僕らと彼らのこと 暗殺計画(9/11)
* * * *
―茅ヶ崎龍介の話
桐原先生と別れてしばししょぼくれていた俺は、若干気を取り直して金庫と向かい合っていた。
先生が託したいものとは何だろう。暗証番号は俺に解けるのか。腕組みをして熟考するうちに、まずダイヤル式金庫の開け方を知らないことに気づく。
携帯で検索してみると、ダイヤルを左右に回し、決められた数字のところに止めていくと解錠できるらしいと分かった。先生は中身を入れる前に何やら作業をしていたから、おそらくデフォルトの番号ではなく、彼の意図した番号になっているはずだ。
肝心のダイヤルの数字は0から99まである。設定された数字を四種類と考えると、単純に百の四乗で組み合わせは一億通りあることになるが、数学教師である桐原先生が適当に数字を決めるわけがない。
もし俺なら、どうするだろう。大切なものを仕舞うとき、鍵の番号はどう決めるだろうか?
真っ先に閃いたのは、素数だ。一と自分自身の数字でしか割り切れない、長年数学者たちを悩ませ虜にしてきた、不思議な数字たち。
数学の研究者は、居酒屋などの靴入れを選ぶ際に素数が振られたものを選びがちだそうだが、俺も博物館などのロッカーは素数の番号を選びたい人間なので、とても気持ちが分かる。
百までの素数は覚えているので個数も把握している。ニ十五個だ。それを四乗するとなると……駄目だ、まだ四十万通り近くある。すべてを試していたら膨大な時間がかかってしまう。まだ、何か手がかりはないか?
部屋をぐるぐると歩き回るうち、素数を暗証番号として使う場合には、二つのパターンがあることに思い至る。すなわち、二桁の素数を四つ組み合わせるパターンと、すべての数字を連番にして――四つの数字の組み合わせなら八桁の――大きい素数になるパターンだ。
先生なら、後者の八桁の素数を用いる気がした。素数を四つ組み合わせても素数にならないのでは収まりが悪い。しかし、そこまで大きい桁の素数は膨大な数があり、その中からひとつを予想するのも、そもそも任意の八桁の整数が素数かどうか判断することさえ難しい。
「どうしたもんかな……」
がしがしと頭を掻きたくなる。時刻を確認すると、桐原先生と別れてからおよそニ十分が経過していた。
何かヒントはないかと、インスピレーションを 求めて携帯にキーワードを打ち込み検索してみる。大きい桁の数字でも、一瞬で素数判定ができるサイトが存在したのは僥倖だった。
数字、数字、と心の内で唱える。
そこで、目の前にぱっと光が瞬くような感覚があった。そうだ、誕生日はどうだろう?
先生の誕生日は確か、三月十四日。どこで聞いたのか忘れてしまったが、それが円周率πの日であり、俺の誕生日は分数にすると円周率の近似値になる七月ニ十二日なので、運命的なものを感じたからよく覚えている。お互い誕生日は偶数だから、月と日を並び替えてみたらどうだろう。つまり、彼と俺の誕生日を並べて、14032207のように表すのだ。素数になる可能性がある候補は14032207、22071403のふたつ。
このどちらかが素数なら、可能性は高いんじゃないか? さっそく素数判定機にかけてみようとするも、にわかに緊張してきて指が震え、なかなか数字が入力できない。
やっとの思いで打ち込み、意を決してボタンをタップすると、間髪入れずに結果が表示される。14032207は素数ではない。
この考えでは駄目なのか。唇を噛みながら次の候補を入力する。祈るような気持ちでボタンに触れた。
「おお……!」
思わず声が漏れる。22071403は、素数だ。
反射的に小さくガッツポーズしそうになったが、まだこれが正解と決まったわけじゃない。しかし何かに導かれているような、正しい道の感触を感じながらしっかり歩んでいるような、そんな不思議な感触があった。
逸る気持ちを抑えながら金庫の前に蹲り、シリンダーをリセットするためにダイヤルを五回ほど回転させる。ここからが勝負だ。右に四回捻りながら22で止め、次に左に三回捻りながら07で止める。また右にニ回捻りながら14で止め、最後に左に一回捻って03で止めた。
かちり、とわずかに軽い音がしたように聞こえたのは、果たして空耳だったのかどうか。キーを捻ると、今度こそ金属音を立てて金庫が解錠された。その音はささやかなのに、部屋全体に響いたように感じられた。
