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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
132/137

彼らのこと・回想 スカーレット・カメリアを君に(2/4)

 パシフィスの火の後、数年はシューニャとともに各地の様子を視察に回っていたものの、彼の体力の衰えと"罪"の輩に襲撃される危険性を踏まえ、形式上は隠居生活をしてもらうことになった。

 慣例となっていた日本産の手土産を携え、久方ぶりに訪れた彼の幻住庵で、俺は鈴に出会ったのだった。

 初めて会ったとき、鈴はまだ十代だった。シューニャからの小言を聞き流しながらテーブルで菓子をつまんでいると、後方から視線を感じた。振り返ってみれば、年若いアジア系の相貌をした娘が、茶器の乗ったトレイを持ってドアの傍らに立っている。覚えのない顔立ちには、怯えが生じていた。

 後から本人に聞いた話だけれど、その際俺のことを怖い人だと思ったらしい。まあ無理もないだろう。身長は185cmあるし、現役の名残で無駄に筋肉が付いているし、髪は全部後ろに撫で付けていたし、極め付きに右目は眼帯で覆われている。初対面で怖がるなという方が厳しい。

 やあ、と声をかけてみると、びくりと小さな肩が跳ね、コーヒーカップが音を立てた。その様は人慣れしていない野生のうさぎを思わせた。


「君もこっちに来て、一緒に食べないかい」


 笑いかけると、おずおずと彼女は頷いた。

 彼女は小さな声で、鈴といいます、と名乗った。


「リン。素敵な響きだね、よく似合っているよ」

「そ……そうですか?」

「なんじゃお主、口説(くど)いておるのか? わしが許さんぞ」

「そんなんじゃない、ただ思ったことを言っただけで――」


 そういったやり取りに馴染みがないのか、鈴の可憐な白面が朱に染まった。

 それからは、彼女は始終無口だった。菓子を少しずつかりかりと食べる様子は、か弱い小動物を連想させた。おそらく予見士の一人だろう、と見当をつけ、素性はそれ以上尋ねなかった。

 そうこうしていると、俺の前にあった、自分用に取り分けた菓子の皿を、シューニャが勝手に鈴の方へと押しやる。


「ほれ鈴、こやつの分も食うてやれ」

「俺が買ってきたんだぞ……」

「わしが貰ったものなんじゃから、わしがどうしようと自由じゃろう。つべこべ抜かすな、図体の割に器が小さい男じゃのう」

「……まったく口の減らない爺さんだな」

「ふん、わしを口で負かそうなんぞ百年早いわい。この鼻垂れ小僧めが」

「もうすぐ三十になるんだが……」


 呆れてものを言うと、くすくすという控えめな笑いが聞こえた。鈴が可笑しそうに目尻を下げ、口元を押さえていた。

 目が離せなくなった。小さな野の花が咲くのに似た、主張しないけれど華やぎを持った笑み。それだけで、今まで関わってきたどの異性とも違う人だと分かった。そのまま数秒惹きつけられたが、またシューニャに小言をぶつけられると感じ、いそいそと視線を戻す。

 シューニャは目くじらを立ててはいなかった。代わりに、俺たち二人を唖然として眺めていた。彼のそんな表情を見るのは初めてで、思わず面食らった。

 その日は次の朝まで滞在することができたから、一部屋を借りて羽を休めた。そろそろ眠ろうかとしていると、ドアをノックする者がある。開けると、神妙な顔つきのシューニャがそこにいた。乏しい光源の中で、灰色の目の底がきらりと光っている。


「お主に話があっての」

「なんだ、改まって」

「入るぞ」


 可否を口にする前に、シューニャはするりと自分の脇をすり抜け、不遠慮にベッドの中央にぼすんと陣取った。ホテルと同じく一ルームしかない部屋の中で、仕方なく立ったまま己の上司の話を聞くことにする。

 いつもぬけぬけと詭弁を弄しているシューニャの老獪な目は、しかし今は真剣そのものだった。


「あれが笑うところを、わしは初めて見た」

「あれ?」

「あの娘子むすめご……鈴のことじゃ。あの娘がここに来てから、もう丸三年は経つ。それなのに、初めてじゃ」

「そうなのか? 笑わない娘だとは、思わなかったが」

「あまり信じたくもないが、お主とあの娘は相性がよいかもしれんのう」

「何なんだ、いきなり……」

「あれは不憫な娘よ」

「え」


 シューニャはそこでベッドからとすんと降り、後ろ手に指を組んで、月明かりが差す窓辺に歩み寄る。

 ちっぽけなはずの背中がいやに大きく見えて、俺は一歩も動けず、また一言も発せなかった。


「あの娘はのう、わしの娘も同然なのじゃ」

「シューニャ?」

「お主には話しておこうと思ってな。鈴の出自について」


 シューニャがこちらに向き直る。白髪がぼんやりと月光に照らされて鈍い輝きを放っていた。その姿は少年だけれど、様々な感情がない交ぜになったその深い眸からは、確かに酸いも甘いも噛み分けた老練さが滲み出ていた。知らず、自分の喉が鳴る。

