どこかのこと ヴァイオリンとピアノⅡ(3/3)
「何が可笑しい」
「可笑しいよ。だって人間なんて、みんなクズでしょう?」
「は……?」
口元を押さえたディヴィーネはにこやかに、しかし空虚な目をして、当然のことのようにそう言い切る。
彼は立ちあがり、その場でひらりと一回転してみせた。身につけた布地の多い服の裾がひらめく。
「ぼくがクズなら、君もクズだよ。この組織にいる時点で、ぼくらは同類でしょう。そう思わない? 君だってさっき言ってたじゃない、恩師も家族も裏切ったことを後悔していないって。テロリズムのために公にできない研究をしている君に、ぼくを詰る権利なんてあるかな?」
"罪"のボスの言葉は、静かに満ちてくる潮のようだった。それらはかすかに潮騒をたてながら、いつの間にかこちらの心にひたひたと浸透してくる。それらを跳ね除け押し返すには、やはり言葉を使うしかない。
マシューはやっと半身を起こして、ボスの顔を真っ向から睨む。
「確かに俺は褒められた人間じゃないがな、今の研究を続けてるのはお前や、テロリズムに協力するためじゃない。自分の目的は研究のための研究なんだよ。俺はこの組織をむしろ利用して、踏み台にしてる。それに、俺が決めたのは自分の進む道だけだ。お前みたいに、薄汚いやり方で他人の人生を歪ませる人間と一緒にするな」
「目的がどうあれ、それがテロに使われるのなら、君の気持ちなんて砂漠の砂の一粒みたいに、あってないようなものじゃないかな?」
ディヴィーネは口元を笑ませながら小首を傾げる。確かに、彼の言うとおりかもしれない。しかしそもそも、マシューがここに来たのは先代の首領が健在だった頃で、自分はディヴィーネやルカより古株なのだ。先代には特別気にかけてもらった恩があるが、マシューにしてみればディヴィーネなど、後からやって来て研究の方針を指図してくる鬱陶しい存在でしかなかった。
それに、先代が"パシフィスの火"のさなかで命を散らすことになったのには、ディヴィーネが一枚噛んでいるのではないか。マシューは密かにそう考えていた。
ディヴィーネの青緑の視線と、マシューの緑色の視線が交錯する。その間ルカは、主のやや後方に従者のように控えていた。
「それにさ。こんな組織の中で正義感を振りかざすことに、何の意味があるの? ぼくには分からないな」
「正義感?」思わずはっ、と鼻で笑ってしまう。「俺はそんな高尚なもの持ち合わせてなんかないさ。ただ気に入らないだけだ。ムカつくんだよ、お前のやり方は。反吐が出る」
まだ体に残る痛みを押して、にやりと笑ってみせる。完全な虚勢ではあったけれど、意図的に汚い語句を使い、無理やりにでも笑うことで、自分の気が大きくなるように思えた。
相手がふっと視線を外し、肩を小さく竦める。
「"罪"の中で、ぼくに噛みついてくるのは君だけだよ。その点では褒めてあげたいくらい。でも、不思議だな。ルカが怒るならともかく、どうして君が怒るの?」
「……それは」
もっともな疑問だ。マシュー自身、他人のためにこれほど怒りがこみ上げてくるとは思っていなかった。それはおそらく、ルカと言葉を交わして、演奏も共にして、人間性の一端を知って。彼に搾取されていてほしくない、彼の意思で彼自身の人生を歩んでいてほしい、そう思うからだ。そしてそんな気持ちになる理由は、きっと。
「ルカは――俺の友達だからだ」
主の後ろに控えているルカが、わずかに目を見開く。
ディヴィーネも珍しく面食らったらしく、一瞬だけ顔から表情が抜け落ちた。
「友達が不当な扱いを受けてたら……怒るのも当然だろ? 正義感とかじゃない、これは俺の個人的な感情だ。ああでも、あんたにゃ分からないかな。友達いそうにないもんな」
挑発を舌に乗せ、ボスの顔色をうかがう。ディヴィーネは既に取り戻した無情な笑みを深くして、マシューではなくルカに向き直った。
「へえ、そうなんだ? お友達ができて良かったね、ルカ?」
柔らかい言葉と口調に反し、その声色は北極圏の氷のごとく冷たく凍てついている。ディヴィーネの細い指先が、高いところにある頬をつうっと撫でた。
「……っ」ルカは戦いたように、表情筋と全身をびくりとこわばらせる。
二人の様子を見て、マシューはひやりとする。ディヴィーネは明らかにひどく憤っていた。彼の怒りが自分に向いているうちはいい。しかしその矛先がルカに向くとなると、彼を友達と表現したのは失言だったかもしれない。けれど先ほどの心情では、どうしたって言わずにいられなかった。
「……私には、友人はおりません」
