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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
112/137

どこかのこと ヴァイオリンとピアノⅡ(2/3)

 このミステリアスで恐ろしく見える青年のことを、もっとよく知りたい。マシューは先ほどのルカと同じ質問を彼にも返した。


「さて、俺の過去の話は終わったぜ。それで、あんたはどうなんだ? 辛いかどうかすら忘れるような人生がどんな感じなのか、教えてくれないか」

「……聞きたいのですか」

「ああ、とってもな。俺はあんたに興味があるんでね」

「ずいぶんな物好きですね、あなたは」


 放られた冷たい皮肉。マシューは感銘を受けすぎて、危うく存在もしない息子にするような、熱い抱擁をルカにするところだった。彼の人間性の発露をもっと刺激したい。それは研究者としての単なる知的好奇心なのか否か、マシューには自分でも判断がつかない。

 白黒の八十八鍵を見つめながら、ルカはぼそぼそと語り始める。朴訥な話しぶりから、自らの境遇を説明するのに慣れていないことが、ひしひしと伝わってくる。

 ルカは語る。不遇な幼少期から少年期のこと。後に主となるディヴィーネとの出会い。一縷いちるの希望を授けてくれた神父とのひととき。そしてすべてを――住まいや新生活や恩師や名前すらを――失った夜のこと。

 彼の話が進んでいくうちにマシューは、床が広大な毒沼に変わり、足元がずぶずぶと侵されていくような感覚を覚えた。背中に氷水を入れられたみたいに身震いがしてくる。急に部屋の温度がぐんと下がり、冷気が下から伝い上ってきているのでは、と思われた。

 ルカは彫刻作品のような横顔をこちらに見せながら、訥々と言葉を紡いでいく。その前でマシューは愕然と立ち尽くす。先ほど「この組織にいるのがルカの自由意思であったらいい」という淡い思いは、あっけなく打ち砕かれていた。


「私がすべてを失った夜に、あの方は道をお示しになって下さったのです。ですから今の私の身も心も、もはや自分のものではありません。すべてあの方のものなのです」


 ルカは話をそう締めくくる。彼の語り口は素朴で淡々としたものだったが、不思議と光景が目の前に浮かぶようだった。赤々と燃え上がる教会を眼前に捉えたとき、少年だったルカはどれだけ絶望したことだろう。信仰を否定され、どれだけ心がずたずたに傷ついただろう。だからこそ――拓けていたはずの未来を彼から奪った者を看過できない、と感じた。

 見て見ぬ振りはできない。マシューの脳内では黒幕のシルエットがくっきりと浮かび上っている。胃の腑から灼熱のように湧き起こる瞋恚しんいに突き動かされ、無意識にピアノの前に座る彼へと詰め寄っていた。赤熱する怒りに肩と拳を震わせながら。


「あんたそれ……本気で言ってんのか?」

「と言いますと」


 ルカが表情のない顔でこちらを見上げる。許せなかった。無論ルカがではない。今までに感じたことのない憤りの炎が、この組織のボスであるディヴィーネに対して燃え上がっていた。

 ともすればまくしたてそうになるのを、理性で抑えこみ努めて冷静に語りかける。


「ルカ――落ち着いて聞けよ。あんたが神父に引き取られる直前、建物が燃えて神父が亡くなったって言ったな。それは……本当に偶然だと思うか。そんな狙ったようなタイミングで、火事が自然に起こるなんてありうるか? あんたの話を聞く限り、俺にはそうは思えない。その教会は……あんたを手に入れるために、ディヴィーネが火を点けたんじゃないのか」

「何を……言うのかと思えば……」


 マシューが推論をぶつけると、ルカの目の色が変わった。刺々しく、冷酷な獣の目に変じる。もちろんこの空間において、牙を持った狩る側の存在はルカであり、箱入りで育ってきたマシューは草食動物よろしく狩られるほかにない。

 しかしここで臆してはいられない。状況とディヴィーネの性格からかんがみるに、ルカが嵌められたのは確実だと思えた。腹が立つ。腸が煮えくり返る。ルカは現在まで、ディヴィーネが己を救ってくれたと信じて疑っていない。白紙(タブラ・ラサ)のようにまっさらだったルカの精神は、あの虫をも殺さぬ笑みですべてを踏みにじる男に、ぐちゃぐちゃにけがされたのだ。こんな純粋な青年を騙したぶらかしておいて、よくもあんなに平然としていられるものだ。

 マシューの声にはどんどん熱がこもっていく。


「なあ、目を覚ませよ、ルカ。あんたは頭がいい、俺が言うんだから間違いない。だから本当は分かってるんだろ? あいつはあんたの救済主メシアなんかじゃない、一生関わらなくてもいい世界に、あんたを引きこんだ張本人なんだぞ!」