そうっと扉を開く。存外に滑らかに開いて、中にいくつかの封筒が入っているのが目に入る。
途端に、真水に濁った液体が拡散するように、嫌な予感が胸の内に広がる。封筒を取り出すと、宛名面に俺の名前が書かれたものもあった。
生唾を飲む。見ない方がいいかもしれないと思いながら、封を開けて中身の便箋を見てみる。素っ気ないほどシンプルな用紙に、やや角が目立つ律儀そうな佇まいの文字が書き連ねてあった。
「……これって」
文面の冒頭数行を読んで絶句してしまう。こんなところでのうのうとしてはいられない。居ても立ってもいられず、衝動的に部屋の扉に取りつく。
外側に何かでバリケードがされていたとしても力ずくで突破してやる。そんな俺の気合いとは裏腹に、ドアは呆気なく外側に開いた。
行かないと。桐原先生のところへ。
ホテルの建屋へ向けて、震えてもつれそうになる脚を叱咤しながら、倒けつ転びつ全速力で急ぐ。
* * * *
―桐原錦の話
エントランスホールで、娯楽室で、大浴場で、豪奢なステンドグラスの前で、私たちは命を賭けた一世一代の交戦を繰り返した。その間、やはりヴェルナーは一度も引鉄を引いていない。
ひりついた緊迫感を持っていたそのやり取りは、互いに負傷の数が増えるほど、洗練さを失っていった。骨へのダメージも打撲も裂傷も、流れ出る血さえも、致命傷以外は気にかけている余裕がない。もはや意地だけで身体の状態を保っているに等しく、端から見たら大がかりな喧嘩のように映るだろう。まさしく泥試合と言えた。
――だが、これでいい。
これでいいのだ。ヴェルナーと敵対すると決めた時、無傷で済むとはそもそも思っていなかった。私が抗おうとしたのはヴェルナーではなく、この理不尽な運命、そのものだ。
未来からやってきて否応なしに人間に襲いかかる、血も涙もない数々の宿運。すべては何者かの大いなる力によって、予め定まっているのかもしれない。それでも、何の罪もない少年を、運命が無慈悲にも飲み込もうとするなら、私は。
私は、泥にまみれ傷だらけになって、地面に這いつくばってでもそれに歯向かいたいと思う。そうでなければ、生きている甲斐が、ない。
大切な人たちのおかげで、ようやく命の使い方が分かったのだ。
ヴェルナーと相対しながら、左右も上下も視界が激しく入れ替わる。自分の周りを目まぐるしく見慣れぬ景色が通り過ぎていく。それはあたかも、私自身の人生そのものであるようだ。
戦いに身を投じている自分と、こうして思考している自分とが、ふっと乖離していくような不思議な感覚に襲われる。思えば、ひとところに留まったことがほとんどない人生だった。施設から養父に引き取られてからは、同級生の顔と名前を覚える頃に居住地が変わり、やがて帰る場所も父も失って、根無し草みたいに戦地を転々とした。その果てに深い喪失を経験し、茅ヶ崎龍介に会うことを唯一のよすがとして、八年間を無為にやり過ごしてきた。
その悪路のような道行きに同行してくれたのは、自身だけだ。自分独りだけがずっと、いつでも自分自身についてきて、傍らにいた。今までずっとそうだったから、これからもずっとそうなのだと思っていた。
最初から持たなかったもの、諦めていたもの、途中で失ったものなど数えきれない。故郷、両親、養父、家族、友人、戦友、上官、そして、恋人。
それら切れぎれの情景や出会った人の顔が浮かび、後ろへ飛びすさっていく。まるで人生を早送りして見ているように。まるで、これが今際の際に見る走馬灯であるかのように。
その幻視は、没入の裏返しでもあったろう。正直に言って私は、途方もなく不謹慎ながら――高揚していたのだ。
きっと、相手がヴェルナーだったから。
断言する。それは相手も同じはずだと。刹那のやり取りのあわいに、ヴェルナーの口元に限りなく愉快そうな笑みが浮いていたのを、私は見た。
この時間がいつまでも続けばいい。そうすれば永遠に、誰も死なずに済む。
しかしながら、無限に引き延ばされたような時間にも、無情に終わりは来る。意に反してがくりと折れた私の右膝を、ヴェルナーが見逃してくれるわけがなかった。
長期戦になれば、持久力に劣る者――ここでは体力が戻りきっていない私が不利となる。