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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
134/137

彼らのこと・回想 スカーレット・カメリアを君に(4/4)

 大体の事情が氷解した。つまり、鈴は俺が既婚者だと思い込んでいて、好意を表すまいとしていたのだ。あのよそよそしい態度は、気持ちを隠すためだったのだろう。そう察しがついた。

 鈴はぱっと喜色を滲ませ、そうなのですね、と両手を組む。しかし数秒後には、喜びを如実に見せたことを恥じ入ってか、またもや俯いてしまった。

 むずむずとした、甘酸っぱい空気に包まれる。生まれてこの方、味わったことのない雰囲気だった。参ったな、と思う。三十路(みそじ)を目前にして、こんな浮わついた心持ちになろうとは。

 もじもじと落ち着かない様子で、鈴が重ねた両手を胸に当てる。


「あ、あの……セルジュ様、それでは……」

「あ、ああ……そうだったな……」


 そうだ。好きだと言われているのだ。俺が、返事をしなくてはいけないのだ。

 年甲斐もなく、自分の頬も紅潮しているのが分かる。年が十も離れているのだ。本当に俺でいいのか、という思いは否定できない。けれど、きっと勇気を出して好きと言ってくれたのを、無下(むげ)にするなど考えられなかった。自分だって前々から、鈴を憎からず想っていたのは確かなのだ。


「鈴」


 呼びかけながら、両肩に手を置く。その薄さと頼りなさに、少しだけはっとなった。

 はい、と鈴が答える。


「こんなに年が離れている俺を、好きだと言ってくれて嬉しい。俺も、君が好きだ。これからよろしく頼む」

「……はい」


 今にも泣き出しそうな顔の鈴を、抱き寄せて抱擁した。折れてしまいそうだった。シューニャが語った、彼女の出自を思い返す。これからどんな困難が振りかかろうと、自分はこの人を守ってみせる。そう自分の心に誓いを立てた。

 鈴もおそるおそるといった動作で手を伸ばし、抱擁を返してくれた。

 どれくらいそうしていただろうか。体を離すと、緑がかった双眸が一心に俺を見つめていた。鈴の滑らかな頬を親指で優しく撫でる。そっと細い顎を持ち上げると、長い睫毛と一緒に、薄い瞼がゆっくり閉じられた。

 鈴の顔はだいぶ下にあったから、かなり腰を屈めないといけなかった。

 吐息をわずかに顔に感じる。唇が触れ合いそうなまでに近づいて、


「何をしておるんじゃ! 夕飯が冷めるぞ」


 けたたましいノックとともにシューニャの声が響き、俺たちは二人揃って数cmほど飛び上がった。

 これではお預けにするほかない。鈴と苦笑いを交わし、今行く、と気難しい上司の元へ馳せ参じる。

 この日から、俺と鈴は互いに一人きりの相手となったのだった。



 星も冷えるような夜だった。

 深更(しんこう)、隣からの物音で目が覚める。鈴はこちらに背を向けていたが、声を押し殺して啜り泣いているのが分かった。

 彼女は時おり、決まって夜中に泣くことがあった。鈴、と呼びかけて、素肌を合わせて妻の全身を抱き締める。眠る前、どれだけ熱を与えようとも、こんな時の彼女の体はひどく冷えきっていた。

 腕の中で、鈴が身じろぎをし、こちらに顔を向ける。涙が筋となってまなじりを濡らしている。顔が綺麗だからこそ、いっそうその姿は痛々しかった。

 こんなときでさえ、鈴は一番に詫びるのだった。


「起こしてしまって、すみません……」

「いいんだよ。謝らなくていい。怖い夢を見たのかい?」

「はい……」


 妻の頭から足先までが、小刻みに震えている。その眼は俺を突き抜けて、どこか遠くを見ていた。恐怖と、怯えと、失望の光が、暗く瞳の奥に揺れている。二人をおびやかす者たちが、すぐにでもどこかからやってくる、それを恐れているかのように。

 指でそっと滴を拭う。けれど、止めどなく涙はあふれてくる。

 鈴の容貌がくしゃりと歪んだ。


「わたくしには……こんなに幸せになる権利など、ないのです……。本当は、こうして生きてさえ、いけない人間なのです……」

「そんなことはない」

「ごめんなさい……本当にごめんなさい…………」

「鈴」


 わななく鈴の指が、俺の右目を隠す眼帯を撫でさする。"パシフィスの火"で負った傷。手術を担当したシューニャには、あと五mm深かったら致命傷だったと言われた。鈴はその傷に対して、そして傷を負った俺に対して、謝り続けている。まるで、この傷が彼女自身の罪悪だとでも言わんばかりに。