 そして俺はすべてを聞き遂げた。鈴の、壮絶な身の上について。


「セルジュよ。あの娘を悲しませるなよ。泣かさないと誓え」

「そんな、突然……」

「できんのか?」

「いや――分かった。約束する」

「うむ。確かに聞いたぞ」


 シューニャが冷たい光を目に宿しながら、深々と頷く。

 翌朝、根城を退去するとき、鈴が見送りに出てくれた。少ししか話せなかったのに、彼女の眉は垂れ、寂しそうな目をしていた。昨日シューニャから身の上話を聞いたばかりだったので、何か言わなければいけないと思ったが、何を言えばいいのか分からなかった。他人の心情の機微が察せない仕事人間は、こういう時に困る。

 心のどこかで特別な感情が湧いてくるのを自覚したけれど、彼女とは十歳違いらしいので、きっとこれは妹に向けるような親愛の情に違いなかった。

 結局、当たり障りのない台詞で口火を切った。


「わざわざ見送りに来てくれてありがとう」

「いえ……あの、お話しできて、楽しかったです。その――」

「うん?」

「あの――また、こちらにお見えになりますか」

「ああ。いつになるかは分からないけれど、また来るよ。あの爺さん、甘いものが食べられないと癇癪を起こすからな」

「そんな、……またお会いできる日を、楽しみにしています」

「……ああ、ありがとう」


 ほほえむと、ぎこちないながら鈴も笑みを返してくれた。

 話せて楽しかった。また会えるのを楽しみにしている。そんなことを言われたのは初めてだった。つい、手を伸ばして彼女の頭を撫でたい衝動に駆られたが、すんでのところで思い止まる。

 じゃあ、と遂に立ち去るまで、鈴はじっとこちらを見つめ続けていた。その双眸に熱いものを感じてしまい、気のせいだ、本当にどうかしている、と考えを振り払った。

 それから数度、シューニャの隠れ家を訪れたが、鈴はいずれも歓待してくれた。

 ――表面的には。

 俺は次第に、鈴の態度がどこかよそよそしくなっていっているのに気づいた。向い合わせで話をしていても、目線が合わない。視線を感じて振り向くと、そこにいた鈴がふいっと顔を逸らす。そんな場面がたびたびあって、俺は人知れず思い悩んだ。心当たりがないが、何かまずい行為をしでかして、嫌われたのかもしれない。

 シューニャとの約束を忘れたことはなかった。鈴を悲しませない。そのためにはどうすればいい、と自問して、喜ばせばいいのではないか、と自答を返した。

 そういうわけで、安直だが何か贈り物を探すことに決めた。よくよく思えば、いつもシューニャのために菓子を用意していっているのに、鈴には何もないでは不公平であった。もしかしたら、そのせいで気分を害したのかもしれない。ばつの悪い思いを抱えながら、執務のあいだを縫ってプレゼントを見繕うことにした。

 贈り物選びは難航した。そもそも、鈴が何を貰えば喜ぶのかとんと見当がつかなかった。食べ物であれば外れはないかもしれないが、それではシューニャと同じで芸がない。

 今まで交際した女性は数人いたものの、皆上昇思考の強い人ばかりで、彼女らの好みは指標になりそうもなかった。影のエージェントもそうでない人も、ことごとく俺の仕事ができそうなところを好きだと言い、関係が冷えてくると仕事ばかりでもう付き合いきれないと言い放った。180度変わる彼女たちの態度に途方に暮れるしかなく、俺はいつだって袖に振られる側だった。鈴がそのような女性でないのは明らかだ。ブランドものの装飾品や、高価なフルコースや、希少なワインを好む人であるはずがなかった。

 そんな折、部下のヴェルナーに久々に会う機会があった。この赤目赤髪の軽薄な男は、度を越した女好きで勇名を馳せていた。女性に贈る物の目利きは頼れるかもしれない。男と二人なんて嫌だと渋るヴェルナーを、俺は奢るからと食い下がってバーに誘い込んだ。


「お前、前より目付きが悪くなったと思ったらそんなことで悩んでたのかよ」


 上司を上司とも思わぬ男は、事情を説明すると開口一番そんな失礼な台詞を吐いた。目付きが徐々にきつくなっているのは自覚していたことだが。


「お前にとってはそんなことかもしれんが、俺にとっては大問題なんだ」

「つうか、アドバイスするのは簡単だけどさァ、それで仲直りできたら俺のおかげってことになるじゃん? お前はそれでいいの?」


 無闇に強い酒を舐めながら、ヴェルナーが探りを入れてくる。確かに、その通りだ。助言を受け入れて関係が修復されれば、間接的にこの男が仲を取り持ったことになってしまう。


「それは確かに、御免(こうむ)りたいな」

「けっ、正直な奴だな。……指定しない程度に言うけどよォ、実際何でもいいと思うぜ。お前がどんだけその子のことを考えて選んだかって方が大事なんだよ。要は気持ちよ、気持ち」

「……俺の気持ちか。なるほどな」

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