 悔しかった。こんなに聡明で音楽の才能もあり、未来もある青年が、卑怯な男の召し使いみたいに言いなりになっているなんて。

 マシューの必死の説得は、しかしルカには届かない。


「よくも、私の前でそんな――ずけずけと物が言えたものですね」


 低く冷淡な声には怒気が混じっている。長身で黒尽くめの青年がゆらりと立ち上がる様は、まるで幽鬼か死神のように見えた。

 言葉を継ごうとしたマシューの喉に、目にも止まらぬ速さでルカの長い指が絡む。その勢いで背中から倒れこみ、したたかに全身を打ち付け、視界が痛みでちかちかと明滅した。なぜこんなことを俺に、という問いかけを抱きながら馬乗りになってくるルカを見据える。こちらを見下ろす珍しい色の瞳は、冷たい敵意で静かに燃え盛っていた。

 苦しくてじたばたと全身がもがきたがるが、がっちりホールドしたルカの長い脚がそれをさせない。喉に食いこむ両手を引き剥がそうとするも、先刻までピアノを弾いていたしなやかな十指は、太い鉄と化したかのように頑として動かない。マシューは脳が酸素を求め始めるのを知覚しながら、なんとかルカを落ち着かせようと、咳き込みそうになるのをこらえて必死で言葉を絞り出す。


「おい、ルカ……こんなことをしたら、飼い主に怒られるぜ。俺がいなきゃ、……頓挫しちまう研究がいくつもあるんだ……」

「その責はすべて私が受けます。あなたは、自分がいなくなったあとの心配はなさらずともよろしい」

「なあ、ルカ。俺はあんたの味方だぜ……だから……」


 首の骨がみし、と嫌な音を立てて軋む。もはやこれは人間の手の力ではなかった。マシューの説得がルカの殺意でかき消されていく――そうだ、ルカの両目には確かに殺意がこもっていた。

 殺される。

 その一文が脳裏に閃いた途端に、意識が細くなって気が遠のきかける。今意識を手放してしまったら、二度と現世には戻ってこられないだろう。砂粒のように縮小していく身体感覚のさなか、マシューは蜘蛛の糸のごとくすぼまっていく意識を必死に手繰り寄せ、取りすがる。

 不意に、この場には最も似つかわしくない、涼やかな声が凛と部屋に響いた。


「ルカ、そのくらいにしてあげたら? 彼、本当に死んじゃうよ」


 言葉が切れるなり、喉をいましめていた指の拘束がほどける。仰向けだった体を跳ねさせるように反転させ、激しく咳き込みながら肺に空気を取り込んだ。ひゅーっと喉が鳴り、脳に酸素が染み渡るのが分かる。

「げほっ! ごほっ!」と悶絶しつつ澄んだ声の方を見るとやはり、生理的な涙で滲んだ視界に、"罪"を統べるディヴィーネが映った。いつから会話を聞いていたのだろう、とちらと考えるものの、彼はすべての部屋をモニタと自動生成字幕で監視しているのだから、それは無駄な問いだと思い直す。元よりディヴィーネの行為への糾弾は、彼に知られていると覚悟してのことだ。

 ルカは既にマシューから離れ、主の前に平伏している。


「見苦しいところをお見せし、申し訳ございません」

「謝ることはないよ。君はぼくのために怒ってくれたんでしょう?」


 なだめる声は柔和そのものだ。ディヴィーネはコツコツと靴音を立てながら、未だ起き上がれずにいるマシューへと近づいてくる。

 口元にはほほえみがあるが、こちらを見下ろす瞳には何の色もない。彼が怒っているのか憐れんでいるのか嗤っているのか、マシューには判断ができない。


「マシューくんは酷い人だね。根拠もないのに犯人呼ばわりされるのは心外だな。教会に火を点けるだなんて、ぼくはそんなことしていないよ?」


 軽やかに言葉を紡ぐディヴィーネを、這いつくばったままきっと睨む。マシューと同い年のボスはそんな視線を意にも介さないように、膝をついてマシューの耳に口を寄せる。朝露に濡れて咲く清廉な花の香りが漂って、あまりにもこの場にそぐわない匂いに、吐き気がこみ上がる。

 そしてディヴィーネは、マシューにだけ聞こえる声量で決定的な台詞を囁いた。


「ただ、教会の近くで遊んでいた子供に、これで遊んだら楽しいよって、花火と火種を渡すことはしたかも知れないけどね?」

「……! お前……」


 どくどくと心臓が脈打つ。頭に血が上り、沸騰しそうになる。

 そうだった。こいつはそういう男だ。決して自らの手は汚さず、他人を転がして地獄が生まれるのを薄笑いしながら眺めている。そんな彼をマシューはずっと前から気に入らなかったが。

 ――俺はこいつが嫌いだ。大嫌いだ。

 今、そうはっきり自覚した。


「お前は……人間のクズだな」


 憎悪と侮蔑をこめてディヴィーネを睨み付ける。それなのに相手はぷっと噴き出し、あはは! とさも可笑おかしそうに笑った。

 ぞっとするほど朗らかで快活な笑い声だった。

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