僕らと彼らのこと 暗殺計画(7/11)
廃墟とは、時間の流れに取り残された場所だと、中に踏み入る前は思っていた。けれど、それは違った。
廊下の壁に何重にもされた落書き。跡形もなく割られた窓ガラス。厚く床に堆積した埃。澱んでじめじめとした黴臭い空気。汚らしく剥がれた天井や床材。ばらばらになった生き物の死体のようなシャンデリア。それらすべてが、取り戻しようのない時間が過ぎ去ったことを五感に語りかけてくる。
廃墟の本質とは、可視可された不可逆な時の流れ、なのかもしれない。
そんな風に考えつつ歩く俺の前を、顔の横にライトを掲げた桐原先生はずんずんと進んでいく。その足取りは、まるで以前もこの地に来たかのように淀みない。自分も彼の真似をして、渡されたライトで前方を照らしていた。照明など点くはずもない室内は全体的に薄暗く、暗闇が隅にしつこく居座っている部屋もある。物音は二人の歩く音だけのはずなのに、緊張感からか、反響した音が別の人間の足音にも聞こえた。
気を紛らわせようと、前にも来たことあるんですか、と先生に尋ねてみる。いや、と背中越しに答える声は落ち着いていた。
「それにしては、すごく慣れてるような気がするんですけど」
「ああ、下調べをしてきたからな。世の中には廃墟巡りが趣味で、写真と文章をブログにまとめている人がいるんだ」
「でもこういう……勝手に建物に入るのって、大丈夫なんですか、法律とか」
「大丈夫ではない。本来は違法行為だ」
「じゃあ……」
「それでも、捕まることはほとんどない。私と君は、これで共犯者だな」
やや冗談めかした調子で言う。
ホテル部分の裏口から一旦外に出ると、隣に簡素な造りの小さいマンションのような建物があった。それぞれの長方形の建物は山の中腹に並んでおり、一階部分は木々や蔦などが緑色に塗り潰している。マンションめいた建造物は、ホテルの従業員向けの住宅か何かだろうか。先生はそちらへ歩いていく。足元で草や歯や小枝がぱりぱりと音をたてる。
建物の状態はホテルよりも無残だった。壁という壁が剥落し、雨に濡れる場所のコンクリートは腐食し、ばらばらになり、住人が残したと思われるプラスチックの桶やら掃除用具やら玩具やらが散乱していた。こちらには廃墟マニアも寄りつかないようで、落書きも何もないのがいっそう寂しさを募らせる。
桐原先生は外階段を昇りながら、ひとつひとつの部屋のドアをがちゃがちゃいわせている。鍵が開いているところを探しているのか。声をかけて、俺も手分けして探すことにする。
同じデザインのドアをひたすら試すうち、妙な気分になってきた。永遠にこの時間が続くのではないか、ドアが開かないうちは追手もやってこないのではないか、という奇妙に間延びした気分に。時間の前後感覚が希釈されていく。そうだ、もしかしたらこれは夢なのかもしれない。本当の俺はまだ、休日の惰眠をベッドの上で貪っているのかもしれない。
しかし、とうとう何回めかの試行で、がちゃり、と一室のドアノブが回った。回ってしまった。
「先生。開きました」
他の階にいた彼が戻ってくる。開け放した戸口から先生がするりと身を滑りこませるのに続き、自分も閉ざされていた部屋へと踏み入った。
むっと黴の臭いが鼻腔を突く。中は家電などがなくがらんとしていた。靴を履いたままフローリングを進む。入ってすぐに玄関とキッチンがあり、右手に浴室への擦りガラスの扉がある。玄関からまっすぐ奥に向かうとリビング、というか茶の間があった。虫食いだらけでほつれているが畳敷きだ。床の間にぽつんと扉のあいた小さい金庫がある他は、住人の生活を感じるようなものは何一つない。きっと、ここが廃墟になる前から空き部屋だったのだろう。
