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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
129/137

どこかのこと 青春の箱庭と別れの曲(5/6)

 ただし、今ここは悩めるルカのための時間と場所ではない。

 マジックミラーの向こう側から指示が飛ばされたのだろう、すっとルカの纏う空気が冷える。仕事モードというわけだ。延命は終わりだ、と宣言するように、抑揚のない凍てついた声がこちらに投げかけられる。


「そろそろ無駄話は終わりにして頂きましょう。……あなたには現在、ディヴィーネ様に対する反逆の嫌疑がかけられています。申し開きすることはございますか」

「ないね。あんな奴、大っ嫌いだ」


 少しも躊躇することなく言い放って、不遜に笑ってみせる。

 ルカの眉間の皺が深くなる。静かに怒っているのだろう。まだ脳裏に生々しく焼き付いている、彼の指が喉に絡む感触が甦り、無意識にじり、と半歩後退していた。


「痛いのは苦手なんだ、なるべく苦しまないようにしてくれよ」

「そのようなことが頼める立場だとでも」


 こちらににじり寄ってくるルカの表情から、そのときふと、"罪"の異端審問官としての表情がすうっと消え、代わりに純朴なニ十一歳の青年の顔が表出した。「ずっと不思議に思っていたことがあるのです」と、まるで生徒が教師に尋ねるときのように、何の気負いもなしに言葉が紡がれる。


「不思議? 何だよ」

「あなたは以前、人を殴ったこともないと仰っていましたね。身を守る術も身につけていないようにお見受けします。それなのになぜ、権威に逆らい、相手を否定するような言動ができるのですか」


 ルカはそれを心底不可解に感じているようだった。もう両腕を伸ばせば指先が首にかかるという距離にあって、マシューは一瞬虚を突かれたのち、こみ上げてくる笑いを奥歯で噛み殺す。


「なんでって、そんなの考えたこともなかったな。誰かと戦うのに、言葉があれば十分じゃないか?」


 琥珀色の瞳が大きく見開かれる。まったく聞き取れない未知の言語を聞くような、人語で喋る犬を発見したような、理解の範疇を超えたものを見る目をしていた。

 物理的な力だけが力を持つのではない。知こそ力なのだ。それがこんな世界であっても。

 ルカは数秒沈黙していたが、すべてを吹っ切るようにまた強く頭を振って、マシューに正対する。もう純朴な青年の顔の名残はどこにもなかった。邪魔物を排除するための獣の顔つきが、そこにはあった。

 低く冷たい声が、最後通牒を突きつける。


「あなたには、死をもって罪を(あがな)って頂きます。言い残すことがあればお聞きしましょう。あなたと言葉を交わすのは、これで最後です」


 マシューは少し、考えた。前から用意していた言葉たちはルカにすべて渡し終えている。自分がここでできることはもう、何もない。

 自らの命を刈り取る鎌を振り上げている死神に、マシューはにこりと笑いかけた。


「そうだな……最後に、ハグしていいか?」


 静寂。または、絶句。

 ルカは文意を一瞬失ったのだろう、硬直したあと目に見えてたじろいだ。「いいだろ?」と念押ししながら逆にこちらから歩み寄る。こんな展開は彼にとっても初めてに違いなく、冷徹な無表情が崩れかけていた。

 自分より十cm以上背が高い体に思いきって腕を回す。彼の総身がぎくりと強ばるのが分かる。マシューはルカの体温を感じ、皮膚の下で完璧に連動している筋肉を感じ、呼吸や拍動のリズムを感じた。それは機械などではありえない――たとえ体の何割かが無機物に置き換わっていたとしても――温かい生き物の存在そのものだった。

 両腕にぐっと力をこめてから、最後に広い背中をぽんぽんと叩いて体を離す。能面のような、だがマシューには呆気に取られていると分かる顔に向かって、


「あんたは人間だよ。ただの、人間だ」


 そう言ってやった。ルカは棒立ちのまま、マシューを見下ろしている。視線が交錯したのが永遠に思われたけれど、実際はほんの数瞬だったろう。

 言葉は尽くされた。二人のあいだにはただ、死あるのみ。

 いつルカの指がマシューの喉元を捉えてもおかしくないというタイミングで――

 お互いの肩が急激な空気の震えに跳ね上がる。

 緊急警報(アラート)だ。

 一瞬で空気が緊迫する。ビーッ、ビーッというけたたましい大音量が鳴り始め、鋭く鼓膜に突き刺さる。数秒を置いてそこかしこからばたばたという足音が一斉に聞こえ始め、誰かが悲鳴に近い金切声を上げた。

