僕らと彼らのこと 暗殺計画(10/11)
ものすごい衝撃が全身を襲い、それがヴェルナーの渾身の蹴りだと気づく前に、受け身を取りきれないまま背中から床に叩きつけられていた。一瞬呼吸が詰まるが無理に体を起こし、銃を構えようとする相手の腕を、槍の柄の方で遠心力を使って弾く。得物の回転の勢いを利用して立ち上がるが、崩れた体勢と趨勢は容易には戻らない。
じりじりと追い詰められていく先は、何の因果か、最初にヴェルナーを出迎えたエントランスの二階部分だった。
目が霞んでくる。どうにかしなければ、と思うほどに体の動きが鈍ってくる。相手とて軽傷ではない。それでもこちらの隙を縫って間合いに潜り込み、私の溝尾へ放たれた肘打ちは、雌雄を決する決定打となる威力を持っていた。
木製の手摺りを薙ぎ倒しながら、私は仰向けにくずおれる。腐食と風化により弱くなっているとはいえ、木材の硬さは背中に多大なるダメージを与えるには充分だった。上半身が中空に投げ出され、両腕がだらんと力なくぶら下がる。得物が床に落ちる重い音がした。せめて全身が完全に落下していたら、一瞬でも距離を取れたのにな、と空虚な笑いが湧いてくる。
決定的な構図。ヴェルナーにとってはまたとないシチュエーション。
起き上がろうとすれば 、その瞬間に私の急所を弾丸が貫くだろう。横に体を転がそうにも、残っている柵が邪魔でできそうにない。
間延びしたような瞬刻の中で、茅ヶ崎はどうしているだろう、と考える。まだ金庫の前にいるだろうか。彼と別れてから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
緩慢な仕草で拳銃を突きつけながら、なあ錦、とヴェルナーが呼びかけてくる。彼は淡く笑っていた。眉尻を下げて、もの寂しそうに。
「俺ァな、こんな形でお前とお別れするなんて残念に思ってんだ。……本当だぜ?」
引鉄に指がかかる。身に迫る死の冷たさを、肌にひりひりと感じる。
私は、まったく諦めてなどいなかった。
死角になっている背中、その黒いシャツから、素早く自分の得物を引き出す。槍の質量は私の意のままに瞬間的に増し、軽く足で蹴っただけで背中の摩擦係数を運動エネルギーが超過する。その結果、全身がずるりと落下した。視界がぐるりと変化する端に、目を見張るヴェルナーの顔が映り、すぐに残像になる。よほど意外だったのだろう、銃弾はついに放たれなかった。
体を反転させてなんとか着地したあと、エントランスと一続きの空間にあるラウンジへと転がり込む。布張りのソファがたくさんあるので弾除けにはうってつけだが、所詮は一時凌ぎだ。いつまでもこうしているわけにもいくまい。乱れた息を整えながら、態勢を立て直す算段を思案する。
時計をちらりと確認すると、茅ヶ崎と別れて二十分強。ヴェルナーはもう一階部分へ降りてきただろうか。大きくひとつ深呼吸をする。不意打ちを狙うか、また接近戦に持ち込むか。奴の居場所を探らねば――。
そこで、この場に聞こえるはずのない声が、空間全体に響き渡る。
「先生ッ! 上です!」
聞き知った声が鼓膜を震わせた刹那、意味を頭で理解するのより速く、体が反射的に動いていた。総身を一回転させてその場から逃れる。視界が上を向いた際の0コンマ数秒で、ヴェルナーの位置が網膜に焼きつく。彼は壁の上方にある明かり取り用の窓枠にぶら下がって、上からこちらを狙っていたのだ。黒々とした銃口をぴたりと私に向けて。
こちらが逃げ込んだ先を見て、一階を経ずに先ほどいた二階部分から直接あそこまで飛んだのだろう。直線距離は目算で八メートル近くある。大した跳躍力だ。椅子の裏に隠れても、確かに上からでは丸見えだ。
いや、それよりも。
「茅ヶ崎! どうしてここにいる」
