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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
111/137

どこかのこと ヴァイオリンとピアノⅡ(1/3)

―マシューの話


 円形の防音室に、ヴァイオリンとピアノの音色が絡んでたゆたう。

 ルカが日本での任務を一旦終えて、"(ペッカートゥム)"の本部であるトゥオネラに戻ってきて早々、マシューは暇を見つけては彼を捕まえ、二重奏(デュエット)の練習を繰り返していた。ルカの方は数ヶ月前の「一緒に演奏しよう」というマシューの誘いを真に受けていなかったらしいが、こちらは真面目も真面目、心からの本音である。ルカがあからさまに嫌な顔をするのにも構わず、マシューは半ば強引にピアノがある部屋へ彼を押し込め続けた。

 とはいえ渋面を作りながらも、練習を始めれば最後まで付き合ってくれるのだから、つくづくルカというのは妙な男ではある、とマシューは思う。

 その日、共奏の課題曲に選んだのはドルドラ作曲の「思い出」だった。甘く郷愁を誘う美しいメロディーが印象的な小品である。難度は高くない曲なので、すぐにでも通しで演奏できるかとマシューは見通しを立てていた。ところが。


「あーちょっと、待った待った」


 ルカの弾きぶりにストップの合図を出さざるを得ず、ヴァイオリンの弓を緩く振るう。

 ルカは感情を塵ほども乗せていない顔でマシューを振り仰ぐ。この男と並んだら仮面でさえもっと表情豊かに見えそうだ。

 無論、彼の演奏に技術的な問題はない。しかしルカの演奏ときたら、後悔ばかりしてきた死期間近の老人が、暖炉端で過去を追想しているような、そんな印象なのである。この曲をそんなに寂しく弾けるなんて、むしろ才能だとすら思える。


「なあルカ。もっとこう、軽やかに弾けないもんかね? まだ若いんだからさ」

「具体的に、どう弾けというのですか」

「楽しい思い出とか嬉しかった記憶とか、あんたにもあるだろ? そういうのを思い出して、懐かしむ気持ちで弾いたらいいんじゃないか」


 そうアドバイスをすると、二十一歳にしては老成しすぎている青年はわずかに小首を傾げる。


「……そのような感情はもう、忘れました」

「忘れた、ってなあ……そういうのは忘れるもんとは違うんじゃないのか?」


 マシューにはルカの言い方が冗談に聞こえたため、肩をすくめて笑ってみたものの、ルカはいたって真剣な顔でこちらを見返している。ああそうだな、こいつは冗談なんて言う奴じゃないよな、とマシューは嘆息を漏らしそうになりながら笑いを引っこめた。


「楽しいとか嬉しいとか懐かしいとか、そういう気持ちを忘れるくらいに辛い過去ばっかり。そういうことかい?」

「あなたという人は――本当に無遠慮ですね。あなた自身は気にしていなくても、周りはよく思っていませんよ、きっと」


 マシューの指摘に、ルカが先ほどとは表情を変え、目を鋭くして敵意を滲ませる。常人ならその眼光に震え上がるところだろうが、マシューにはそんなルカの反応が興味深くもあり、もっと露骨に言うと面白くもあった。初対面の頃はそんな皮肉を返されるなんて想像もできなかったのだ。

 彼の人間らしいところを垣間かいま見て、マシューは息子が初めて言葉を喋るのを聞くような、妙な感慨を覚えていた。息子なんてまだ持っていないけれど。

 そういうわけで、思わずルカに笑みを向ける。


「ほうほう、あんたも嫌味を言うようになったのか。これは感慨深いなあ」

「なぜそんなに楽しそうなんです」


 得体の知れない珍妙な形状の深海生物を見るような、(いぶか)しげな目がこちらに向けられる。


「いやいや、こっちの話だよ。それで? 本当に辛いことばかりの人生だったのか?」

「……辛かったかどうか、それももう忘れました」


 ルカは鍵盤に視線を落としながら、独り言のように呟いた。それが予期していたのより何倍もシリアスな声音だったので、マシューは反応に窮する。

 マシューは知らない。ルカがどんな人生を歩んで今ここにいて、自分と出会ったのか。けれどその選択が、彼の自由意思によるものであったらいいな、と思う。マシュー自身がこの道を選んだのが、まったくの自由意思であったように。