 そんなわけがなかった。泣きじゃくる彼女をかき抱く。泣いてほしくない。笑っていてほしい。約束したのに。誓ったはずなのに。どうしたら彼女の涙を止めることができるだろう。それさえ叶えられない己がどうしようもなく情けなく、腹立たしかった。


「泣かないで。君が泣くと、俺まで悲しい」

「セルジュ様……」

「鈴……俺は、君の味方だ。何があっても、君を愛している」


 小さく縮こまった体の震えが止まるまで、その夜はずっと、そうしていた。

 彼女の涙が乾くなら、何だってする。鈴の心の暗がりを、自分が照らさねばならないのだ。自分はきっと、照らせるはずだ。

 いくら夜が闇深くとも、朝陽は必ず昇るのだから。


 * * * *

―鈴の話


 私は、過去に囚われている。

 あの人たちに。あの場所に。あの暗闇に。そしてあの、冷たい声に。

 今が幸せであればあるほど、それを失う恐怖はどんどん膨らんでいって、無力な自分を覆い尽くしていく。



 凍てついた目と、凍てついた声が、私をその場に縫い止めました。

 すぐ近くに立っている相手が、あなたはか弱くて一人では何もできない、と言い放ちます。

 水の中のように、自分と相手の髪がゆらゆらと揺蕩たゆたっているのが見えました。周りは暗いのに先は見通せて、液体と化した闇が満ちているかのよう。相手は笑っていました。背筋がぞっとする、嘲笑でした。私をわらっているのです。


 ――あなたは何もできないお人形で、周りの人間が何でもやってくれた。

 ――それを当然だという顔で享受していた、そんなあなたが大嫌いだった。


 あなたの周りで起きたことを覚えていないのかと、相手は訊きました。

 あなたの生まれを忘れたのかと、あなたはなぜ生きているのかと、相手は訊きました。

 あなたが幸せになる権利なんてあるのかしら? 相手はそう訊きました。


「わたくしは……わたくしは……」


 空気を求める魚みたいに、口をあえがせます。けれど、何も言葉が出てきません。きっと、私に言っていい言葉なんて何もないのでしょう。相手がすべて正しいのですから。


「ねえ、お嬢様。生きているのは苦しいでしょう? 私が楽にしてさしあげますわ」


 冷たい掌が頬を優しげに包みました。逃げたくても、逃げられない。相手が顔を寄せてきます。彼女の冷たい灰色の眼に、私のおののいた表情が映り込んでいました。氷水のごとく冷えきった唇が私の口元に押し当てられて、ああ、自分は死ぬのだと、それだけを悟りました。

 相手がほほえんでいるのが分かります。口から空気のあぶくを吐いて、自分の体は闇の底へ沈んでいきます。さようなら。さようなら、大切な人たち――。



「……は、ぁ……」


 目が覚めると、両の目から涙が伝っていました。この夢を見るのは何度目でしょう。私は今までに何度死んだでしょう。全身がどうしようもなく、小刻みに震えています。私にとって、先ほどまでの夢はただの夢ではありませんでした。実際の身の上と陸続きの、明日正夢になってもおかしくない、明確なリアリティーを持った悪夢。こうして大切な人の隣にいる夜でさえ、自身の中の恐怖に押し潰されそうになることは珍しくありませんでした。

 必死で嗚咽おえつをこらえていると、衣擦れの音がしました。また旦那さまを起こしてしまった、と私の心がまた一段と沈みました。涙をできるだけ拭いて、背中側にいる彼に向き合います。起こしてしまってすみません、と謝ると、セルジュ様は微笑して首を横に振るのでした。


「いいんだよ。謝らなくていい。怖い夢を見たのかい?」


 夫のセルジュ様が優しく囁きます。こくりと頷いて、私は彼の大きな胸の中に顔を埋めました。

 自分が泣いたら、彼を困らせてしまう。涙を見せたら、彼にも悲しい思いをさせてしまう。そのことは分かっていました。けれどどうしても、自分の過去を断ち切れないでいるのでした。彼は黒々と渦巻く暗い過去から自分を引っ張り上げてくれるけれど、過去から伸びる彼らの手が、夜な夜な私を絡み取り、容赦なく冷たい深淵へと引きずり込むのです。

 きっと、この過去を清算しなくてはいけなくなる時が来る、と分かっていました。その日を思うと途方もなく怖い。愛しい人の腕の中で、祈るあてもないのに、私は必死に祈りました。

 どうか勇気を下さい、と。

 過去に真っ向から向き合って自分の足で立つ、強い心を下さい、と。

 それは自分自身への誓いにも似た祈りでした。藍で何度も染めたような夜、その未だ明けぬ深い底で、ただひたすらにそれだけを願い続けるのでした。

 勇気を。

 強い心を。

 どうか、私に。

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