彼らのこと 過去からの来訪者・前編(1/2)
─水城麗衣の話
桐原先生は、どこかミステリアスな人だ。
彼はいつも細身の黒いスーツを一部の隙なく着こなしていて、きりりとした表情の奥の瞳は常に冷ややか、動作はきびきびとして厳格な雰囲気を漂わせている。見かけは近づきがたく思えるけれども、話してみると柔らかい物腰で丁寧に対応してくれる好い人だ。
桐原先生は私、水城麗衣の同僚であり、同時に、私の想い人でもある。
職員室の壁の時計をちらりと見上げる。もうそろそろかな。もうすぐ、彼が来る頃。
毎日のことなのに、少し緊張する。しかし嫌な緊張ではない。落ち着こうとふっと息を吐いたときだった。私の席のすぐ右側にあるドアが、わずかな音を鳴らしながらスライドする。おはようございます、と挨拶した落ち着きのある声に、私の心臓は落ち着きを無くす。
声の主は私の隣の席の椅子を引いた。そちらへ向かって、
「桐原先生、おはようございます」
高鳴る鼓動を必死に鎮めながら、平然を装って挨拶をした。
大丈夫かな。今の私、自然に笑えてるかな。
「おはようございます。水城先生」
桐原先生が私の方に顔を向けてそう返してくれた。その拍子にばっちり目が合う。かっと顔に血が上るのが分かって、反射的に目を反らした。
あ、やばい。今の、絶対感じ悪かったよね……。
自己嫌悪で死にそうになりながら、私は授業の準備を再開した。横目で桐原先生を窺うと、彼は何事もなかったような面持ちでパソコンの電源を入れたところだった。黒縁眼鏡の奥の目がまっすぐ前を見ている。
日本人にしては彫りの深い顔立ち。横顔では通った鼻筋が際立つ。ただの数学の先生にしておくには勿体ないくらいだ。会うたびに、格好いいなあと思ってしまう。キーボードを叩く、少し骨の浮いた長い指に見とれる。
初めて出会ったときから、ずっと彼が好きなのだ。一目惚れだった。そして年甲斐もなく、中高生のように胸を焦がしている。
桐原先生についてもっと知りたいという思いと、この気持ちに感づかれたらどうしようという畏れのあいだで、六月の今に至るまで、私は長いこと揺れ動いていた。
横の席を盗み見たり、メールに目を通したり、授業の準備をしたりするうち、朝はあっという間に過ぎていく。
今日の一時限めは一年D組での授業だった。テキストやらプリントやらを束にして抱え、始業のチャイムと同時に教室に入る。教壇の上から生徒のみんなを軽く見渡したところで、私は内心ちょっと落ち込んだ。
また茅ヶ崎くんがいない。
このクラスの茅ヶ崎龍介くんという生徒は、授業中はたいてい机に突っ伏していて、時々ふらっと教室から出ていってしまう。今日みたいに最初からサボることもある。前回もだったから、これで二回連続だ。
茅ヶ崎くんは何を考えているかよく分からないところがある。気怠そうな雰囲気とは裏腹に、目付きは鋭い。射抜くような、刺すような鋭さがある。他の人が見えないものまで見えているんじゃないかとさえ思う。教師が生徒に対して言うべき言葉ではないけれど、正直言うと、茅ヶ崎くんのことはほんの少し怖い。
気を取り直して、私は明るい声を繕った。
「グッモーニン、エヴリワン!」
グッモーニン、とクラス全員のもそもそした返事が返ってきて、授業が始まる。
授業の後、持ってきた紙の束を揃えていると、一人の生徒が近寄ってきた。水城ちゃん、と私を呼んだのは篠村未咲さんだ。このクラスの学級長で、私によく話しかけてくれる。彼女はいつもタメ口だ。
生徒が教師にタメ口を遣うことに対して、否定的な意見の人も多いだろう。教師としての威厳がどうのこうの、とか。でも、自分自身に限って言えば、私は悪いとは思わない。威厳を持って生徒に接するなんて私にはできないので、親しみを持ってくれた方が嬉しい。
「ねえ、授業の最初、水城ちゃんショック受けてたでしょ」
未咲さんはそう言った。え、と漏らして彼女の溌剌とした顔をまじまじと見る。
「龍介がいなくてショックだったんでしょ? 水城ちゃんを傷つけるなんて、あいつサイテーだよね。でも大丈夫、わたしがガツンと言っておくから!」
未咲さんは左手を腰に当て、勇ましく右拳を握りしめた。
それはガツンと言っておく、というか、ガツンとやっておく、なのではないだろうか。未咲さんが拳で事を解決することの無いよう、心の内で祈った。
いや、それよりも。
「どうして分かったの? 茅ヶ崎くんがいなくて私がショック受けてるって……」
「だってあいつの机見てすっごい悲しそうな顔してたもん。水城ちゃんすぐ顔に出るから、何考えてるか誰でも分かるって」
