僕らと彼らのこと 円卓の識者たちⅠ(3/3)
* * * *
―茅ヶ崎龍介の話
「坊主、もうすぐ着くぞ。起きれるかい?」
やんわりと肩を揺すられ、意識が浮上する。瞼を開くと厳つい男の顔が間近にあって一瞬で眼が覚める。落ち着いてから辺りを見回し、自分がどこにいるか分からなくて数秒混乱した。そうだ、リムジンに乗せられて東京へ向かっていたんだ――思い出すと同時に空腹を覚える。携帯で確認すると正午を過ぎている。今日はまともに食事をしていないから、腹も減るはずだ。
セルジュに言ってクラッカーを貰う。これは秘密にしてねと俺に頼みながら、彼もサラミやらチョコレートやらをひょいひょいと口に投げ入れ始めた。さくさくとクラッカーを食みながら窓の外を眺めると、妙に現実感のない光景が広がっていた。
まるでドラマのセットのように見える、ちりひとつなく小綺麗な街並み。歩道に整然と敷き詰められた石材や、完璧に整えられた植え込み。ぴかぴかに磨き上げられたガラスに覆われた、たくさんの飲食店。明らかにエリートだと分かる、IDカードを首に提げた色々な人種の人々が、そこかしこを歩いている。
「ここらに来るのは初めてかな? このあたりは大使館が多い場所なんだ」
「そう……ですか」
相槌を打つ以外に言葉が見つからない。すべてが自然ではなく、ここを訪れる人々のために寸分の狂いなく誂えられている。そしてきっと、訪れるべき人の中に俺は入っていない。
確実に、俺は異物だった。
地下駐車場へと向かったリムジンは、入口で停車してセルジュと俺を降ろす。車が再び発車する前に、セルジュと運転手が空けたウインドウ越しに言葉を交わしていた。運転席に乗る人物が想像よりずっと若いことに驚いた。せいぜい二十代半ばの青年だ。彼も影の一員なのだろうか。
セルジュに先導されて行き着いたのは、ガラス張りのビルだった。なぜか表のエントランスからではなく、細い通路を通って裏口のようなところから中に入る。タブレットが置かれた受付の前にはゲートのようなものがあり、事前の説明なく身体検査をされたものだから、面食らってどぎまぎしてしまった。
だだっ広いエントランスホールに先客は一人だけ。確かドミトリーと呼ばれていた痩身の青年は、空調が効いているにもかかわらず黒い厚手のコートを着込んだまま、ホールに並んだソファに腰かけてタブレットに目を落としている。
「ここでちょいと待っててくれるか? 役者が揃うまで待機だ。ミーチャ!」
セルジュはそれだけを言い残して、コート姿がうずくまるソファの方へつかつかと歩み寄っていってしまう。
セルジュに応対するドミトリーの灰色の頭がふと揺らぎ、色素の薄い容貌が俺の方に向けられた。繊細な印象の銀縁眼鏡、その奥の冷たい瞳が俺を捉えた気がして、反射的にぺこりと頭を下げれば、静かな黙礼が返る。その姿に不思議なデジャヴを感じたが、車上で眠ってしまったから記憶がリセットされたのかもしれなかった。
一人取り残され手持無沙汰になったため、習慣で携帯電話の画面をついついと操作してみる。昨日の夜からまともにニュースを見ていない。ニュースサイトの見出しを一通り確認したが、目ぼしい出来事は特にないようだった。二十三区内で火球のようなものが目撃されたことが、主にSNSの一部で話題になっているくらいか。
「お、奴さんたち、ようやくご到着だ」
セルジュの弾んだ声に顔を上げれば、エントランス正面から入ってくる人影が三つある。
まず背の高い二人、その後ろに二人よりは小柄な一人。背後に晩秋の日の光を背負うその長身の男性二人が、真新しい細身のスーツを纏った桐原先生とヴェルナーだと気づくのにたっぷり三秒かかった。その後に現れた金髪の青年には見覚えがない。
まずはセルジュがそちらへ大股で近づいていく。ちょいちょいと右手で招かれ、自分もそちらへ歩み寄った。全員が歩みを止めたときには、セルジュがヴェルナーと桐原先生の二人を俺に引き合わせるようなフォーメーションになっていた。
「まずは貴様からだ。ちゃんと言えよ」
桐原先生が低く言葉で促し、ヴェルナーの背をぐっとこちらへ押し出す。
これほどの距離でヴェルナーと真っ向から向き合うのは初めてのような気がした。光沢のある深い紅のスーツを着た相手は、しかし以前よりどこか萎縮して見える。いつでも余裕たっぷりの表情が、今はどこか強ばっていた。血色の瞳も定まらず小刻みに泳いでいる。
「あー、坊っちゃん。何ていうか、その」赤髪の男は居心地悪そうに頬を掻く。
「危険な目に遭わせちまって、悪かった。こんな風に話しかけていい立場じゃねえことは重々分かってる。……虫のいい話だが、今後も君の護衛は続けるつもりでいる。ただし、君の前には二度と姿を見せないようにするから、それだけは許してくれねェかな」