ラウンジに走り込んできた華奢な姿に、私は蹲ったまま大声を放った。焦りの含まれた声は、五メートルほど先に立つ教え子の、こちらに向いた側頭部に間違いなく届いたはずなのに、彼は私を一瞥すらしない。ラウンジへ来る前までの交戦内容を見ていないだろうに、ヴェルナーがいる場所を言い当てて警告するという離れ業をやってのけた茅ヶ崎は、窓枠からぶら下がった赤毛の男に真っ直ぐ目線を固定し、物陰に隠れるでもなく力強く仁王立ちしていた。
「茅ヶ崎、何をしているんだ。逃げてくれ」
遮蔽物がなく目標まで距離がある状況では、私は守るものも守れない。それどころか情けないことに、一度膝をついてしまうとなかなか立ち上がれないほど、体力を消耗している状態なのだ。茅ヶ崎に逃げてもらうほかない。
それなのに、彼は肩越しにちらりとこちらを見やるだけで、身を隠す素振りも見せない。目線が動いたのも一瞬のことで、表情すら読めないまま、茅ヶ崎は再び前方に視線を戻してしまう。
ヴェルナーが窓枠から飛び降りた。五メートルはあろうかという高さをものともせず、軽やかに着地する。革靴の踵が絨毯を踏み打つくぐもった音が、じっくり時間をかけて近づいてくる。
私に顔を向けないまま、茅ヶ崎が低く問うた。
「先生……あれ、何ですか」
「あれ、というと」
「どうして"遺書"なんか、俺に託すなんて言ったんですか」
その問いかけに、思わず瞠目してしまう。中身を見たということは、この短時間でロックされた金庫を開けたというのか? 信じがたかったが、確かに私は、あの中に大切な人へ宛てた最期の手紙――それは遺書とも呼べるだろう――を何通か入れていた。
茅ヶ崎の問いかけの中には、噴出しないよう抑えた強い感情が如実に滲んでいる。それは怒気でもあり、悲しみでもあるだろう。己には生きろと言っておきながら、勝手に死を覚悟し受け入れた私への、膨れ上がる感情。
彼の激情も尤もだ。しかしながらあれは、遺書でありながら遺書ではない。自分の中ではそういう認識だった。
「すまない……本当に、あれを他人に見せるつもりはなかった。君が鍵を開ける前に絶対に戻るという……願掛けだったんだ」
「……本当に?」
「ああ。昨日、意思を固めるために書いているうちに、絶対に死ねないという内容になった。勝手な言い分だが、あれは遺書ではなく、決意書のつもりだったんだ」
「そうですか。俺は自分宛のを最初の方しか読んでないから。……」
茅ヶ崎の声がいくらか和らぐ。彼から怒りを向けられたのは、記憶にある限り初めてだった。私はどうしてだか、それが嬉しいような気さえ覚える。この少年の背中は、こんなに大きかっただろうかと、不思議と眩しく感じられた。
これまでと、何かが違っている。茅ヶ崎の背からそんな、曖昧だが明確な違和感が放たれている。
無論、先刻の言い訳が自分本意に過ぎることは理解しているし、茅ヶ崎だって完全には納得していないだろう。だからこそ私は、これから行動でその証明をしていく必要がある。そのためには、二人揃って現在の窮地を切り抜けることが必須条件だ。
不意に、二本の脚で豎立する少年がばっと両手を広げた。まるでヴェルナーの注目を、一身に集めようとするように。
「なああんた! 先生を殺したくないんだろ、だったら俺だけを撃てよ!」
「茅ヶ崎!」
自分の呼び声に、焦燥が混じる。
ヴェルナーが銃を握った腕を持ち上げていくのが、妙にスローモーションに見えた。
照準が茅ヶ崎に合ってしまう直前、ようやく立ち上がることができる。私は槍の柄側を相手に向け、腕も折れよとばかり、全力を振り絞ってそれを投擲した。ヴェルナーの腕が弾かれ、銃が玩具のようにくるくると回転しながら飛んでいく。腕に当たって数回転した槍が、音も高く床に突き刺さる。そのおよそ一秒後、銃がごつりと床材にぶつかる鈍い衝撃音がラウンジに響いた。
ヴェルナーはもう、得物を拾おうとはしなかった。私もこれ以上、道具を使うつもりはない。きっと、頭に浮かぶ考えは同じだ。結局我々は、同じ組織の同じ思想に浸って育った同胞なのだから。
思うように動かない体を叱咤しながら、ヴェルナーへと歩み寄っていく。静かな怒気を込め、相手を真っ向から睨む。