僕らと彼らのこと 暗殺計画(2/11)
「で、誰?」
「ほら、篠村さんの……」
九条が囁くと他称ジンはああ、と訳知り顔で得心する。それから何秒か、じろじろ見られた。とても決まり悪い。そして。
「ふーん。頼りなさそう」
「おい、失礼だろ。初対面なのに」
初対面じゃなくても面と向かって頼りなさそうはどうかと思うが、実際言葉どおりなので口をつぐむしかない。
九条はばつが悪そうな顔で微笑した。
「ごめんな、茅ヶ崎くん、邪魔しちゃって。それじゃ、一言お礼を言いたかっただけだから」
「あ、はい。あの、お礼って――」
何のですか、と訊く前に、ジンとやらが先輩の肩を抱き、くるりと方向転換させてしまう。
「九条ー、今日は早めに部活終わらせるぞお。楽しい楽しい合コンが俺たちを待っている」
「おおっぴらに職権濫用するなよ。それに合コンって……ファミレスでメシ食うだけだろ」
「男女同数で食事したらどこでだって合コンになんだよ」
会話は丸聞こえで、そうなのかなあ? と苦笑する九条は困りながらも楽しそうだった。彼はメシ食う、なんて言い方をするのか。新鮮で、なおかつ輝いて見えた。俺があんな風に心底から笑ったのはいつが最後だったろう。
俺に感謝の言葉を伝えてきた先輩が、今は無性に羨ましく思われた。
放課後。俺と千雪のほかに誰もいなくなった教室に、晩秋の寂しげな夕陽が入りこむ。
俺は言われたとおり、クラスに残って自分の席に座っていた。何もかもがオレンジがかった教室を、長い髪をゆらめかせてゆっくりと歩き回る千雪はどこか人外めいている。逢魔が時とはよく言ったものだ。
「能力がある人間は、それを生かすべきである。この命題は真か、偽か」
「無理に命題とか言わなくていいんだよ」
不機嫌を隠さずに言い返す。ぐるぐると俺の周囲を回り続ける千雪に既に辟易し始めていた。
放課後残れと言われて何の用かと思えば、先日の喫茶店を彷彿とさせるご高説が始まった。そんなのいいから、早く帰って気を休めたい。おそらく家でも千尋の監視下なのだろうが、実際に千雪と顔を合わせているよりは百倍マシだ。
「ノリが悪いなあ、茅ヶ崎くんは。……私は最大限に生かしてるよ。人のために、自分の能力を」
歌うような言い分は、彼女の背後に何者かの存在を匂わせていた。千雪はきっと、何者かの指示に従って俺と接触している。それは間違いない。だからといって、何か対策ができるわけでもない。
千雪の遊歩は続く。
「一方で茅ヶ崎くんはどう? 能力はあるのに、それを全然生かしていない。生かそうともしていない。それって損失なんじゃないかな」
「は……? 損失?」
「そう、損失。君にとっても、世界にとっても」
「世界って……スケールがでかすぎるだろ」
話が胡乱な方向に転がっている気配がした。顔をしかめる俺を一顧だにせず、千雪の弁舌はいや増して滑らかになる。
「そんなことないよ。所詮人間世界や社会なんて、個人がより集まってでき上がってるものでしょう。個人が能力を発揮しただけで、世界全体の潮流や趨勢が変わっても全然不思議じゃない。バタフライ・エフェクトの例えもある」
「……荒唐無稽だ」
「そうかな? 一人の人間が世界を変えることは歴史上、往々にしてあった。アインシュタインが存在したこの世界と、彼が存在しなかった世界はまるきり様相が違うはず。アインシュタインをエジソンや、ベートーヴェンと言い換えてもいい。もしかしたら君だって、それくらいのポテンシャルを秘めているかも」
「適当なことを言うな」
「どうして? 分からないじゃない。君の能力の全貌が見えない限り、どんな可能性だって存在する。磨く努力をしなければ、茅ヶ崎くんはいつまでも原石のままだと思うけどね」
「……結局、何が言いたいんだよ? 意見を言うなら結論から言え」
「結論もなにも、私は茅ヶ崎くんと楽しいお喋りがしたいだけだよ。世間話に結論なんてないでしょう? そんなに喧嘩腰にならなくたって、とって食べたりしないって」