嘘、と思った。全然自覚が無い。感情を顔に出さないよう、気をつけているつもりだったのに。
もしかして、桐原先生を見るときも顔に出ている? いやいや、そんなはずは。
「あっ、そうそう、水城ちゃんにお願いがあるの!」
勢い込んで、未咲さんが両手で私の手を握る。彼女の掌はさらりとしてほのかに温かかった。なんの躊躇もなく他人の領域に踏み込むその仕草に、同性ながら僅かにどきりとする。
「なあに?」
「英語の文法で、どーしても分からないところがあるの! 水城ちゃん、教えてくれない?」
未咲さんが上目遣いでこちらを見る。身長自体は彼女の方が高いが、教壇とヒールのある靴のせいで、今は私の視線の方が上だ。未咲さんの力のある円らな目を見る。可愛いなと思う。
「もちろん、大丈夫よ。今日のお昼休みでいい?」
「えっいいの? やった~」
「だってそれが仕事だもの」
くすくす笑いながら答えると、未咲さんがわざわざ教卓を迂回して、水城ちゃん大好き、と言いながら抱きついてきた。ためらいの無いスキンシップ。もはや言葉でしかコミュニケーションをとらなくなった私は思わず、若いなあ、と心のなかで呟いてしまう。
高校生は若い。自身が高校生だった頃は自分のことを若いなんて考えたこともなかったけれど、今になって思う。何事も、失ってから気づくものなんだろう。
「それじゃ、お昼休みにね。またね、未咲さん」
「うん! またねー」
教室の前でぴょんぴょん跳ねる未咲さんに手を振り、一年D組を後にした。未咲さんはこの高校ではあまりいないタイプだ。進学校だからか、割と大人しめの生徒が多い中で、膝上十五cmのスカートとニーハイを履いた姿はなかなかに目立つ存在だ。
あんな短いスカート、最後に履いたのはいつだっけ。ニーハイなんか履こうとするものなら周りに止められるだろう。そういえば、今年の一年生とは年齢が一回り違うのだと思い至って、軽く心が沈んだ。
二十七歳。二十七歳かあ……。
お昼休み。
自分の机で、家から持ってきたお弁当の包みを広げる。一応自分で詰めたものだが、作ったものはほとんど無い。冷凍庫から出して、そのまま弁当箱に入れれば食べられるおかずに頼りきっている。何度となく食べたミートボールを口に運ぶが、言うまでもなく味気ない。
何気なさを装って隣の席を見やる。桐原先生のお弁当は今日も彩り豊かで、出来合いのものなど入っていないのが一目で分かる。私の貧相なお弁当とは雲泥の差だ。今日のメインのおかずは鮭だろうか。煮物の中のれんこんは飾り切りさえしてある。いつも通り、美味しそう。
新学期の初めは、嗚呼、愛妻弁当か……と落ち込んだものだが、先生自身が作っている、と彼の口から聞いたのだ。茅ヶ崎くんとの会話の中で確かにそう言っていたのを、私はばっちり聞いていた。別に盗み聞きしていたのではなく、自然と耳に入ってきたのだ。少し、聞き耳は立てていたかもしれないけど。
桐原先生、一体何時に起きてるんだろう。先生が手際よく料理をしているところを想像して、私はほーっと熱のこもったため息をついた。その背中を見てみたいなあ。あわよくば、先生の手料理を食べてみたいなあ。
いやいや、妄想はやめよう、とぶんぶん首を振って食事を再開しようとしたら、手の中に箸がない。
え、あれ、と思っているところに、
「水城先生、箸が落ちましたよ」
横から桐原先生が私の箸を差し出してきてくれた。いつの間にか落ちていたらしい。食べながら箸を取り落として気づかないなんて大丈夫か私。人として大丈夫か私。
「すみません、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて受け取ろうとしたところ、なぜか桐原先生がじっと見つめてきた。その鋭い眼光は、ドラマでよく見る取調室の刑事を連想させた。何なに、なんだろうこの状況。私は隠し事なんかしてません! あなたへの想いは隠してますが!
ぽかんとしたまま馬鹿みたいに先生を見上げ続ける。脳内は混乱の極みにある。
両目を僅かに細めてから、桐原先生が口を開いた。
「ぼうっとされているようですが、具合が悪いのではありませんか」
私は、へ?と言ってしまった。我ながら可愛げがない。
あの、すみません、妄想していただけです。
というよりも。桐原先生は私のことを心配してくれているのだ。そのことに気づいて、急にどぎまぎしてしまう。
先生が眉根を寄せた。
「顔も少し赤いようですし。大丈夫ですか」
それは、あなたのせいです、桐原先生。
「ね、念のため、保健室で熱計ってきます~!」
先生の視線にいたたまれなくなった私は、職員室を飛び出した。




