どこかのこと 青春の箱庭と別れの曲(6/6)
* * * *
―マシューの話
トゥオネラからの脱出計画を立てていたとき、マシューはそれが絶対に成功するとは思っていなかった。成功率はよくて五分五分か、もっと低いと見積もっていた。
計画の全容はこうだ。
まず、マシュー一人では監視の目があるため"罪"から離脱するのは不可能と言ってよい。そのため、かつての研究室のボスに協力を仰ぐことにした。そうすれば二人で本部を脱することにもなり、一石二鳥だ。
無論おおっぴらに声をかけ、直接やり取りをすることなどできない。そこで、分子生物学をかじったことのある人なら誰でも一回は夢想するであろう、必須アミノ酸の略号と、コドンを用いた暗号を用いたのである。
必要アミノ酸はニ十種ある。その略号はアラニンがA、アルギニンがRなどと定まっていることは生物屋には周知の事実だ。さらにアミノ酸は、DNAの四種類の塩基ATCG(またはRNAのAUCG)の塩基対三個の順序によって種類が記述される。例えばGCTならアラニン、CGCならアルギニンなど、といったように。その順序を一覧にしたものがコドン表だ。
マシューは教授とプリントアウトした論文をやり取りする際に、文章内のA、T、C、G、Uの文字に印を付け、コドン表に照らし合わせれば文章が浮かび上がるようにして渡していた。この暗号は必須アミノ酸の個数の都合上不完全で、欠けているB、J、O、U、X、Zの六文字は適宜補ってもらう必要があったし、 そこに行きつく前の問題で、暗号だと気づいてもらえる確証もなかった。また、他人に感づかれれば言い逃れはできない。まさに綱渡りの作戦である。
開始コドンを示すAUGに印を付けるとき、マシューは教授が気づいてくれますようにと強く祈った。ニ度目までは見落とされてしまったが、果たして三度目でその祈りは届いた。暗号に書いたのは電源装置のプログラムの破壊方法とその依頼、そして最も重要なタイミングの指定だった。
そう、タイミング。
この計画の肝は混乱を起こすタイミングにある。混乱に乗じトゥオネラを脱出するには、実働員である教授が監視の隙をついて電源系統を破壊する必要がある。だが現実的にそんな隙はない。――マシューが、ルカの異端審問を受けている時間を除いては。
構成員の動向を監視するモニタから、ディヴィーネとルカが揃って目を離しているのは、彼らが防音室内にいるときと、ルカが何者かに異端審問を行っているときだけだ。防音室を使うタイミングは事前には予測できない。審問官は三人いて、どの審問で誰が担当になるかも当事者以外には分からない。けれど、マシューの異端審問なら。
マシューは確信していた。自分の異端審問の担当官は百パーセントルカが指名されると。あの性悪のボスなら絶対にそうするはずだと。
マシューの異端審問は、ディヴィーネの警戒心を薄れさせ、監視の目をかい潜る、最初にして最後のチャンスだった。
マシューは自らの命をチップにして、成功する方にベットした。自分の運に賭け、結果として勝負に勝利したのだ。
目的地点を入力された脱出艇が、なめらかに推進力を増す。マシューの背中が、わずかに背もたれに押しつけられた。
脱出艇の中でマシューは教授と視線を交わし、緊迫した空気を緩めてほっと息をつく。ここに二人が生きて揃っているのは奇跡だ。生まれてからこの方ずっと運は良かったけれど、これで手持ちの幸運も使い果たしたかもしれない。だがそれでも良かった。
マシューは教授に預けておいた命の次に大切なヴァイオリンを受け取り、計画の仕上げにやらねばならない最後のワンステップに向き合う。ふーっと息を深く吐き、両耳のリングピアスに触れる。