俺を見下ろしながら、神妙な顔つきで謝罪と展望を口にするヴェルナー。俺は言葉が切れるまでは我慢していたが、彼が言い終わるや否や堪えきれずに「ぷっ」と噴き出してしまう。
呆気に取られたのはヴェルナーと桐原先生の方だった。
「おいおい、なんだってんだよ」
「だって、あんたが真面目な顔してると、面白くて……駄目だ、笑える」
「勘弁してくれよ、こっちは真面目な話をしてるんだぜ。俺は君のことを思ってだなァ……」
途方に暮れた様子が可笑しくて、こみ上げる笑いがますます大きくなってくる。
『それだけは許して』も何も、俺自身はヴェルナーに対して蟠りは持っていない。彼も仕事でやっただけで恨みがあったわけではないだろうし、桐原先生と並んで来たということはおそらく二者のあいだにも禍根は残っていない。だから、もうそのことはいいのだ。
あまりにもお人好しかもしれないが、俺の一番の懸念は、自分の存在が彼らの強い結び付きを破壊してしまったのではないか、ということだったから。
「許すも何も……俺は別に怒ってないから。それよりヴェルさん、桐原先生には謝ったのかよ」
少し唇を尖らせて言うと、なぜか目の前の二人は同じタイミングで顔を見合わせる。
「なんつうか、あれだな。この親にしてこの息子ありって感じだよな」
「だから、息子じゃないと言っているだろう」
その会話の意味を推し測る前に、今度は桐原先生が「じゃあほら、次はお前の番だ」とヴェルナーに押しやられて俺の目の前に立つ。服装こそ真新しい濃紺のスーツに黒シャツだったが、頬を覆うガーゼや額の擦過傷などが痛々しい。
先生はばつが悪いような、痛ましいものを見るような複雑な表情を浮かべている。言葉を探す間を埋めるように、黒縁眼鏡のブリッジへ伸びる指先と手の甲を見て、思わず息を飲む。
見慣れているはずの、しかし今は傷だらけの武骨な手。
衝動的に伸ばした自分の掌に、ごつごつした節の感触が握りこまれる。桐原先生が動揺を隠さずに体を硬直させた。自分でも驚くスピードで、俺は先生の分厚い手を両手で掴んでいたのだ。
至るところに切り傷や擦り傷がある、俺のよりもやや乾燥した大きな手。確かに血が通った、温もりのある手。俺は彼がいなければ、ここに立っていなかった。桐原先生がそこにいてくれる喜びが、じわじわと心臓のあたりを温める。
生きている。先生も。俺も。
「良かった、生きてる……」
「茅ヶ崎……?」
俯いて手を握ったまま、ほとんど泣き出しそうになる俺を、先生は困惑して見ているだろう。俺がヴェルナーだったら先生を熱く抱擁できたのかもしれないが、ハグの習慣なんてない日本人には気恥ずかしくて到底無理だった。
「すまなかった。心配をかけて」
「……いいんです。今、ここにいてくれるから」
面を上げた俺がぎこちなく笑いかけると、桐原先生も精悍な顔に優しい微笑を浮かべた。
そんな俺たちを「うわー」と言わんばかりに掌で口を押さえ、横目で見やっていたのはヴェルナーである。どこか遠い目をして交互に俺たちを見る。
「あのさあ、そういうのは人目を憚った方がいいんじゃないのかなァ……」
「うるさい」と言い返す俺。
「それか、抱き締めてやれよォ、錦くん」
「うるさい!」と桐原先生。
やいやいとやり合う三人をやや遠巻きにして眺めていたセルジュが、弛緩した空気を察して輪に近寄ってくる。
「さて、そろそろ仲直りは済んだか?」
「仲直りってなァ、子供扱いすんなってんだよ。俺たちのこと何歳だと思ってんだ」
唇を突き出して言い返すヴェルナーの口調はそれこそ子供じみていた。
炭酸水の泡のような心地好い笑いが場に広がる。
しかし今日の目的は仲直りではないのだ。先導していくセルジュに続き、俺たちはぞろぞろとエレベーターホールに向かった。セルジュ、ヴェルナー、桐原先生、自分、まだ言葉を交わしていないドミトリー、名前すら知らない美貌の金髪の青年。
身長も年齢も髪の色もばらばらな六人が、揃って階数表示を見上げる。到着した地下二階には余計な廊下や部屋はなく、エレベーターのドアが開いた先には、短い通路と異様に迫力のある観音開きの扉だけがあった。
「今日の本題はここからだ。用意はいいか、坊主?」
眉に力をこめて笑むセルジュが、ちらりと俺を振り返る。俺は薄い茶色の目を見返し、こくりと浅く頷いた。
セルジュが力強くドアを開け放つ。視界が開け、学校の教室よりよほど広い空間に、二十人は就けるかと思えるほど巨大な円卓が設えてあるのが見えた。
俺は一体、ここで何を知ることになるのだろう。
形の掴めない渦巻く不安と、奇妙な淡い期待を抱きつつ、その部屋に足を踏み入れた。