千雪は悪戯っぽくほほえむが、これが世間話のはずがなかった。まるで掌からぬるぬると抜け出る鰻を相手にするようだ。真意を聞き出そうと追いこんだつもりでも、するりと器用にかわされてしまう。こいつと会話するときに、ペースに飲まれずにいられた試しがない。
千雪は不意に立ち止まって、こくりと可憐に小首を傾げる。
「でもそうだなあ。そんなに君が頑ななら、話題を変えようか?」
ぜひそうしてくれ。肩の力を抜いて若干息を吐いたのも束の間、千雪がぐんぐん歩み寄ってきて、整った顔がずいと近づけられた。
正体不明の美少女は脈絡をぶったぎって言う。
「未咲さんのことが好き?」
なぜ急に、未咲の名前が。自分でもびっくりするくらい動揺した。速見兄妹がこの地へ来てから、未咲とはほとんどまともに話せていない。それでもお見通しということなのか。
揺さぶられて木の実を落とす樹木のように、本人にさえ伝えたことのない本音が、ほろりと口を突いて出る。
「好き、だと思う。……たぶん」
そっか、という千雪の短い相槌の言葉尻を、ドアのスライド音が奪う。はっとして振り返る俺の視線と、何も気づかずに入ってこようとする未咲の視線がかち合った。
一瞬が引き伸ばされて、色々な思いが交錯したかのように感じられた。未咲は教室に俺たち二人しかいないのを見て取ると、焦ったようにくるりと体を反転させる。俺は鞄をひっ掴んでから、じろりと千雪を振り返り見た。もう話は済んだのかと目線で問う。どうぞ、という風に片手が差し出される。
俺の一連の行動は、おそらく今までの人生で一番素早かった。
さすが陸上短距離のエースというべきか、未咲は既に廊下のだいぶ先を行っている。辺りに人影はなく、全力疾走しながら思い切り声を張り上げた。
「未咲! 待て、待ってくれ!」
瞬間、ためらったように先行く体が揺れる。スカートがふわりと広がって、未咲の横顔が覗いた。鞄をかなぐり捨て、無我夢中で彼女に肉薄する。掌が面に当たった痛みで、我に返る。
未咲が腕の中にいた。突き当たりのドアに背中を預け、至近距離から俺を見上げている。彼女の逃げ道を、俺の両腕が塞ぐ格好になっていた。
もしかしなくてもこれはいわゆる、壁ドンというやつなのでは。
人生初の大それた行為に頓着する余裕もなく、ほとんど口に任せるように言葉を継いでいく。
「未咲……今週末、時間をくれ。お前と話がしたい。できれば、お前の家で」
未咲の唇が二、三度、震えるように動く。か細い声が絞り出される。
「……土曜は、夕方まで部活だから」
「じゃあ、日曜日。お前の家に行く」
自分の声は自身で驚くほど切羽詰まっていた。実際、一世一代の正念場くらいの心積りだった。頼む。うんと言ってくれ。
返事を待つ時間が永遠に思われた。気が逸る。祈りにも似た気持ちが胸に生じる。
未咲は唖然としていたが、結局は毒気が抜かれたような顔で、こくりと頷いてくれた。
「龍ちゃん、顔色が悪いみたいだけど、大丈夫? 何かあった?」
母親の気遣わしげな声ではっとする。夕飯を食べている最中に、考え事に耽ってしまっていたらしい。心に浮かんでいたのは未咲の顔であり、速見兄妹の存在であり、その他もやもやしたあれこれであった。
テーブルの上には栄養のバランスが取れた色とりどりの料理が並んでいる。今夜のメニューは中華で揃えられていた。あまりにも健全で、灰色に塗り潰されたような俺の思考には眩しすぎる。
茶碗と箸を持ったまま母親と父親の顔を見やる。二人とも、心配を表情に滲ませて俺を見つめていた。何かあった、か。それをここでぶちまけてしまえたらどんなに楽だろう。助けてと言えたらどんなにいいだろう。
平静を装いながら、ふるふると首を横に振る。
「……いや、別に」
「そう? 何かあったら遠慮なく言ってね」
「龍介、何か困り事があったら相談するんだぞ。お父さんでも、お母さんでもいいから」
「うん……分かってる」
分かっていても、どうにもならないことだってある。