僕らのこと トリック・スノウの来臨(7/7)
「酷いことはしないよ。私、茅ヶ崎くんのこと嫌いじゃないし。そのときは、そうだな……いっぱい可愛がってあげちゃおうかな?」
千雪が俺の耳に口を寄せてくる。さまざまな果物の、生クリームの、甘味の残り香が薫った。匂いと響きに甘さを含んだ声が耳に直接吹き込まれ、背中を寒気が駆け昇っていく。
身動きが取れないまま、これはとんでもないことになった、と俺の心は戦いていた。常に監視を受けるということはつまり、この敵か味方かも判然としない双子のことを、桐原先生にもヴェルナーにも相談することができないのだ。速見兄妹のことは、俺が何とか一人で処理しなければならない。
一人で、俺が? そんなことできるのか? 自身についても分からないことだらけのこの自分に。
ふと体が弛緩して、そのまま地に倒れ伏しそうになる。俺の影から千尋が抜けたのだろう。俺はもうその現象を、現実のものとして受け入れてしまっていた。尻餅をつく寸前で堪えるも、掌にざらっとした土の感触がある。
千雪をきっと睨み上げた。
「……俺は、お前らと約束した覚えはない」
「そんなに怖い顔しないで。大丈夫、君は言いつけを破ったりしない。私には分かってる。だって、今の君にはそれだけの力がないもの」
彼女の口調はどこまでも優しく、柔らかく、慈悲深く、非力な俺を慰めるようで。それでいて指摘は鋭利で、心の弱いところまで深く届き、情け容赦なく俺を傷つけた。
うう、と漏れそうになる呻きを必死に奥歯で噛み殺す。初めて会う人間にすべてを把握され、見透かされていることへの恥の気持ち。今まで生きてきて一番惨めな瞬間。速見の言葉は一字一句正しい。反逆なんて、俺には起こせるはずもない。
「じゃあ、私たちの家はこの近くだから。茅ヶ崎くんも、暗くなる前に帰った方がいいよ?」
にべもなく言い放ち、この場から去ろうとする千雪に、最後にひとつ問いかける。
「……これから、何が起こるんだ?」
「楽しいこと」
毒のない表情で笑う少女の前で、俺はブラックコーヒーよりなお苦い敗北感を舐めさせられていた。
その空き地から駅に着くまでのことはほとんど覚えていない。無心、というか放心状態で駅まで向かい、我に返るといつしか電車に揺られていた。
いつもと変わらぬ学生や社会人の様子を眺めているうち、さっきのは夢だったのではないかと思えてくる。一切合切現実なのだ、と突きつけてくるのは、掌に残った土汚れだけだった。
目を閉じ、規則的な揺れに身を任せると、どっと疲れが降ってくるようだった。俺には力がない。それは腕力という意味でも、速見たちのような特別な能力という意味でも、どちらも当てはまる。悔しかった。一言も反論できない、自分自身が情けなかった。
俺に力があれば。"蕾"という謎の単語の意味が掴めれば、もしかしたら俺にも。
おそらく俺は、自分でも気づかないうちに、千雪が囁いた"選ばれた人間"という言葉を、脳のどこかに刷り込んでいたのだろう。
ルカとの邂逅で芽生えたヴェルナーたちへの反抗心を、その言葉が育てていくのも知らず。
それはまさに植物の芽に水をやり、蕾を育むのに似ている。
* * * *
時刻は少し遡り、茅ヶ崎龍介と速見兄妹が別れた直後。
覚束ない足取りで去っていく同級生を見送ってから、千雪は鞄から取り出した携帯電話を耳に当てる。長い呼出音のあと、いつものように合言葉を求める声が続いた。
「トリックスターは」
「二人いる」
千雪は淀みなく答える。彼女はその、映画や漫画のキャッチコピーを想起させる合言葉を、いたく気に入っていた。この電話は定例の進捗報告ではあったが、少女の口調は弾み、喜びと興奮をあらわにしていた。
「ねえ先生、手はずどおりにいったよ! 茅ヶ崎くんに会って、"自己紹介"したの」
「まあ、落ち着け。これで終わりじゃない。まだ二人にはたくさん仕事をしてもらわねばならないのだから。これはまだ、ほんの序の口だ」
