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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
118/137

僕らと彼らのこと 暗殺計画(5/11)

 嘘だ、とわめいてしまいたかった。全てを否定的して、理性を失ってしまいたかった。徐々に状況を理解し始めた体が小刻みに震えだす。あの赤い目が敵意に満ちて、こちらを冷たく見据える様が目の前にちらつく。


「私が以前、ヴェルについて話したことを覚えているかね」


 桐原先生は静かに、否、無理に感情を抑えた調子で問うてくる。


「あいつは私と違って、命令されれば誰にでも銃口を向ける。そのようなことを言ったことを」


 ――私に銃口を向けることすら厭わないだろう。

 記憶の中の先生の声が再生される。覚えていた。ぶるり、と全身が震える。


言霊ことだまというものがあるのなら、私は今猛烈に後悔しているよ」

「それは」


 先生の責任じゃ絶対ないですよ、と言いたかったのに、口の中がからからに乾いてうまく言葉にならなかった。

 感情も、思考も、ついていかない。状況という濁流に呑まれる俺に、桐原先生の言葉がさらなる追い打ちをかけてくる。


「ヴェルには何も言わずに出てきたが、おそらくあいつはそのうち我々を追いかけてくるはずだ。見つかってどうにもならなくなったら、私は君を守るためにヴェルと戦う。私たちが死ぬか、あいつが死ぬか、ふたつにひとつだ」


 極限の選択肢に絶句する。

 それまでの日常が終わったことを、ヴェルナーと会った夜に、俺は理解したはずだった。あるいは俺の日常なんて、幼い頃に誘拐された日に終わっていたのかもしれないが。いずれにしても、俺の覚悟は全然足りていなかった。何もかもが起こりうると、俺の想定を遥かに超えた事態に見舞われるかもしれないのだと、正しく認識できていなかったのだ。

「つまりこれは逃避行というわけだ」とぽつりと漏らされた桐原先生の言葉は、場を緩ませるための冗談なのか、独り言だったのか。しかしその響きはどこまでも張り詰めている。


「……全然ロマンチックじゃないですね」

「まったくだ」


 なんとか絞り出した言葉に、先生はぴくりとも表情を動かさずに頷く。

 その時不意に理解した。彼でさえ、冗談めいたことを口に出さねば、参ってしまいそうなほどの状況なのだと。



 車は海沿いの国道を南下していく。水平線の彼方まで広がる海は、曇天の下で濁った泥水みたいな色に見える。土曜日の朝方は両車線とも空いていた。


「そういえば、どこに向かうかは決まってるんですか。あ、空港から外国に逃げるとか?」

「いや、それはできないな」先生は今日初めて、口の端でわずかに笑った。「国外の方が、話の通じない影の奴らがたくさんいる。ヴェルナーの方がまだマシだ。一応、目指している場所はある」

「じゃあ、そもそも逃げるんじゃなくて、どこかに匿ってもらうわけにはいかないんですか。警察とか」

「警察? 彼らは何もしてはくれんよ。いつだって影の味方だからな」

「……そうですか」

「つまり、我々は世界の誰にも頼れず、国家権力をも敵に回しているということだ。恐ろしいことに」


 その顔はもう真顔に戻っている。座っているのに、立ち眩みのように視界がぐらぐら揺れた。先生と俺の二人だけで、世界を相手に逃げ惑っているなんて。

 名前も忘れたたくさんの歌手が、記憶の中で歌っている。世界が敵になっても、僕だけは君を守る。そのような意味の歌詞を。

 ありがちな歌の状況が現実に身に降りかかるなんて、想像できる人がどれだけいるだろう? 実際身を置いてみて分かる。そこに詩情のかけらもへったくれもないってことが。

 桐原先生が隣にいてくれなかったら、俺はとっくに駄目になっていたかもしれない。どころか、もうヴェルナーに撃たれて死んでいたかもしれないのだ。


「あの……どうして、そこまでしてくれるんですか」

「うん?」


 ぼそりと呟いた疑問を、運転中の先生は聞き漏らさないでくれた。

 自分の身も危険に晒してまで、俺を守ろうとしてくれる理由。それが気にかかったのだ。


「ありがたいことですけど、何も命を賭けて俺を守ろうとしなくたって……。死ぬ、かもしれないんですよ」

「理解している。その上で君と共にいるんだ」

「それが、どうしてなんですか」

「私が情や憐れみでこんなことをしていると思うかね」


 相手の口調がそれまでになく強く、はっきりしたものになる。はっとして精悍な横顔を見つめた。彫りの深い顔は努めて冷静を保っているようだったけれど、今まで見たことのない激情が滲み出ているのが俺には分かった。


