どこかのこと 青春の箱庭と別れの曲(4/6)
* * * *
―マシューの話
約十メートル四方のコンクリート造りの寒々とした部屋は、トゥオネラの中で一番恐れられている部屋だ。
自らの墓場となる場所の前で、マシューは異端審問が決まってから今までの日々を思う。時間はあっという間に過ぎた。最期の数日は監視も厳しくなり、世話になったり世話をしてきた人々に別れを伝えることすらままならなかった。付き添いの"罪"の構成員にせっつかれ、ついに異端審問が執行される部屋に一歩踏み入れたマシューは、その冷え冷えとした禍々しさに身震いする。
ここから生きて出た人間は――異端審問官を除けば――存在しないのだから当然だが、部屋の中を見るのは初めてだった。前面は一面鏡張りになっており、ただの鏡ではなくマジックミラーのはずで、その鏡兼覗き窓の向こうにディヴィーネはいるはずだ。ローブを目深に被った付き添いの構成員は、部屋の奥に進むよう促して退出していった。鏡の向こうを睨みながら、ディヴィーネに横顔を見せる向きになり入り口を振り返る。
付き添い人と入れ替わるように、ぬらりとルカの長い影が現れた。
しばらく顔を合わせないうちに、彼の雰囲気はいっそう研ぎ澄まされた刃物のように変貌していた。またもぞくりと総身が震える。凍てついた光を目に宿すルカへの恐れだけではない、最後にもう一度彼に会えたという安堵のためでもある、と信じたい。
舌で唇を湿らす。先手を打って、マシューはルカに問いかけた。
「よう、ルカ。久しぶりだな。また顔色が悪くなったんじゃないか、不眠症か?」
「……」
「なあ、あのあと、考えてくれたか?」
「……」
ルカは口元を真一文字に結んだまま、答えない。おそらく主から問答するなと言い含められているのだろう。知るもんか。そっちがそんな考えなら、こっちもこっちだ。
「なあ、これで最後なんだ。少しは俺を楽しませてくれよ。あんなに深いことをした仲じゃないか」
「……」
「あんただって、あっさり殺してはい終わり、ってんじゃ退屈だろ、なあ?」
「……。……いえ、別に」
「おっ、喋ったな」
にやりと笑ってみせると、ルカは仏頂面を強くする。琥珀色の瞳が鏡の方に目配せされた。ディヴィーネとの何らかの指示がやり取りされたのだろう、ルカは観念するように二、三度頭を振り、こちらへ向き直る。死ぬまでは人間として扱ってくれる気はあるらしい。
死神を身に宿したような男が、静かに問う。
「……考えるとは、何をです」
「あんたの人生の生き方だよ」
間髪入れずに返すと、ルカの顔が盛大にしかめられる。ぎらついた目が「その話題を即刻止めろ」と言っていたが、死を前にした人間に怖いものなどない。足を一歩前に出しながら勢いこんで続ける。
「自分で何も決めないままでいいのかって、前に言ったよな。俺はあんたが思うままに生きてほしいんだよ。こんなちんけな場所で、卑怯者の言うこと諾々と聞いてるだけの人間にしておくには、あんたは惜しすぎる。どう生きたいのか、立派な頭で考えてくれよ。あんた、したいことはないのか?」
ややあって、ルカの唇が動く。マシューの熱をかわすように、冷淡な声音がそこを突いて出る。
「私の意思は、あの方の意思です。私の体も心も、あの方のものです。したいことなど、私には何も――」
「違う」言葉尻を待たず、強い語調で否定する。「あんたはあいつの所有物じゃない。人間は物じゃない。過去に何があったとしても、あんたの意思や人生を踏み躙っていいわけがないんだ。なあ、きっとあるだろ? あんた自身のしたいことが」
「……ありません」
「今ここで答えを出せって言ってるんじゃない。考えろよ。思考停止するな。物事を結論ありきで捉えようとするな」
「……。……これ以上、私を惑わさないで下さい。私の心を、乱さないで下さい」
「ルカ……」
語調に滲み出る切実さに、マシューは気圧されそうになった。ルカの表情は苦々しく、強い煩悶がありありと浮かんでいる。まるで水中で息ができずに苦しんでいるみたいに見える。追い詰められている獣のようにも。
自由意思の存在を示すこと。それはとても残酷な行為なのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。ルカとマシューでは最初から生まれた土壌が違う。
マシューが生まれついたのは言わば元からふかふかに耕された土地だったし、土壌の豊かさに加え、収穫のための大規模な機械を導入できるだけの資金も家にはあった。翻ってルカは、土地とも呼べないような荒れ地を自力で開墾せねばならず、その上誰の力も借りられず、生き延びるためには虫や草の根すら口にしてきたかもしれない。それくらい一方はやりたいように選択する自由に恵まれ、他方は生きるためにすべての選択肢を捨てなければいけなかった。
元々の土台が違う場所から放たれる「考えろ」という響きは、耳を塞ぎたくなる言葉かもしれない。家族も故郷も信仰も奪われたルカにとって、意思を他人に明け渡し、これしかないと信じこまされて、無機質な人形のように指示に従い続ける方が幸せなのかもしれない。
それでも彼には、世界を自分の目で見て自分の耳で聞いて判断してほしかった。瞑っている目を開いて、"ちゃんと"生きてほしかった。
彼を友人だと思っているから。
ルカの表情がくしゃりと歪む。
「考えて……一体どうなるというのです。私は数えきれないほどの人間を殺しました。引き返せる段階などとうに過ぎています。今の私は死体の山の上に立っているのです」
「あんたは別に殺したくて殺したわけじゃない、そうだろ? 命令され脅されて仕方なくやったことだと言えばいい。どこの警察機関でも情状酌量の余地があると判断してくれるさ」
「あなたは何も分かっていない」
ルカの頭が強く左右に振られる。あくまでも頑なな様子が胸にずきりと刺さる。
「なあルカ。俺はあんたのことが好きだぜ。今まであんたにそう言ってくれた人間はいるのか?」
「……」
「じゃあさ、今までに友達いたことあるか」
ルカは答えない。ただ、伏せられた瞳がわずかに揺れているのが見える。
マシューは彼が見ていないことを承知で、ルカに思いきり笑いかけた。
「そうかい。あんたにとって一人目の友達になれて、俺は嬉しいぜ」
「……私に友人はおりません」
「分かってないな。片方が友達だと思ってるならそれは友達なんだよ」
その解釈はおかしいのではないでしょうか、とぼそぼそ呟く声が耳に届いて、己の命が風前の灯だというに、マシューは吹き出してしまいそうになる。
ルカを苦しめている自覚はあったが、彼の思い悩む表情を見るのは嫌いではなかった。人間の意思を形成しているものはそもそも、脳内における様々な欲求の競争である。その鬩ぎ合いに勝った欲求が意思となって意識にのぼる。意思とは、思考とは、そのようなプロセスそのものであり、つまるところ懊悩や逡巡こそが人間を人間たらしめているとも言える。
だからこそ、苦悩の色を帯びたルカの表情は、とても人間らしいものにマシューの目に映る。