僕らのこと 邂逅、秘密(3/3)
「え……っと、多分。ドリーとか、聞いたことある」
「そう。ドリーはクローン羊だな。クローン技術は何十年も前から研究されてるが、それを人間に応用する研究は現在禁止されている。倫理的な問題が解決できてないからね。クローン人間やヒトの遺伝子を改変することに関しては法的な整備がされていないし、そういう人間が存在しないのを前提でこの世界は成り立っている」
「……それで?」
ヴェルナーの赤い双眸が不穏な光を放った。
「"罪"では様々なテクノロジー開発が行われてる。クローン人間の研究もヒトの遺伝子改変も極秘裏に進められてるらしい。どころか、既に実用化に至っているって話もある」
「……!」
「そのことが明るみに出たら、世界はそれこそ混乱の渦に巻き込まれるだろうな。その他にも、世界的に凍結されてる研究を連中は進めている。だから、"罪"の存在を公にするわけにはいかないんだ。もちろん敵対してる俺たち影も同様に。正式名称がないのは、そういう理由」
ヴェルナーが獰猛な微笑みを浮かべる。
「光で照らせない闇は、もっと大きな影で覆い尽くすしかないのさ」
俺はしばらく圧倒されていた。ヴェルナーが言った"君の知らない世界"とは、こういうことだったのだ。
しかし、また新たな疑問が湧いてくる。秘匿されている組織の存在を、俺みたいなただの一般人が知ってしまっていいのだろうか。
「ちょっと待て。じゃあ、なんでそれを俺に話すんだよ」
「君はいずれ知ることになるからだ」
「……何だそれ」
尖った犬歯を覗かせた、不敵な笑みが返ってくる。含みのある言い方。俺は、自分がそういう婉曲な言い回しが嫌いであると、たった今気づく。
それにしても、と思う。そんな危険な連中に狙われるなんて、未来の自分は一体何をやらかすというのだろう。ヴェルナーの話はにわかには信じがたい内容ばかりだったが、桐原先生が黙して聞いている以上、信用しなくてはいけない気がするのだった。
「ま、そんなに心配することはねーよ。何もすぐに"罪"の連中が襲ってくるとは言ってない。今のところ、罪の人間が君に手を出す可能性は低い」
「……じゃあさっきの予見の話は何だったんだよ」
先刻の話を翻すような言葉に憮然として言うと、ヴェルナーが諭すような口調になる。
「あのな坊っちゃん。予見ってのは、百パーセント確実な未来を知れる能力じゃない。万能じゃねぇんだ。さっきも、ある確率って言っただろ。天気予報とおんなじで、未来になればなるほど精度は落ちる。君が将来、"罪"にとって脅威となる確率は、現時点では五分五分ってとこだ」
「……ふうん」
「だから今からそんなに怖がらなくてもいいんだぜ。何かあれば俺が守ってやるしな」
別に怖がってない、と言い返したかったが、面倒な事態を招きそうなので口を噤む。ヴェルナーは超然と椅子にふんぞり返っている。この男に自分の命を預ける、そっちの方が心配だった。
「つーか、さっきから護衛って言ってるけど、まさか学校にも着いてくんのか? それとも俺に外出するなって言うわける」
「案ずるな、お坊っちゃん。君は今までどおり普通に生活してていい。護衛っつっても、四六時中君のそばにいるわけじゃないしな。少し離れたところから、見張らせてもらうよ」
「離れたところって……そんなんで何かあったときに間に合うのか」
「心配御無用」
ヴェルナーは懐に手を差し入れる。そこからおもむろに出てきた、黒光りするもの見てぎょっとする。
拳銃だった。
喉がごくりと鳴る。
「不届き者はこいつでどかん、さ」
「……本物?」
思わずそう漏らす。ヴェルナーが馬鹿にするような笑い声をたてた。
「おいおい、割と面白いな君は。偽物持ち歩いてどうすんだ」
「……警察でもないのに、そんなもの持ってていいのかよ。ここは日本だぞ」
むっとして言い返すと、ヴェルナーは事も無げに大丈夫さ、と言った。
「影の人間が武器を携帯するのは、各国の警察とICPOによって認められた権利だ。ま、その事実を知るのは警察でもICPOでも一部の人間に限られるがね。さっき言い忘れたけど、俺たち影の人間は、"罪"の連中を殺しても罪に問われないことになってるんだ」
