した。どれどれ、と問題が並ぶページをチェックする。文法というよりもスペルミスが若干散見されるが、全体的には及第点だろう。
「うん、文法は大丈夫みたいだね」
「やった! ありがとう水城ちゃん、水城ちゃんのおかげだよー」
未咲さんは私にぎゅっとハグをすると、じゃあね、と元気に言い、風のようにさあっと去っていった。折って短くしたスカートが、走るのに合わせて上下にはためく。生徒の"分からない"が"分かる"に変わる瞬間を見届けるのは、いつだって良いものだ。
使ったペン等を片付けて立ち上がると、ほぼ同じタイミングで茅ヶ崎くんと別れたらしい桐原先生と目が合った。
あ。どうしよう。何か言わなきゃ。
「うちのクラスの生徒がご迷惑おかけしたようで。すみません」
私が口をもごもごさせていると、桐原先生がそう切り出した。そのうえ頭をちょっと下げられる。慌てて胸の前で手を振った。
「そんな、迷惑だなんて。これが仕事ですから」
「そうは言っても篠村のあの話し方、水城先生も怒っていいと思いますよ」
「いえ……私は別に気にしてないんです、本当に。それにしても茅ヶ崎くん、桐原先生には懐いてるんですね」
先生が苦笑を浮かべる。
「この場合に懐くという表現が正しいのかは分かりかねますが、まあ、何かと頼ってはくれますね」
「そうですか……英語の授業も、ちゃんと聞いてくれたらありがたいんですけどね……」
そこで桐原先生の目にふっと翳りが差した。
「まあ、彼にも色々と事情があるようです。ああいう態度なので誤解されやすいでしょうが、私が見たところ他の生徒とそんなに違っているわけではなさそうです」
「――そうなんですか」
先生に、見た目で判断するなと言われているようで意気消沈する。茅ヶ崎くんとほとんど話したこともないのに、勝手に怖いと思うなんて、私は教師失格だ。
「茅ヶ崎にはせめて授業に出席するように言っておきますよ」
「はい……あのっ」
「はい?」
「大切なことを教えて下さって、ありがとうございましたっ」
九十度に迫る勢いで礼をする。顔を上げると、先生は"?"という表情をしていた。
今度茅ヶ崎くんに会ったら、話しかけてみようかな。そう思いながらそれでは、と桐原先生に挨拶した。
日が傾いてきて、窓から射し込んだ茜色が廊下を染めている。今日ももうすぐ終わりだ。心地よい疲労を体に感じて、よし、あとひと踏ん張り、と気持ちを入れ換える。
生徒たちがきゃっきゃとはしゃぎながら私の横を通り過ぎていく。さようならと挨拶してくれる見知った顔もちらほら。快い夕べの時間だ。夜は何を食べようかなあとぼんやり考えながら歩いていると、背後から男性の声がした。
「お嬢さん。そこの可愛らしいお嬢さん」
私はお嬢さんと呼ばれるような年齢ではないので、お嬢さんを探すべく辺りをきょろきょろと見回す。しかし周囲には誰もいない。もしやと思いつつ、私ですか、と問いかけながら振り返って、目を見張った。
そこには、長身で真っ赤な髪の欧米人らしき人が立っていた。自分と同い年くらいだろうか。深いボルドーのスーツに艶のある黒いシャツという、この上なく学校にそぐわない派手な格好に面食らう。教員兼来客用の玄関から入ってきたらしく、足元は素っ気ない意匠のスリッパだ。
「そうそう、君。後ろ姿より前から見た方がずっと可愛いね」
男性は流暢な日本語で言い、気取った笑みを浮かべた。
喜べばいいのか警戒すべきなのか分からず、私ははあ、と生返事をする。どこからどう見ても保護者には見えないし、お客さんだろうか。ただ、まともなお客さんとは思えないけど。
そこまで考えてはっとする。見た目で判断しちゃいけない、と学んだそばからまた過ちを繰り返すのか。私は疑念を振り払っておずおずと尋ねた。
「あの、この学校に何かご用でしょうか……?」
男性はにこっと笑う。
「ああ。えっと、君はこの学校の先生?」
「あ、はい」
「君の同僚にニシキって奴はいるかな?」
ニシキ……西木? 脳内の教員名簿をぱらぱらめくる。西木先生なんて、この高校にいただろうか。どうも思い当たらない。
その時、目の前の男性がお、という顔をした。その目は私の肩越しに後ろを見ている。そちらを見てどきんとした。職員室から出てきたばかりの桐原先生が、硬直したように立っていたからだ。
先生は瞠目し、私などこの場にいないかのように、視線を赤髪の男性に注いでいる。
そういえば、桐原先生の下の名前って確か──。
「おっす、錦。久しぶりだな」
そう言う男性の声には、ありありと懐かしさが滲んでいた。
「──ヴェル」
呆然とした様子で、桐原先生が呟いた。