対して、先生と呼ばれた電話の向こうの声は淡々として、感情の起伏がない。少女は口早に、先ほどの茅ヶ崎龍介との顛末を説明した。
「了解した。その調子で今後も頼む」
「うん! 頑張るから、見ててね。先生」
「ああ。くれぐれも油断はするなよ。――それと」
「なあに?」
「今日は良くやった」
電話はそれきりぶつりと切れたようだった。少女は空き地のロープを越えながら、ひらりと一回転する。その動作には如実に幸福感が表れていた。
先生と呼ぶ人物から、速見兄妹は常々「お前たちはトリックスターになるんだ」と言葉をかけられてきた。二人はその短い言葉から、先生の期待をひしひしと感じていた。今日この日の茅ヶ崎龍介との出会いは、彼女らが立派なトリックスターとなる、記念すべき初めの一歩として刻まれるだろう。
しかし、千雪の軽やかな動きは、建物の陰から人影が現れたことでぴたりと止まる。一眼レフカメラを胸あたりに構えながら歩み出てきたのは、龍介の幼なじみの上宮輝であった。
千雪は内心の驚きを顔には出さない。千雪も輝もお互いに、腹を探り合うような不敵なほほえみを唇に乗せる。
「君、同じクラスの上宮くんだっけ? びっくりしたよ。ずっと近くにいたの? 全然気づかなかった」
「気づかれないようにしていたからね。新聞部の取材の一環だよ」
「ふうん。今からパパラッチの練習ってこと?」
「そうとも言えるかもね。それで――君は龍介に何をした?」
ざざ、と冷たさを持った風が対峙する二人のあいだを通り抜けていく。
千尋の声は輝には届いていなかったはずだ。けれどこの優等生の外見をした要注意人物は、尋常ならざる雰囲気を敏感に嗅ぎつけたらしい。
千雪は答えない。輝もじっと、微動だにしない。たっぷり十秒ほど沈黙を置いて、
「君は、何者?」
そう問うふたつの声がぴったり重なった。二人は隙のない笑みを深くする。
「ただ者じゃなさそうだね」
声はまたも、シンクロした。
* * * *
―シューニャの話
ツー、ツーと鳴く受話器をフックに置いて、シューニャは古風なダイヤル式電話を見下ろす。
ビターチョコレートに似た色の筐体に、輝きが鈍くなった金属の部品。外見はレトロだが、中身はとてつもなく高性能。まるで自分とは真逆だ、と思う。この体は少年のまま成長を止めたが、中身は老いぼれかかっている。まだ矍鑠とありたいとは思うが、その思考もまた、老人ならではのものかもしれない。
ここ最近、ずっと心が晴れない。地下のこの居室から一階へ上がっていって、朝靄の立ち込めた一面の木立を眺めてもそれは変わらないだろう。シューニャは今、さるユーロ加盟国の森の奥、そこに建てられたログハウス風のセーフハウスにいる。一見ただのこぢんまりとした別荘だが、その地下には広い秘密の部屋がいくつも続いている。一定期間隠遁生活を送るには不便しないが、気持ちの面で快適かどうかは別問題だ。
けれど心が曇っているのは、窓のない地下でずっと過ごしているからではなかった。近いうちに、長い人生でも経験してこなかった事態が起ころうとしている、そんな予感で胸がざわついているからだ。シューニャの予見能力を使うまでもない、川の流れがいずれは必ず大海に注ぐような、それは当然の帰結に近い未来予想である。
住まいを転々とする中でも必ず持ち歩いている、机上の写真立てを見つめる。セピア色がやや褪色した古い写真の中では、アカデミックドレス姿で帽子を被った若者が集い、笑みを浮かべていた。過ぎ去った懐かしい青春の象徴。群衆の中央で、外見はそのままだが中身は若いシューニャと、後に"罪"の初代首領となり、シューニャを巻添えに自爆を試みる男とが、肩を組んで屈託なく笑っている。
シューニャとその男は、かつて医大で机を並べた親友であった。
部屋のドアがノックされる。木材の隔たりの向こうの声が、控えめに入室の許可を乞う。
シューニャはゆっくりとした動作で写真立てを倒してから、その声に応えた。