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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
133/137

彼らのこと・回想 スカーレット・カメリアを君に(3/4)

「ま、上手くいったら事の顛末てんまつを聞かせろよ。お前から好きになるなんてケース、そうそうないからな」

「――彼女はそういう相手じゃない」

「へええ、そう?」


 ヴェルナーは小馬鹿にするようににやにや笑いを浮かべていたが、唐突に顔を青ざめさせると、口を手で覆いながらトイレへ駆け込んでいった。アルコールに強くもないのに、見栄を張って度数の高い酒ばかり注文する悪癖は治っていないらしい。

 俺は琥珀色の液体が入った自分のグラスを傾けた。氷が位置を入れ換えて、からん、と軽やかな音を奏でる。影の組織内で、自分と同じくらい強い酒好きはいなくなってしまった。もはや帰幽きゆうの人となったルネのことを考える。あいつと飲む酒ほど美味い酒はなかった。

 グラスの残りを一気に煽ると、胃の腑が一瞬熱くなったけれど、すぐにやるせなさだけが腹に残った。



 次に隠棲いんせいの庵を訪ねる際、自分の心が少しばかり張りつめているのを感じていた。片手に旅行鞄を、片手にプレゼント用の小さい紙袋を提げている。鈴に会ったら、すぐさま手渡すと決めていた。だらだらと機を逃すと、こういうことに慣れていない俺には一生渡せなくなりそうだったからだ。

 二人きりになるなり、君に渡したいものがあるんだ、と単刀直入に切り出した。鈴はぱっと弾かれるようにおもてを上げたが、その表情には疑問の色が濃い。気持ちが挫けないよう鼓舞しながら、自分が持参するには相当不釣り合いな、薄桃色の小振りな紙袋を鈴に差し出した。


「良かったら、受け取ってもらえないかな」


 俺より幾回りも小さく細い指が、おずおずと伸ばされる。その様子には喜びの色はなく、ただただ困惑しているのが伝わってくる。


「これを、わたくしに?」

「ああ」

「今、開けてもよろしいでしょうか」

「もちろん」


 大きく頷いたつもりだったが、力が入りすぎた首がぎしっと軋み、動作はぎこちないものとなった。

 鈴の白魚のような手が袋のシールを外し、中から透明な箱を取り出す。そこには、深紅の椿を模した、髪飾りが封じられていた。

 雑貨屋でそれを見つけたとき、目が吸い寄せられた。その鮮やかな赤と、鈴のあでやかな黒髪とのコントラストは、さぞかし美しかろうと断言できた。

 鈴が両目を見開き、花びらのひとつひとつまでまじまじと見る。


「これは……髪飾り、ですか?」

「ああ。この赤が、君の黒髪にえると思っ――」


 て、という音が喉元で消える。驚きによって、発声できなかったのだ。

 鈴の澄んだヘーゼル色の双眸から、ふたすじの涙が白磁の頬を音もなく伝っている。

 動揺した。女性の涙を見るのは何年ぶりかの出来事だった。咄嗟に反応できないでいると、ごめんなさいっ、と高く声を放って、鈴が部屋から走り去っていった。

 俺は部屋に取り残された。パッケージングされたままの、椿の花と一緒に。

 その髪飾りを掬い上げて、うーむと観察する。表面にちりばめられたジルコニアが、きらきらと光を反射している。


「泣くほど気に入らなかったのか……慣れないことはするもんじゃないな……」


 一人、そうちた。

 夕飯の時間になっても、鈴は居室から出てこなかった。大方、お主が何か良からぬことをしたのじゃろう、お主が何とかしろ、とシューニャに詰問され、反論の余地なく彼女の元に向かう。もう自分とは顔も合わせたくないのではないか、という苦い思いとともに。

 左手には、あの髪飾りを握っていた。気に入ってもらえなかったからといって、放置するわけにもいかない気がしたためだ。

 コンコンコン、とドアをノックすると、はい、と弱々しい声が返ってくる。扉に顔を近づけて、できるだけ穏やかに、真摯な口調を心がけて話しかけた。


「俺だ、セルジュだ。さっきはいきなりのことで驚かせてすまなかった。もし君が良ければ、謝らせてくれないかな」


 少し待つが、声は返らない。胃の底がずしりと重くなる。落胆して引き返しかけたとき、音もたてずにドアがすっと開いた。

 子うさぎが巣穴から外を窺うように、怖々と鈴がこちらを見上げていた。泣き腫らした目は赤く充血し、泣いたためか頬は上気してぽっと朱に染まっている。自分が何か言いかける前に、小さめの口が震えて、どうぞ、と俺を中に導いた。