このピアスはただの装飾品ではない。これは"罪"の一員であることを示す首輪であり、枷だ。着用が義務づけられたのはディヴィーネが組織のトップに立ってから。内部にはGPSが埋めこまれているのみならず、ディヴィーネの指先の采配ひとつで装身主に耐え難い苦痛を与える引鉄ともなる。彼の手元のスイッチがひとたび入れられれば、信号を受け取ったピアス状の受信機から、全身に張り巡らされた神経へと電気信号が放たれ、直接的な刺激を引き起こし耐えがたい痛みを生みだす。当然自分の意思では外すことができない。
だからこの小さく凶悪なドックタグは、何としてもここで捨て去る必要があった。教授が心配そうな目でこちらを見ているのが分かる。ざーっと頭や手先から血の気が引いていく。
「いや、参ったな。人生で今くらい、マゾだったら良かったのになと思ったことはないですよ」
そう強がりを口にして、マシューは両手に全力をこめる。
「くそっ、めちゃくちゃ痛いな……最後まであいつ、腹立つ……」
ぶつぶつ恨み言をぼやきつつ、引き千切った耳たぶの処置を終え、ダスト孔を通じてピアスを機外に捨て去る。これでもう、気がかりはない。マシューは教授に笑いかけた。教授はまだ緊張しているようだったが、こちらの笑みに釣られるように口元を笑ませる。
ブウーンという低い機械音を聞きながら、マシューはこれまでのことと、これからのことに思いを馳せた。事象のスピードにまだ脳と体が追いつかず、想像と現実の狭間で、自分という実存がゆらゆらと揺らいでいるように感じる。まるで現実感がない。
計画の初期段階ではルカも連れていくことを検討していたが、難易度の高さに断念せざるを得なかった。それにもしルカがここにいたら、ディヴィーネは全力をもって追手を差し向けていたに違いない。
あの黒髪の青年は今、何をして何を思っているだろう。友と言っておきながら置き去りにした自分を恨んでいるだろうか。それでもいい。ルカが某かの感情を抱いてくれるのなら、マシューにとっては途方もない贅沢だ。
ぴんと張りつめていた神経が少しだけ弛緩して、その間隙を縫うように、マシューの脳内に流れこんでくる曲があった。優しく切ない、ピアノのメロディー。別れの曲などと呼ばれることもある、やりきれない思い出を思い起こさせる、ショパン作曲の感傷的な曲。
不意に、高名な音楽家であったピアノの詩人の最期が思い出された。
ショパンは晩年、祖国ポーランドに戻りたいと強く願い続けたものの、敢えなくパリで客死する。ショパンの姉は弟の最期の願いを叶えるべく、アルコールに浸けた彼の心臓を瓶に入れてドレスの下に隠し、パリから出奔したという。その心境はいかなるものであったのだろう。かつて兄弟姉妹を捨て、今また友人を捨てたマシューには想像するべくもない。彼女の覚悟が、筆舌に尽くしがたい悲壮なものだったのだけは確かだ。
ショパンの心臓が安置されている教会の柱には、マタイの福音書からの引用が刻まれているという。
『あなたの宝があるところに心もある』
――俺の大切なものは、心は、どこにあるのだろうか。
そこまで想像したところで、"罪"でのマシューという名が、聖人マタイを由来としていることに思い至り、因果の偶然性におののく思いだった。
この先にはどのような展開が待ち受けているのだろう。思えばあの狭い箱庭で、ハイティーンから二十代の半ばまでを過ごした。暗黒の世界の青春だろうと、マシューにとっては輝いていた日々には違いない。
過去からぐんぐん遠ざかりながら、奥歯をぐっと噛み締める。マシューがショパンの心臓の代わりに身に隠しているのは、自身の命を唯一助けてくれるかもしれないものだ。そして今一番に願うのが、己の身の安全ではなくルカの身の安寧であることを自覚して、マシューは少しだけ苦笑した。
ずっと前から、覚悟はできていた。
最後にルカへ投げかけたい言葉も考えてあったし、決別の前にすべてをぶつけることもできた。だからもう、何も心残りはない。
トゥオネラに別れを告げる心構えはできていたのだ。
さようなら、青春の季節のきらめきよ。
そしてルカよ、どうか思うままに生きてくれ。
それが彼にとっては辛苦の源になろうとも、そう願わずにはいられなかった。