「え」
「言い換えれば、俺たち影は"罪"専門の殺し屋集団とも言える。……驚いたかい?」
ヴェルナーの顔をまじまじと見る。つまり、目の前にいるこの男は。
人を。
殺したことがあるのだ。
ぞっとする。目前に座る笑みを浮かべた男が、にわかに禍々しい存在に思えてきて、寒気を覚えた。
「ってことで、これからよろしくー。君に話したかったことは以上、終わり」
こちらの心情を知ってか知らずか、ヴェルナーが緊張感の欠片も無い声でそう締めくくった。
先生の家から退去する頃、時刻は午後九時になりかけていた。
頭の中では、今しがたヴェルナーから聞いた様々のことがぐるぐると渦巻いている。先生とヴェルナーが何言か交わしているのも耳に入らず、熱に浮かされているような感覚だった。
玄関で靴を履いているとき、傍らに立っていた桐原先生が、フローリングに立つヴェルナーに話しかけた。
「じゃあ、家まで送ってくる。せっかく来てもらったんだから、礼くらい言いたまえ」
「ん、ああ、わざわざどうもな」
ヴェルナーの挨拶はぞんざいだった。
「つーか、護衛するとか言ってたのに着いてこないんだ……」
「んー? ま、今日は大丈夫でしょ。明日から本気出すわ、もう眠いし」
俺の嫌味を吹き飛ばすような、ヴェルナーの大あくび。もし何かあったとき、この人は本当に助ける気があるのだろうかと、疑念を抱かざるを得ない態度だった。
先生がドアを押し開けようとした瞬間、不意にあ、とヴェルナーが思いついたように呟く。
「ちょっといいか、錦 」
先生が軽くため息を吐き、
「なんだ……すまん茅ヶ崎、先に行っててくれ。走って追いかけるから」
俺が部屋の前の通路に出たところで、ドアが音もなく閉じられた。
* * * *
「錦。お前の言うとおり、約束は果たしたぜ」
ドアを閉めた私の耳に届いたのは、氷のように凍てついた声音だった。ただの空気の震えに、頭を押さえつけられるほどの圧迫感を感じる。
振り返って見ると、ヴェルの口元は笑みの形になっていたものの、眼は全く笑っていなかった。獲物を狙う狼めいた鋭い眼光に、身が少々震える。
「今度はお前が約束を守る番だぜ、"黒獅子"」
「分かっている」
ヴェルを睨み返しながら、私は答えた。
* * * *
空の高い所で白い月が煌々と輝いている。先生が運転するセダンの助手席で、俺はぼうっと窓の外を眺めていた。
自分の命が狙われるかもしれない。それは未だに現実味の薄い話だ。ただ眼裏に焼き付いたヴェルナーの拳銃、その荒々しい銃口が、これは現実だと突きつけてくるようだった。
道路に溢れる様々な色の車のライト。
この道を走る人々は、"罪"のことも影のことも予見士のことも、誰一人として知るものはないのだ。ヴェルナーの話を聞く前の自分も、そのうちの一人だった。
何とも言い表せない、不思議な心地。桐原先生の家の敷居を跨ぐ前の自分と、ヴェルナーから話を聞かされた後の今の自分とが、同じ人間でないように思われる。
「遅くなってすまないな。親御さんによく謝っておいてくれ」
交通量の少ない細い道に差しかかったところで、先生が口を開いた。それを契機として、視線を窓の外から進行方向へと移す。
「いや、そのことは別に……。ただ色んな話をいっぺんに聞いて、少し疲れました」
「悪いな。あいつはお調子者だし能天気だし無神経だが、心の底から悪い奴ではないはずだ……多分な。腕も確かだし、よろしく頼む」
「それは、まあ……あの、ひとつ訊いていいですか」
「ん?」
それは、どこかからふっと降りてきた疑問だった。
「先生はどうして、あの人と知り合いなんですか」
前方の信号が黄色から赤に変わる。先生が静かにブレーキを踏む。体が少し前につんのめる感じがあって、車体が止まった。エンジンが自動停止する。
静寂。
「私はな」
ややあって、先生が言葉を発した。
横を見ると、怖いくらい真っ直ぐな目で、前を見つめる先生がいた。
「あの男が所属している組織に、身を置いていたことがある」
ぽつり、と漏らすような声だった。




