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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
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どこかのこと 青春の箱庭と別れの曲(3/6)

「おう、何だ? また実験でうまくいかないところがあったか?」

「マシューさん、僕たち……あなたがいなくなったらどうすればいいか……」

「組織だって、困るはずです……! 私たちじゃマシューさんみたいにはできないのに」

「こんなの間違ってます!」


 彼らは途方に暮れつつも、それぞれ一対の瞳の奥に熱情の炎をともしていた。詰め寄ってくる人波を何とか押し止めようと両手で制止する。


「そんなに心配するなって。大丈夫だよ。必要な技術も知識もあらかた教えてあるし、研究者としての立場は確かに非合法だけど、お前たちの腕は本物だ。この俺が言うんだから間違いないぜ」


 はは、と笑ってみせるが、期待していたように笑いは広がらなかった。研究員たちは皆同様に目元を赤くして、見間違いでなければぐっと泣くのをこらえている。実際に、我慢できずはらはらと涙を流している者もいた。

 マシューは面食らった。確かに技術指導は熱心にやっていたけれど、よもや自分がいなくなることで、泣く人間が出るほど彼らに慕われているとは思っていなかったのだ。普段、彼らは"罪"に属する人間らしく、あまり感情を見せずごく淡々と研究を進めていた。ここにいる時点で、人間性には多かれ少なかれ欠落を抱えている人物ばかりだと思っていたのに、そんな侮りを彼らの涙がすべて吹き飛ばしてしまった。

 すすり泣きはどんどん感染していく。まるでもう自分が死んでしまったような気になる。まだ死んでないぞ、最後に生きてる俺を見ろ、との思いを込め、一番手近な二人の頭を乱暴にわしわしと撫でる。二人はわっと堰を切ったようにマシューの体に抱きついてきた。それが契機だったように、群衆がこちらに殺到してくる。上も下も分からなくなるほど揉みくちゃにされながら、マシューは幸福感が胸の内に生じていることに、少なからず戸惑っていた。

 自分が正しい道を歩いてきたとは決して思わない。真っ黒に汚れた資金で非合法な実験を行い、表立って公表することのできない研究を進めることが、世間一般的には悪だという事実を否定するつもりもない。科学的好奇心という名目の元ですら、倫理的に許されるはずのない探究行為だと分かっている。科学の道そのものにもとる行いだということも分かっている。

 ただ、日々研鑽を積んで磨いた彼らの実験の腕と情熱とを、自分一人くらいは純粋に認めてやりたい。そうマシューは思うのだ。


 * * * *

―ルカの話


 マシューの異端審問への召喚が掲示される前日。

 ルカは一人ピアノの置かれた防音室にこもり、演奏に没頭していた。弾きたくて弾いていたのではない。何かに集中していないと、寄るないことを延々と考えてしまいそうだったからだ。

 十指が奏でるはベートーヴェンのピアノソナタ第十七番「テンペスト」その第三楽章。もはや奏でるというレベルではなく、文字通り嵐のように、音楽記号を無視して荒々しく指を叩きつける。

 胸の内に湧いてくる思考を封じこめるように。マシューから投げかけられた問いについて思索しないように。

 ルカは、己自身がいくつかに引き裂かれていきそうな感覚を覚えていた。ディヴィーネの元で右腕として命令を聞き、彼の望みを叶える。それで良かったはずなのに、それが自分の総てだったはずなのに、なぜかマシューの言葉を反芻してしまう。

 嫌だった。考えたくなかった。しかし、考えたくないと拒絶するほどに、脳のどこかが意志に反して「考えろ」と囁く。それがマシューの声であるのか、自身の声であるのか、ルカにはもう分からなくなっていた。

 葛藤を全部吐き出すように、高速で動いていた指が終曲と共に静止する。ルカは長身をだらりと脱力させた。息が上がり、肩が大きく上下する。足りない、と思った。まだ、体の中のどろどろしたおりを出しきるにはまったく足りない。

 力任せに十本の指すべてを鍵盤に叩きつける。滅茶苦茶な不協和音が鼓膜を刺し部屋中に響き渡るのと同時に、右手の指先に痛みが走った。


「ルカ。そんな弾き方をしたら手が壊れてしまうよ」


 なめらかで歌うような声にはっとする。横を見ると、主たるディヴィーネが艶然とほほえみ、すぐ傍まで歩み寄ってきていた。

 ルカはほとんど反射的に立ち上がる。どうやら演奏に無我夢中で、彼が入ってくるのに気づかなかったらしい。あるいは、彼が最初から部屋の中にいたか。

 ディヴィーネの女のように白くたおやかな指が伸ばされて、そっとルカの右手を持ち上げる。彼が俯くと、銀細工のように輝く髪がさらさらと揺すれ、ごくささやかな音を立てた。その様子は、清廉な花の蕾が朝露に濡れ、そっと開くさまを想起させた。

