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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
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僕らと彼らのこと 暗殺計画(4/11)

 出口のない暗いトンネルをあてどもなく彷徨さまよっている。その日はそのような閉塞感と焦燥にうなされ、ほとんど寝た気がしなかった。

 翌朝、朝食の時間には既にヴェルナーの姿はなく、ハンス君と二人で黙々と料理を食べ進める。金髪の青年はこちらを気遣わしげな、それでいて探るような視線を送ってきていた。支援部所属の彼にはおそらく指令は行っていないが、雰囲気で何かしら察するところがあるのだろう。

 いずれにせよ、ヴェルナーが行動を起こす前に彼に全容を話す時が来る。ヴェルナーの部下であるハンス君は上司側につくのがほぼ確実だから、私はどのみち彼とも敵対せねばならなくなるだろう。あまりに気が重かった。事情をハンス君に説明してヴェルナーの翻意を促す――という選択肢も論理的にはないでもないが、成功率は限りなくゼロに近いと言える。

 そこまで考えて、もう一人身近に影の執行部員がいることに思い至った。シャーロット・エディントン。彼女は計画を知っているのだろうか? シャーロットが何も知らないことを私は祈った。かつて私の前で少女のように怯えていた彼女の手が、教え子の血で汚れるところなど絶対に見たくない。

 泥沼のような思考に沈む私に、物分かりのいい金髪の青年は何も尋ねてはこなかった。ほぼ無言のままに私は家を出、学校への道を辿りながら考える。

 私はどうすべきなのか。

 答えはひとつだ。ヴェルナーにあんな発言をした以上、指針など一点に定まっている。分かりきっているのに悩むのは、無意識下で結論を先送りにしているからだ。その情動はひとえに、自分の心の弱さに起因している。

 こんな身体及び心理状態で、授業に集中できる道理はない。八年間教師として勤めてきて、私は初めて授業中にミスをした。


「先生、問二の右辺って二乗じゃなくて三乗じゃないですか?」


 チョークを掲げた格好のまま、生徒からの声で我に返る。今、私は何を考えていた?

 指摘のとおり誤っていた式を書き直す。そんな私を、生徒たちは皆責めるでもなく心配そうな表情で見つめてくる。その中には先刻までぼんやり外を眺めていた茅ヶ崎も含まれていて、ぐっと喉のあたりが詰まるのが分かった。

 ヴェルナーに啖呵を切っておきながらこの体たらくは何だ。情けない。みっともない。私は教師としての職務すら全うできていない。

 放課後までに、堂々巡りしていた迷いにケリをつけ、決心を固める。そもそも退路など用意されてはいないのだ。

 自分にきつく言い聞かせる。成すべきことなど、最初から決まっているだろう?


 * * * *

―茅ヶ崎龍介の話


 携帯電話が聞き慣れないメロディーを奏でた。

 画面を確認すると、表示されたのは桐原先生からのメール。彼からのメールなんて初めてのことだ。

 なんだか胸騒ぎがした。時刻は午後八時過ぎ。ちょうど自分の部屋に引っ込んだところだったので、無題のメールを開封して中身を確認する。

 文面は素っ気なかった。


「明日、朝七時に家に迎えに行く

 貴重品をまとめておいてほしい」


 唐突で不可解な文章の下に、内容を確認したら返信が欲しい旨が続けられている。

 思わず首を捻ってしまう。これは一体どういうことだ。先生と約束なんてしていないはずだし、俺が忘れているだけだとして、土曜日にこんな時間に家に来る用事が思いつかない。迎えとは何だ。俺はどこに行くんだ?

 鳩尾みぞおちのあたりがざわざわする。今日の先生はずっと心ここにあらずといった雰囲気で、切羽詰まったような、噴出しそうな焦りを押し殺した顔をしていた。その様子を思い返したら詮索する気にはなれず、というか、何かしら訊けば取り返しのつかない重大な言葉が返ってくる予感がして、ただ「分かりました」と送信することしかできなかった。



 翌朝、約束の二十分ほど前に起きる。まだ外は薄暗く、ぼんやりした頭はガス欠したように動きがのろい。空気の冷え込みを感じながら可能な限り手早く着替え、昨日のうちに荷物を入れたボディバッグを身に付ければ、もう準備は終わりだった。

 親には昨日、学校の用事で担任の先生が家に迎えに来る、とだけ説明していた。二人とももっと事情を聞きたそうな顔つきだったが、朝早いから早めに寝たいと伝えると口を噤んだ。