 不意にルカがこちらを見た。敵意も警戒もない、驚くほどにただ澄んだ瞳で。


「そう言うあなたは……どうだったのですか。あなたにも子供時代があったのでしょう。どういった人生でしたか」

「珍しいな。あんたが俺に個人的な質問をするなんて」

「……差し支えるのであれば、撤回します」

「いやいや、質問が駄目なんて言ってないだろ。むしろ嬉しいよ」


 純粋な好奇心の芽生えが奥にちらついていたルカの目が、にわかに厳しくなる。今度の表情は地球外生命体をめつけるようで、眉間の皺が深くなった。

 まあそうだな、特別面白い話はできないだろうけど、と前置きしてから、マシューはヴァイオリンを椅子の上に置いて話し始めた。己の半生について。

 アメリカはワシントン州の裕福な家庭に生まれ、豊富な知識に浴しながら成長したこと。

 勉学もスポーツも音楽も甲乙つけがたいほど好きだったこと。

 若くして博士号を取得し、ポスドクとして研究を始めた頃まではすべてが順風満帆であったこと。

 進めていた研究が学会により凍結の決定を受け、研究室そのものを解体せざるを得なくなったこと。

 路頭に迷う寸前、凍結された研究を続けられると"罪"のスカウトマンに聞かされ、ふたつ返事でこの組織に来たこと。

 そしてアメリカを発つ前、母親が作る好物のクラムチャウダーを食べ損ねたことなどを話した。途中、ルカは相槌も打つことなくマシューの話にじっと耳を傾けていた。


「とまあ、ざっとこんなもんかな。聞いてもそんなに楽しくはなかったろ?」

「……あなたは、恵まれた人生を歩んでこられたのですね」


 ぼそりとルカが感想めいたことを漏らす。それが"持てる者"への恨み節に近いものなのか、平坦な声からは判断ができなかった。

 しかしながら、周囲の人々がぶつけてくるその手の嫌味には慣れていた。幸運な生まれであることを感謝するべきだとか、もっと周りに気を遣って謙虚になるべきだとか。

 マシューには自覚こそなかったが、普通に生活しているだけで周囲の人間を落ち込ませてしまう人種らしく、かつてガールフレンドだった女性にも「あなたの隣にいると自分が惨めになる」と言われたことがあった。

 彼女は別れの際、何と言っていたっけ。ああそうだ、「私のことなんて、"ガールフレンド"というお飾りの記号としか思っていないんでしょう」と言われたのだった。マシューにしてみればそんな風には微塵も考えたことがなかったから、そうか、そう捉える人もいるのだなと真新しい気持ちになったものだ。

 今思い返せば、彼女のそしりはあながち間違っていなかったのかもしれない。破局した直後、確かに愛情を持っていたはずの女性が自分の元から去ったというのに、マシューの精神はちっとも陰らず、健全そのものだったからだ。

 自分の恵まれた境遇を最大限利用し、無自覚に薄情で、いつの間にか人を傷つけ、傷つくのはその人の責任と割り切っている。そういう点も含め、自分は嫌な人間なのだろう。自覚を持ったとて、直そうとも思わないが。

 そんな思考がルカとの会話の合間で発火し、飛び去っていく。ここでも謙遜することはしない。


「そうだな……今の状況を恵まれてると言えるか自信がないが、何でも自由にやりたいことをやってきたし、現状も俺自身が選択したことだからな。大学の先生も家族も結果的に裏切っちまったけど、俺がそうしたいと望んだことの結果だから後悔はしてない。ただ、最後に好物が食べられなかったのは心残りだけどな」

「……唯一の後悔がそれなのですか」


 ルカの問いには、今度は微妙に非難の響きが混じっているのが聞き取れた。他人なら気づかず聞き流すだろうが、マシューは彼と同じ時間を過ごしてきて、その程度の感情の滲みなら判別できるようになっていた。

 苦笑いしながら首を竦める。


「おかしいかい? まあ、普通に考えたらおかしいだろうな。頭のネジが何本か飛んでると自分でも思うよ」

「いえ……少々意外だっただけです。あなたは良心や、善良さを持ち合わせているように感じていたので」

「だから言ったろ? 俺はマッドな方の科学者だって。それに、こっちこそ意外だよ。あんたが俺に対して個別の印象を持ってたなんてさ。あのあるじさまにしか興味がないんじゃなかったのか?」


 組織のボスを茶化して言い、相手の反応をうかがいながらも、マシューは内心驚いていた。ルカが良心や、善良さを感じ取れる感性を持ち合わせていたことにではない。いや、それもひとつだが、この冷徹で機械仕掛けのような青年が、自分への個人的なイメージを持っていたこと。そこに驚愕していた。

「……。私は……」とルカは失言を取り繕うように、また鍵盤に目線を移す。

 彼は押し黙ってしまって、その後はいくら待っても言葉が続くことはなかった。その様子を見るに、ルカも己の内面の揺れ動きに戸惑っているのかもしれない、と感じられた。彼くらいの年齢であれば、そのような悩める青年という在り様の方が健全であろう。ルカの人間くさい部分をくすぐって、もっと外に引き出してみたい、と思う。それは良心からというより、好奇心や悪戯心いたずらごころから来るものであったけれど。

 彼と付き合いを持って、マシューには分かってきていた。"罪"の人間が当然のようにルカに下している、主に唯々諾々と従うだけの血も涙も自分も持たないサイボーグのような男、という評価が、あまりに短絡的なラベル付けであると。

 ルカ本人が人間性を捨てたがっているのも知っているが、その営みや苦悩は、逆説的に非常に人間らしいプロセスとも言えるのだ。姿形だけ人間を模したロボットには、捨てる人間性すらないのだから。

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