「そんなものじゃない。私は怒っているんだよ。影に対して、震えるほど腹が立っている。大声でふざけるな、と叫びたいくらい憤っている。今の私の行動原理は、怒りだ。結局は自分の気持ちに従っているわけで、言わば、これは私のエゴなんだよ」

「それは」


 そんなものをエゴと言ってしまっていいのだろうか。そんな、純粋な義憤の発露を。

 ありがたくて、こんな状況なのに嬉しくて、俺は少し泣きそうになった。そして、


「何が影だ。たかが運命に、唯々諾々と従ってたまるか」


 低く呟かれた反抗的な言葉が、俺の中に巣くっていた諦念を底の方へ押しやっていく。彼はこんなに強い意思をあらわにする人だったろうか。エネルギーの籠った声が俺の中の深いところに刺さり、心の大切なところに火を点けたように感じた。


「茅ヶ崎。君ももっと、わがままになっていいんだ」


 こちらに訴えかける先生の声が、切々と胸に迫ってくる。


「君はさっき、何も守ろうとしなくたって、と言っただろう。なぜそんなに聞き分けがいい? もっと感情的になってもいいんだ。感情を曝け出して、取り乱してもいいんだよ。――他人のことなんて今は考えなくていい。私は、君に生きることだけ考えてほしい」

「先生……」

「茅ヶ崎。手を伸ばしてくれ。そうしたら、私は君の手を取ることができる。……君は、死にたくないだろう?」


 前方の信号が変わり、車体が緩やかに前のめる。自分と桐原先生の視線がかち合った。睨むほどに強くぶれのない双眸は、きっと俺の写し鏡でもあるのだろう。

 手を伸ばせ、というのが物理的な意味でないことくらい、俺にも分かった。相手の感情がストレートに突き刺さってきて、腹の底から揺さぶられる。全身を巡る血が沸き、ふつふつと熱い感情が湧いてきた。

 俺はどうしたい。次々に身の回りの人の顔が、俺に笑いかけている皆の顔が、目の前に浮かんでくる。両親。輝。九条先輩。太田。太田の兄たち。クラスメイト。この時ばかりは速見千雪の顔が思い浮かんでも憎たらしいとは思わなかった。これだけ距離が離れれば、千尋とて手出しできないような予感があったからだ。

 そして、未咲。

 彼女とつい昨日、約束した。明日、未咲の家へ行って、彼女と話をすると。

 約束を守りたい。こんなところで、自分の人生を終えたくない。こんなところで、死んでたまるか。


「死にたくなんか、ありません。力を貸して下さい」


 おなかにぐっと力を溜めて宣言する。桐原先生は俺の思いを受け止めるように、よし、と重く深く頷く。唇に優しい笑みが浮かび上がるのが、とても頼もしく見えた。


「腹が決まれば体の準備もせねばならんな。朝、何か食べてきたか?」

「……少しだけ」

「そうか」


 青信号を確認するや否や、車は交差点の対岸にあるコンビニの駐車場へ、するりと吸い込まれていった。



 ほんの数十分前は吐きそうなほど体調が悪かったけれど、桐原先生と話した今、それなりに食欲は戻ってきていた。

 先生は惣菜パンと温かいカフェオレを買い、俺はピザまんを彼に買ってもらって車に戻る。先生に言われて座る場所を助手席から後部座席に変えた。走行音で意思疎通が難しくなるが、何か意図があるのだろう。先生はピザまんに苦い思い出でもあるのか、チーズが糸引くそれをはふはふと食べる俺を、どこか渋い顔でヘッドレスト越しに見やっていた。

 車は最寄りのインターチェンジから高速道路に乗り、さらに南へ向かう。右手にはずっと日本海があり、雲が多い空の下、冬の荒海の片鱗を見せ始めていた。

 トンネルと寂れた集落が交互に現れるのを車窓から何度か眺めて、一時間ほど経っただろうか。

 桐原先生がルームミラーにちらりと目をやり、「……来たな」と低く呟いた。

 やにわに空気がぴりっと緊張する。後部座席で身を屈めていると、先生に「後ろを確認してくれないか。慎重にな」と促され、そろりと座席から顔の半分だけを出す。

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