 彼に視線を誘導され自分の手に目をやると、右手人差し指の爪が割れ、うっすら血が滲んでいる。なるほど、先ほどの痛みはこれだったらしい。

 主は割れた爪先の様子をとっくりと観察する。彼の指は吸い付くようにしっとりとして、少し冷たかった。ディヴィーネはその桃色の口元をほんの少し開いたかと思うと、何の予兆もなく、艶やかな唇の中にルカの指を含んだ。

 一連の仕草はごく自然で、あっと思う間もなかった。彼の目は伏せられ、長い睫毛が震えている。温かい咥内に迎えられた指が舌に舐め回される感覚と、耳に届く濡れた音に、ルカは我知らずぞくりとした。

 おそらくそれは数秒の出来事であっただろう。気づいたときにはディヴィーネは既にルカの手を離し、なんでもないような顔でこちらの顔を見上げていた。


「後でちゃんと消毒するんだよ。指は大切にしてもらわないと、ぼくが困る」


 そしてルカが首肯するより、眼前の光景を飲み込むのよりも早く、目元だけはやや細め、優しい口調のままで先を続ける。


「マシューくんを異端審問にかけることにしたよ。担当官は、君だ」


 淡々と宣言され、体が硬くなるのが分かった。他人に警戒感を抱かせない、彼の特別な声の響き。それが今は鼓膜から脳へとぬるりと入りこみ、思考すべてを揺さぶった。主はマシューのことを、投薬や脳外科手術で意識を乗っ取り、廃人になるまで傀儡かいらいのごとく操る道は選ばなかったらしい。

 想定外の決定では決してない。しかし性急とも思えるほどにタイミングが早すぎる。

 ルカは、足元に生じた渦に呑まれていくような感覚をおぼえた。まさか、自分がマシューの共奏の誘いに乗ったことが、彼の審問を早める要因となったのだろうか? そして想定していた事態にもかかわらず、自分はなぜ衝撃を受けているのか。まったくもって不可解だった。

 その上、マシューとまた顔を合わせなくてはいけないことに、自覚なく気後きおくれしていた。

 あの自信家の彼は最期の瞬間まで、先日ルカに投げかけたような言葉を放ってくるかもしれない。いや、殺されかけても相手を「友達」呼ばわりする奇矯な男だ、確実にそうすることだろう。己の正しさを露ほども疑わない声音で、他に進むべき道の存在をほのめかす言説。

 聞きたくない、と強く思った。認めたくはないが、またマシューの言葉に影響を受けてしまうのを避けたかった。それは己の主と信念に対する裏切りだから。

 その感情が恐れだということが、ルカには分からない。ただ漠然とした違和感が、晴れない靄のように胸の内にわだかまるばかりである。


「ルカ。お願いできるでしょう?」


 内奥の恐怖心を知ってか知らずか、ディヴィーネが微笑したまま冷淡に問うてくる。あくまでもそこに、ルカ自身の意思が必要だとでもいうように。

 これは単なる儀式だ。ルカに元より拒否権などない。しかしながら、主は欲している。マシューの殺害を、他でもないルカが自身で選び取ったという言質を。

 ディヴィーネの立ち姿はいつものように可憐そのものだ。けれどそこには確かに、すべてを隷属随従(ずいじゅう)させる王の風格がある。冷たく口元を笑ませ、ひとつしかない選択肢をあえて選ばせる冷酷な彼は、ルカの目にこれまでで最も美しく映った。どんな人類も彼の圧倒的な美の前にひれ伏さずにはおれまい。ディヴィーネの前では、男女の性差も善悪の区別も意味を成さず、霞んで消えていくようだ。

 その時の彼はまさしく美の化身であった。

 ふとディヴィーネと初めて会話した日のことを思い出す。これはきっと、あの月光の夜の再現なのだ。初めて人を手にかけた日の誓い、それをルカに改めさせるための。

 そしてまた、ルカとマシュー双方への、これは罰であるのかもしれない。

 ルカにできることはひとつだけだ。目を伏せ、その場に跪いて答える。

 ただ一言、「御意」と。

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