 両親ともまだ眠っているのか、一階には降りてきていなかった。おなかは空いているが、この先を思うと食欲は湧かない。食パンを焼かずにもそもそ咀嚼するだけで朝食とし、耳を澄ませて家の前に車のエンジン音が滑り込むのを聞く。

 スニーカーの紐はいつもよりきつめに結んだ。玄関のドアを開ける前に、なんとなく振り返って室内を数秒眺める。その光景はどこかよそよそしく、透明な壁を隔てた向こうにあるように見えた。もしかしたら俺はもうここに帰ってこないのかもしれない。そんな不可思議な思いにとらわれる。

 外では桐原先生が車の助手席の傍らに立ち、俺を待っていた。片手を上げる彼の表情は硬く、笑みはない。黒いシャツに黒いニットを重ねて、ボトムスはブラックデニムという出で立ち。彼のイメージは黒だけれど、ここまで黒ずくめの桐原先生を見るのは初めてだ。

 時間が妙に引き伸ばされたみたいな、変な感覚を覚えながら、彼のそばまで歩み寄る。「突然すまないな」「いえ」と短く言葉を交わして、彼が開けてくれたドアをくぐって車内に滑り込んだ。

 自分のうちの車とは違う、柑橘系の香りがほのかに混じった空気に包まれる。爽やかなそれに反し、緊張を孕んだ雰囲気は質量を感じるほどに重苦しかった。

 シートベルトを締める間に、先生が口を開く。


「親御さんにはどれくらい話してきた?」

「学校の用事で、ってくらいです」

「そうか。……出発するぞ」


 どこへ行くのか、何のためか、そもそもこの状況は何なのか、何も分からないままに車体が震え、すうっと体が前方へ動き出す。心だけを出発地点に取り残していくように。

 あの、昨日のメールって、と仔細を訊こうとすると、相手はこちらを見ずに手で制してきた。


「訊きたいことはたくさんあると思う。……私は口が上手くないし、どう説明するのが適切なのか分からないんだが――」


 彼が歯切れ悪くなるのは言いにくいことがあるからだ。出会ってからの半年でそれくらいは俺にも分かるようになっていた。桐原先生は「いや、この期に及んでうだうだ言っていられないな」と呟いてから深く息を吐く。

 赤信号で停車した車内で、彼の目が真っ直ぐ俺を捉える。


「これを言わないと何も話ができないからストレートに言う。君に暗殺命令が出ている」

「え……」


 暗殺、命令。俺を殺せという命令。つまり、予見が今現実問題となって、この車は"罪"の連中に追われているということなのか。

 ルカと邂逅した日のことが、恐怖を伴って鮮明に思い出される。


「それって、俺を"(ペッカートゥム)"が狙ってるってことですか」

「いや……そういうことではない」


 先生の表情には少し疲れが滲んでいて、まるで俺の言葉のとおりであったら良かった、と語るような渋いものだ。

 そして、俺は決定的な言葉を聞くことになる。


「命令を下したのは……影の上層部だ。ヴェルナーと私が、一昨日その指令を受け取った。……君を、今日中に殺せと言われている」


 驚愕してそこにある顔を凝視する。

 影が、殺せと。影は、桐原先生は、ヴェルナーは、俺を守ってくれるんじゃなかったのか? ルカから俺を守ってくれたのもあの軽薄な赤毛の男だ。もしかして、今から向かう先にヴェルナーもいて――。頭が疑問でいっぱいになって、呼吸を忘れた喉が空気を求めて喘ぐ。

 信号が青に変わる。先生は視線を前方に戻す。


「どうして、なんですか」

「文化祭で"罪"の襲撃を受けただろう。次同じようなことが起これば、一般人に被害が出ないとも限らない。だから脅威の芽は育つ前に摘み取っておく。そういう方針なんだよ、影は。考え方は"罪"と変わらない。一を切り捨てて十を助ける。外道のやることだ」


 吐き捨てるような物言いは、多分に怒気を含んでいた。そのことに違和感を覚える。


「じゃあ、先生は……」

「私は君をどうこうするつもりはない。当然だ。私は君の身の安全を確保するためにここにいる」


 きっぱりとした否定に、やっと浅く息を吸う。けれど、私"は"ということは、もしかして。

 俺の考えを呼んだかのように、桐原先生が硬い声音で続ける。


「ただ、ヴェルは上からの命令に従うつもりらしい。奴とはもう決別してきた。今は、あいつとは敵同士だ」

「そんな……だってヴェルさん、あんなに親しげに話しかけたりしてくれたのに……」

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