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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
131/137

彼らのこと・回想 スカーレット・カメリアを君に(1/4)

―セルジュ・アントネスクの話


 自分には夢がある。

 妻と二人、陽の光に満ちた家に寝起きし、小さくも人懐こい犬を飼って、談笑を交わしながら穏やかに暮らす。そんなささやかで、同時に途方もない夢が。

 それが結婚して以来数年の、俺の宿望だった。



 日本産の菓子を手土産に、上司の隠れ家をおとなったのは、実にひと月ぶりのことだった。

 我が上司――影を統べくくるシューニャは、"罪"の詮索の目を逃れながら、ここで隠遁生活を送っている。詳しい場所は残念ながら明かせないが、数人の予見士と、自分の部下である執行部の部員たち、そして俺の愛する妻がひそやかに暮らしている。

 入り口の扉を開けると、すぐにぱたぱたと足音を立てて小柄な女性が走り寄ってきた。くるぶしまである中華風のロングドレスに、肩下までの艶やかな黒髪、憂いを含んだヘーゼルアイ、抜けるように白い肌。髪は真っ赤な髪飾りでハーフアップにされている。愛おしい妻のりんである。


「セルジュ様、お待ちしておりました」


 妻は口元を控えめに綻ばせ、名のとおり鈴を転がすような声音で、そう出迎えてくれた。


「久しぶりだね、鈴。元気だったかい」

「はい、おかげさまで。あの、お荷物を――」


 俺の手荷物を預かろうと鈴が手を伸ばす。その意図には答えないで、たおやかな手をぐっと引き、彼女の華奢な体躯を出し抜けに抱きすくめた。鈴がはっと息を飲むのが伝わる。


「会いたかった」

「……わ、わたくしも、同じです……」


 言葉尻が少しだけ震えている。腕をいったん解き、軽くキスをすると、鈴の体はぴくりと跳ねた。結婚して数年経つのに、まだこういったことに慣れないらしい。そんな奥ゆかしいところもすべて、自分は好意を抱いていた。

 顔を離すと、妻の頬は桃色に染まっていた。


「あ、あの――」

「そんなところで何をしとるんじゃ。いちゃつくならわしの見えんところでせい」


 声変わりのしていない、しかし口調だけは老人めいた少年の声が割って入る。

 鈴の肩越しに廊下の向こうを見やると、我がボスたるシューニャがドアからひょっこりと顔を覗かせていた。ほとんど人形めいた、整いすぎた容貌は目線のかなり下にある。白髪に薄い灰色の瞳、瞬きするたびに揺れる長い睫毛、床に届きそうな法衣の上にサイズが合わないだぼだぼの白衣を羽織っている。見かけでは十歳かそこらにしか見えないが、彼はとうに五十を超えている、そうだ。

 シューニャは自分の上司でもあり、また口うるさいしゅうとのような存在でもあった。

 美少年の皮を被った壮年の医者がふんと鼻を鳴らす。


「誰かと思えばお主か。まったく、お主のようなむさ苦しい男の顔など見とうないわい」

「そう言うな。あんたの好きな菓子も買ってきたんだから」

「そうならそうと早う言わんか。茶会にするかのう」


 俺が手に持った荷物を掲げながら言うと、シューニャはほとんど表情を動かさずにそう言い返す。鈴はほんのりとほほえんで、それでは珈琲を淹れますね、と俺たち二人の顔を交互に見た。


「嬉しいな。君の淹れた珈琲は世界で一番美味いから」

「わしの前でのろけるなと言うに」


 シューニャがぶつくさと文句を吐く。

 茶会とは名ばかりで、その小一時間ほどのあいだ、俺はシューニャに小言をぶつけられるままになっていた。一応、俺からもシューニャに報告する内容もあったのだが、そんなことは些事と言わんばかりの態度であった。それよりも、目の前に広げられたたけのこの形の菓子や、船が型どられた菓子を食べることの方が大事だと思っているのではないか、そう疑わずにはいられない。


「まったく、なぜお主はきのこもたけのこも買うてくるんじゃ。いつになったらわしはたけのこ派だと覚えるのかのう? これだから図体が大きいだけの甲斐性なしの熊男は困るのう」


 毒づきつつ、シューニャはひょいひょいと菓子を口に放り込んでいく。この狸爺たぬきじじいめ、という反駁が喉まで出かかるが、鈴の手前なんとか理性で押し止めておく。


「そんなことより、食べすぎだろう。もう年なんだから、糖尿病になるぞ」

「かーっ、医者に説教とはお主も偉くなったものじゃの。老い先短いんじゃ、好きにさせい」

「都合のいい時だけ老人ぶるなよ……」


 俺たちが何のかんのとやり合っているあいだ、鈴は口元を押さえてくすくすと笑っていた。その笑顔を見ると、日頃の影での仕事の疲れが全部吹っ飛んでいくようだった。

 ようやっとシューニャのぼやきから解放され、鈴の居室で二人きりになった時には、既に夕刻を迎えていた。

 ソファに体を沈め、ふうと息をつきながら、ネクタイを緩める。その様子を、鈴は部屋の隅から遠巻きに眺めていた。この場所の主なのだから、もっと厚かましくしていていいのに、鈴はどこまでも慎ましやかだった。