ルカは硬い声音で否定する。そして、尻餅をついたままの格好のマシューを見下ろし、互いの視線が絡んだ。
「あなたと二人で会うことは、この先ありません」
ルカがきっぱりと言い切る。そう主の前で宣言することで、彼なりのけじめとするつもりなのかもしれない。
ディヴィーネは満足したように頷くと、再びマシューの傍らにしゃがみこむ。
「君って変わってるよね。殺されかけたのに、その相手を友達だなんて言うなんて。実は相当なお人好しなのかな? そんなんじゃ、この組織では生きていけないよ?」
ディヴィーネが手を伸ばし、マシューの黒いリング状のピアスを弄ぶ。その行為は、言外に"服従しなければ手酷い仕打ちがあるぞ"とほのめかしていた。
"罪"の人間が皆着けているピアスは、見た目こそ違えど機能は同じ。犬のマズルに嵌められた口輪のようなものだから。
マシューの上司であるはずの男は、こちらの耳元に薄桃色の唇を寄せる。
「実験の腕があるから身の安全が担保されてる、って思ってるみたいだけど、君の意識を奪って操り人形みたいにすることだって、簡単にできるんだからね?」
その言葉はなぜかぞくりとするくらい甘美で、おぞましいほどの陶酔の響きを帯びていた。
マシューにはそれが安い脅しではないことが分かっている。自分がもはや組織に益する存在ではないと判断が下れば、彼は人間一人を廃人にし切り捨てることなど欠片も躊躇わないだろう。
だからこそマシューは、ここで動揺して畏縮するわけにはいかなった。
「やっぱりお前、友達いないだろ」
微笑するボスの至近距離で、こちらもにやりと笑ってみせる。ディヴィーネはもうマシューに興味を失ったように、部屋の出入口へと足先を向けた。
「ルカ、おいで」
「は」
長身の青年は身を翻し、主にしずしずと追従する。今このタイミングを逃せば、ルカに言葉を届けられる機会は永遠になくなるかもしれない。最後の足掻きとばかり、マシューは痛む喉を酷使して声を張り上げた。
「ルカ! 待てよ、そいつに従う理由なんかもうないだろ? あんたの人生なんだぞ、一回きりしかない! あんたの――自分自身の人生を生きなくてどうするんだ? 自分で何も決めないままで、今のままでいいのかよ!」
最後はほぼ絶叫となった。ルカがぴたりと歩みを止める。黒衣をひらめかせ、ゆらりと振り返る。
二十歩ほどの距離を置いて、琥珀色の瞳が真っ直ぐマシューを射抜いた。
「誰が何を言おうが、私の誓いが揺らぐことはありません」
その双眸にはあまりにも濁りや淀みがなく、透徹そのもので。マシューは無意識のうちに息を飲む。
彼の目の光は、余計なことを口に出すなと釘を刺すようでもあった。もしかしたら、と空恐ろしい想像がもたげる。ひょっとするとルカは、マシューの指摘した事実さえ元より領解した上で、ディヴィーネの命に従っているのではないか。それこそ、清濁を併せ呑む覚悟で。
――どうしてそこまでする? 自分を欺いた人間のために。
マシューには分からなかった。それだけのことをする価値が、あの人でなしのボスにあるとも思えなかった。
「ルカ、なんでだよ……くそっ」
その場にうずくまり、悔しさを拳にこめて、床を思いきり叩く。人を一回たりとも殴ったことのない手が、びりびりと虚しく痛んだ。
翌日から、マシューが率いる研究チームのメンバーからルカが外されていた。それどころか、どこのチームにも所属していないらしい。自分のせいで彼が不当な扱いをされていなければいいが、と身を案じずにはいられない。
それから数日後のこと。マシューはディヴィーネ本人から、直々に呼び出しを受けた。まさかこんな早々に、マシューの処遇が決まったのだろうか? 最悪、異端審問の日取りが決まったと知らされることもありうる。悲壮な心構えをして、最高指導者の部屋へと赴いた。
掌を翳して認証を済ませ、天井近くまで数多のモニタが並ぶ部屋へと踏み入る。そこには三つの人影があった。ひとつは部屋の主、ディヴィーネのもの。ひとつはルカのもの。ルカはマシューが見えていないかのように、まったくこちらに目線を寄越さない。
そして残りのひとつの人影は。
手首をバンドで拘束され、所在なさげに佇んでいた恰幅のいい老人が、物音に引き寄せられるようにこちらを振り向く。その顔かたちを目の当たりにして、マシューは絶句した。相手も驚愕に表情を染める。
「教授……」
その単語をなんとか喉から絞り出す。
かつてマシューが所属していた、研究凍結の処分が下された研究室のボス。彼が今、目の前にいた。