 マシューの息の根が止まるまで閉ざされるはずだった扉が、勢いよく開け放たれる。顔面蒼白の構成員が「大変です!」と息急いきせききって飛びこんできた。


「なんだ! 何が起きている!」


 ルカが怒鳴る。今まで聞いたこともないような大音声だいおんじょうで。


「電源系統の不具合が発生したようです! 第九ラボから第十三ラボまで、完全に電気の供給が断たれています」

「非常用電源があるはずでは」

「はい、ですがそちらも作動しておらず……」


 ルカが珍しく焦りもあらわに舌打ちする。脳髄をがんがんと揺らすアラートはずっと鳴りっぱなしで、そのうち何らかのトランス状態に陥りそうだ。

 マシューはルカに向き直り、語調を早めた。


「ルカ、どうするんだ。九から十三って言ったら、今の状況はかなりまずいだろ」


 電源を喪失している五つの研究室を思い浮かべる。そこには継代けいだいに熟練の技術を要する細胞や、非常に珍しいタイプの大腸菌、骨を折って遺伝子変異を加えた種々のウィルス、高額な酵素や試薬の数々が保管されている。失われれば取り戻すのに時間がかかるのは明白だ。電源がすぐに復旧しないのなら、それらをレスキューするために研究者の手が必要である。


「このままじゃ、少なくともいくつかの研究はおじゃんになる。俺に行かせてもらえれば――」


 そうですね、とルカは深く頷く。


「緊急度が高いと思われるラボに至急、向かって下さい。異端審問は後回しです、判断は一任します」

「了解だ!」


 マジックミラー越しに主と目配せしたルカの指示を聞き、マシューは弾けるように駆け出した。ルカも長い脚を素早く動かして出入口に向ける。ああ、生きてこの部屋を出ることになろうとは。

 トゥオネラのそこここを慌ただしく人が行き交っており、当該のラボに近づくにつれ、廊下にひしめき合う研究員たちが増大する。

 響き続けるアラート、忙しない足音、我が子同然の研究成果の行く末を案じる悲痛な声、悲鳴、怒声、現状報告を求める甲高い声、トゥオネラは様々な騒音で溢れかえっていた。もう誰がどこにいるかも判然としない。

 混沌とした状況の頂点で非常用電源が復旧し、どうも停電は人為的に起こされたらしいとの報告が叫ばれるまでに、そこから五分間ほどの間断があった。ほっと胸を撫で下ろす人々の波のさなかで、茶髪のアメリカ人の影を見失い、一人呆然とするルカの姿をマシューは想像する。

 先刻まで絶体絶命だった――今や騒乱から遠く離れつつある――そのアメリカ人が策を弄したのだ、と先に気づくのは、ルカとディヴィーネ、どちらであろう。

 しかしそれももう、 自分には関係のないことだった。以前から立てていた計画の通り、緊急用の脱出艇にマシューは乗り込んでいる。かつての研究室のボスと隣り合って。


 * * * *

―ルカの話


 マシューに一杯食わされことを悟ったルカが、ディヴィーネの元へ急ぎ戻ると、彼はもうすべてを了解しているようだった。

 マジックミラー越しに審問室を望む部屋で、主は落ち着き払って椅子に深く腰かけていた。こちらを見上げる凍てついた青緑の瞳に向かって、ルカは手早く説明する。

 異端審問のやり取りをしている間に、マシューのかつてのボスであった研究者が、電源系統のサーバのプログラムの一部を破壊したらしいこと。

 どういった手段かは不明だが、彼らは結託して前々から計画を立てていたと思われること。

 脱出艇を二人に奪われたこと。

 空虚なほほえみをたたえていたディヴィーネは、ルカが申し訳ございません、とこうべを垂れるのとほぼ同時に、けたけたと大笑いし始めた。その場にいる全員がぞっとするほどに、乾いてたがが外れた異様な笑い方で。


「あはは! はは……まったくマシューくんは本当に面白い人だなあ。こんなことをやりおおせるなんて……これほど他人に虚仮こけにされたのは初めてだよ。はは……あははは……!」


 哄笑が響く部屋で、ルカだけが顔色を変えず進言する。


「いかがなさいますか。まだ遠くには行っていないかと。追いかけますか」

「いや、今はいいや」麗しき主はぞんざいに首を振った。「今はそれより、彼にふさわしいむごい死に方を時間をかけて考えてあげようよ。それに彼は篭の外に出たつもりかもしれないけど、結局は世界中あらゆる場所が檻の中なんだし」


 どこに逃げたって、"罪"の息のかかった人間なんてごろごろいるんだからね。

 そう低く冷たく呟いて、またけたけたと笑い転げる。

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