「あの……」

「うん?」

「おそばに行っても、よろしいですか」

「もちろん。おいで」


 腕を差しのべ、胸を開く。鈴がとつとつと歩み寄ってきて、俺の胸の内に収まる。会うたびに、こんなに細い体だったかと喉の奥が詰まる。ちゃんと食べているのかと心配になるほどだ。

 そのままの体勢で、妻の髪をく。指が途中で髪飾りに引っかかる。これはかつて、自分が贈ったものだ。普段は分からないが、俺が会いに来る時はいつも着けてくれている。そんな彼女が愛おしかった。

 二人きりでないとできない深い口づけを交わす。毎日一緒に過ごしたいのに、こうして会える日が月に何日もないのはひどく残念だった。

 名残惜しく思いながらも、顔を遠ざける。少し潤んだ瞳でこちらを見つめている、彼女の両肩に手を置く。


「鈴。ここでの生活は退屈だろう。何か欲しいものはないかい。何でも言ってごらん」

「いいえ……わたくしには、ここで生活させてもらえるだけで、十分すぎるほどですから」


 鈴はふるふると頭を振る。うっすらと浮かんだ笑みは、ひどく寂しげだった。

 心にちくりと痛みが走る。こんなに近くにいるのに、遠く感じた。そんなに物分かりよくなくていいのにと思った。もっと我が儘になってほしかった。妻の願いなら何だって、身をにしてでも叶える心積もりはできているのに。

 彼女が出生に秘密を抱えていることを、俺は知っていた。そのことで、周りに負い目を感じているのも。自分の夫に対してくらい、そんな後ろ暗い想いを取り払ってほしかった。


「鈴」


 心持ち強く呼びかけると、鈴の美しい双眸がはっとこちらを見据えた。左しか見えない目で、彼女をじっと見つめる。


「俺の前でくらい、本音を隠すのはやめにしないか。俺は君が何を言おうと、君を嫌ったりしない。思っていることを言ってごらん。だって俺たちはもう他人じゃない、夫婦なのだからね」


 鈴の右手を両手で包み、諭すように言うと、彼女の唇が震えた。左手が鎖骨の下あたりを押さえ、視線がふらつく。そうだよ、言っていいんだよ、無言で俺は促す。


「わ、たくしは……」

「うん」

「……もっと、セルジュ様に会いたいです。ご無理を言っているのは分かっています、でも――もっと会いに来てほしいです。もっと、一緒にいたいです……!」


 感極まったように、鈴が抱きついてくる。その軽すぎる全体重を受けとめた。肩口が濡れる気配があって、ああ、と天を仰ぎたくなる。また泣かせてしまった。もう、悲しませないと約束したのに。

 自分よりずっとずっと薄い肩をぽんぽんと優しく叩く。頑是がんぜない子供を宥めるように。


「うん。すまないね。もっと会いに来れるようにするよ」

「はい……」

「いずれ君と二人で暮らせたらいいなと思っている。君の自由を取り戻したいとも。そうなったら、君の好きなところへ一緒に行こう。――だから、もう少し待っていてくれるかい」

「はい……、もちろんです」


 涙声だったけれど、その声はしっかりとしていた。

 抱擁を解くと、もう涙は止まっていた。頬に残る筋を親指でそっと拭うと、今度は鈴の方から口づけされて、一瞬たじろぐ。首に回された腕はいつになく自分をひたむきに求めているようで、切なかった。彼女との口づけはいつだって、わずかに悲しみの味がした。

 もっと深く、その心の真奥しんおうに迫れたらいいのにと、それだけを願った。

 自分が鈴と出会ったのは、影対"罪"の全面闘争――パシフィスの火――から数年経ってからのことだ。

 "罪"の連中はかしらを喪い、表面上の活動は沈静化していたが、影の方も事情は同じで、将来を有望されていた面子の殉死もあり、組織の基盤はがたがたに揺らいでいた。自分も無傷ではなかった。火の期間に右目の視力を無くした俺は、現役を退いて管理職のポジションに就き、組織の立て直しに奔走していた。将来は隣にいてほしいと約束していた親友は鬼籍に入ってしまっていた。

 一報を聞いたときは信じられなかった。あのルネが、まさか死ぬだなんて。

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