 部屋は小綺麗に片付いていたが、それは整理整頓が行き届いているというよりも、むしろ物が無さすぎるためで、寒々しく殺風景な印象があった。偏見かもしれないが、年頃の娘が好みそうな内装ではない。

 部屋の中央のテーブルに腰を落ち着かせて、鈴と相対する。ぐっと腹の底に力を入れ、


「ごめんなさい」


 謝ったのは鈴が先だった。

 虚を突かれ、え、と間が抜けた声が漏れる。


「どうして君が謝るんだい」

「さっきのは、わたくしが悪いのです……泣いてしまったのは、嫌だったからではなく……びっくりしてしまったからなのです。あの、わたくし……人から何かを頂くのって、初めてでしたから……」


 訥々と、水が滴るような調子で、鈴は信じられないようなことを語った。


「え、初めてって、本当に?」

「はい。肉親を除いたら、今まで何も……ですから、セルジュ様からの贈り物が嫌だったわけではないのです。むしろ、あの……とても、嬉しかったです」


 鈴は恥ずかしそうに顔を俯け、さらに耳まで真っ赤になった。

 こんな時なのに、素直に可愛らしいと思ってしまう自分がいる。それくらい、庇護欲を刺激する仕草に感じられた。


「泣いてしまって、本当にごめんなさい」

「ああいや、誤解が解けたならいいんだ。じゃあ、改めて受け取ってくれるかい?」

「はい……喜んで」


 持っていた髪飾りの箱を再び渡すと、鈴は今度はほんのりと笑ってくれた。自分には、その笑顔はどんな大輪の花よりも輝いて見えた。


「綺麗ですね、これ」

「……そう言ってくれて、嬉しいよ」

「これ、今着けてもいいでしょうか」

「ああ、ぜひ見たいな」


 パッケージから椿を掌に移して、鈴は部屋の奥に引っ込む。二、三分ののち現れた彼女は、編み込みにした髪のサイドを後ろでまとめ、後頭部に髪飾りを留めてハーフアップにしていた。それまで見たことのなかった鈴の耳が、ちょこんと慎ましく頭を覗かせていた。清楚な印象がより際立っている。

 恥じらいを含んだ様子に、なぜかしらどきりと心臓が跳ねた。


「いかがでしょうか……」

「うん、似合うよ。耳が出ていた方が可愛い」


 そう感想を伝えつつ、思わず立ち上がって、鈴の耳にそっと触れていた。

 間髪入れず、彼女の顔は真っ赤になった。頬を手で覆い、鈴が慌てて顔を逸らす。俺も慌てて手を体の前で振った。しまった。せっかく関係修復できそうだったのに、自分ときたら何を血迷ったことを。


「ああごめん、今のは問題発言だったかな」

「いえ……」


 鈴がちらりとこちらを見上げた。何かしらの強い意思が、瞳に灯っているように感じられた。


「え」


 頓狂な声が漏れる。不意に胸が温かくなって、数瞬、何が起こったのか分からなかった。

 鈴が俺に抱きついている。

 我に返った時には、鈴の体が自分に密着していた。目の前で展開する事態に頭が着いてこず、思考が真っ白になりかける。どういうことだ、これは。


「り、鈴?」

「……いけないことだと分かっています……。ですが、お慕いしております……」


 絞り出すような声だった。禁忌に触れているとでも言うような、切なく、寂しく、それでいて何かが燃えているような、そんな声色。きゅ、と胸に置かれた鈴の手が、物欲しげに、もどかしげに握られる。

 いつしか、彼女はさめざめと泣いていた。

 半ば呆然として突っ立っていると、何かを振り切るみたいにして、鈴の体は俺からぱっと離れた。


「すみません……今のは、全部忘れて下さい……」

「待ってくれ、鈴。いけないことって、どういう……?」


 鈴がまた部屋の奥へ引っ込もうとする。その細い手首を、ここで行かせてはいけないと、反射的に握っていた。

 どうも齟齬が生じているようだ。いけないこと、の意味が分からなかった。

 鈴が楚々として唇を震わす。


「……何回かお会いしているうちに、いえ――初めてお話しした時から、心惹かれておりました。わたくしは、あなたのことが好きです。でも……セルジュ様には、奥さまがおありでしょう。ですから――」

「いや、俺は独身だし交際相手もいないけど……」

「えっ?」


 今度は鈴が頓狂な声を上げる番だった。きょとんとした顔の中で、黒目がちな目がまんまるくなっている。

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