桐原先生はそこにあった金庫を検めて、何やらパーツをバラしたり、きりきりとダイヤルを回している。そうしておもむろに立ち上がるなり、
「君とはここでお別れだ。内側から鍵をかけてここにいるように」
と指示をされて面食らう。反射的にえっ、と声が出た。
「お、お別れって」
「ああ……別行動ということだ。さすがに一緒にヴェルナーと相対するわけにはいかんからな。無事に戻ってきたらノックを五回打つ。そうしたら開けてくれ」
先生が帰ってくるとはつまり、ヴェルナーがこの世からいなくなっているということだ。
本当に? 現実感がまるでない。桐原先生はちゃんと戻ってくるだろうか。すぐに、会えるのだろうか。
なんだか、ここで行かせてはならないという気がした。
「待っ、あの」
「茅ヶ崎」
鷹のように鋭い目が、今は少し和らいでいる。その両目に、正面から見つめられた。
この人は、もっと大きくなかっただろうか、とふと心がざわつく。俺の背が伸びたのかもしれない。入院生活の影響がまだ残っているのかもしれない。
桐原先生は先ほど弄くっていた金庫を指差す。
「ここに君に託したいものが入っている。万が一……万が一、君がこれを開けるか、または一時間経っても私が戻ってこなかったら……どうにかして逃げてほしい。長谷川先生に連絡して場所は報せてある」
そんな。どうして、そんな言い遺すような話し方をするんだ。
いつも授業でチョークを持っていた手が、食卓で箸を握っていた手が、車のハンドルを颯爽と操っていた手が、俺の肩をぐっと掴む。痛いほどの力だった。
「無論、私は戻ってくるつもりだ。だが、必ずとは言えない。……茅ヶ崎、頼んだぞ」
真っ直ぐすぎる視線が、俺をその場に縫い留めた。
先生がこちらに背を向け、ドアから外へ出ていく光景が、スローモーションのように奇妙にゆっくり見えて。
俺は何も言えなかった。呼吸が浅く、速くなる。膝頭が震えて、その場に崩れるように膝と掌をついた。
桐原先生だって、俺の大切な人のひとりなのに。見慣れない汚れた床にぼたりと水滴が落ちる。自分はなんて、無力なのだろう。
* * * *
―桐原錦の話
茅ヶ崎と別れて、私はホテルの本体部分へ足早に戻った。ヴェルナーがここに辿り着くまでに、内部構造を頭に叩き込んでおく必要があるからだ。
籠城して相手を迎え撃つならば、建造物の構造を把握していればいるほど優位に立てる。場を掌握して、少しでも勝機を掴むために、息を潜めて潜伏する、などという愚は犯さない。
ホテルは湯水のごとく資金を注ぎ込んだと見えて、様式に節操も統一感もなく、異様に部屋数が多い。エントランスホール、だだっ広い大浴場、ビリヤード台などが打ち捨てられた娯楽室、ステンドグラスを擁したカフェの名残り、宴会場は和洋どちらもあった。
三次元構造を頭に叩き込みながら、同時にヴェルナーの戦術を予測する。私の性格と思考の癖を熟知しているヴェルナーの、思考パターンを逆にトレースするのだ。
奴の得物は銃だが、いわゆる狙撃手の性質とは大きく異なっていると言える。何せ彼の相棒は、ほとんど護身用のような拳銃だ。私の攻撃圏外から狙い澄ました一発を撃ってくるのは現実的ではないから、ほぼ確実に体術を組み合わせた格闘戦を挑んでくるはずだ。
それならば、勝算はある。
息が上がらないぎりぎりの塩梅でくまなくホテル中を捜索した直後、自動車のスキール音がわずかに耳に届いた。
「……来たか」
ちょうどそこに落ちていた、ひび割れたグラスを拾い上げる。酒は当然持っていないが、それでもいいだろう。目の高さに掲げてから、手にしたものを思い切り床に投げつけ、叩き割った。
行かなければ。私の大事なすべてのものを守るために。