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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
109/137

僕らのこと トリック・スノウの来臨(6/7)

「お、おい……! それはまずいって」

「何? スカートの中でも見えた?」

「いや、そうじゃねーだろ……!」

「茅ヶ崎くんもおいでよ。ちょっといけないことは好きでしょ?」


 速見は赤々とした夕焼けを背負って意味深にほほえむ。別に好きじゃねえよ、とぼやきながら、でも彼女の謎めいた部分は知りたくもあるので、及び腰になりながらロープを跨ぐ。

 空き地に完全に立ち入ってしまった俺の前で、速見は愉快げに大きく手を広げた。


「さあ、ここで茅ヶ崎龍介くんに問題です! 私は一体誰でしょう?」

「誰って……速見だろ」

「下の名前は?」

「……千雪」

「初めて名前で呼んでくれたね、嬉しい」


 突然芝居がかった動作を見せた速見が、一転して満面の笑みを浮かべる。その表情は真に邪気のない、純粋なものに見えて。俺は思わず、頬に斜陽が射すその顔を、まじまじと見つめる。

 そのとき、ざわ、と空気自体が蠢いたように感じた。

 何とも言えない、嫌な感覚が襲ってくる。もう食べてしまった料理に実は芋虫が入っていました、と後から聞かされるような、微妙にぞわぞわする感じ。

 私の影を見ていて、と速見が呟く。

 俺の目の前で、長く引き伸ばされた彼女の影、その髪の部分が、確かにしゅるしゅると縮んでいく。眼前で進行する事実を、信じられない気持ちで凝視した。

 影の変化はそれだけではなかった。スカートがひらめいていた部分は明らかに男物のシルエットになり、肩幅も幾分広がったように感じる。極めつけに、


「初めまして、茅ヶ崎くん。僕は速見千尋。千雪の兄だよ」


 どこからか、男の声がした。

 木管楽器に似た千雪の澄んだ声色とは明確に違う、ずっと低い大型の弦楽器みたいな声だ。声、といってしまっていいのかも分からない。空気ではなく直接脳が振動していると言えばいいのか、それは今までにない妙な体験だった。理屈に合わない状況に、目の前がくらくらした。


「ねえ茅ヶ崎くん、聞こえるでしょう? 私はずっと、一人じゃなかったんだ。兄といっても、双子なんだけれどね」

「僕はユキと一緒に、君を見てたよ。僕たちは一人で二人、そして」

「二人で一人なんだ」


 フルートめいた声と、チェロめいた声の二重奏が畳みかけてくる。こんなのおかしい、こんなのあり得ない。耳を塞ぎたかったけれど、塞いだところで千尋と名乗る声をシャットアウトすることはできないだろう、という諦念に近い確信があった。

 意を決して、謎の声の主と対話する踏ん切りをつける。


「速見……千尋……? お前は、一体何なんだ。人間、なのか」

「そうだな、説明が難しいけれど……一応人間だという自意識はあるよ。僕という存在を一言で言うなら、実体を持たない意識、かな」

「そんなの……あるはずないだろ。物質から意識が生まれるのであって、その逆はない」

「そう? じゃあ君が今、見たり聞いたりしているものは何かな? それとも、自分自身を疑ってみるかい」


 男の声は歌うような抑揚を帯びていて、人を食った言葉遣いが、千雪の話し方によく似ていた。

 その問いに答えず、俺はもっと論理的な推測を口に出す。


「お前は……どこかで俺たちを見ていて、影を操作している、とかじゃないのか」

「あはは、茅ヶ崎くんは疑り深いんだねえ。影を操作って、どうやって? 僕の実体は影そのものだよ。もっと正確に言うなら、ユキの意識の中に存在する"速見千尋"という人格が、周囲の人間の五感に干渉して、僕のシルエットという形で実世界空間に表出している、という説明になるのかな」

「私は脳の中にもう一人人間が暮らしているようなものなの。だからたくさん糖分が必要なんだ。さっきのあれも、ただのものすごい甘党ってわけじゃないんだよ?」

「ユキのは半分好みだろ」

「えへへ、バレちゃった」


 千雪が自分の影に笑いかける。実体と影との会話は兄妹というより恋人同士のものに近く、いささか居心地が悪い。

 それよりも、千尋が影として見える理屈だ。彼の説明は難解だったが、一応の筋は通っているように感じられた。多分にけむに巻かれた感触もあったが、千尋の影が見えるのは事実なのだ。

 百聞は一見に如かず。見てしまったら最後、信じるほかない。


「つまり――お前は速見千雪の別人格、ということか?」

「いや……実際に僕は生身の体を持っていたこともあったよ。けれど、それはもう何年も昔のことだ。僕は一度死んでいるから」

「は……」


 さらりと告げられた言葉をすぐには受け止められず、絶句する。その後を千雪が引き継いだ。


「交通事故でね。飲酒運転と信号無視の酷い事故だった。ヒロくんと両親はそのとき死んじゃって、私は――私だけは生き残ったんだ」

「ユキ。その話はもうやめておこう。僕らは別に、同情してほしいわけじゃないんだから。……僕らは茅ヶ崎くんに、挨拶と忠告をしに来たんだよ」


 忠告、という硬い響きにより、双子の痛ましい境遇に引っ張られていた意識が、急に現実へと引き戻される。


「そうだったね。……ね、茅ヶ崎くん。これで私たちのこと、少しは分かったでしょう? 挨拶は済ませられたんじゃないかと思う」

「忠告というのはね、僕らのことを――特に僕、速見千尋のことを、誰にも話さないように、ってことだ。これはお願いじゃない。命令だ」

「命令って……お前らに何の権利があってそんなこと言うんだよ。もし破ったら何かあるってのか?」


 俺は困惑半分、憤り半分で反駁はんばくする。彼女らがどの立場でものを言っているかも分からない。初対面の人間におかしな現象を見せられて、それを他人に口外するなと指図されたら、抵抗感が湧くのも当然だろう。

 生身の方の速見が、ぺろりと小さく舌を出した。


「ごめんごめん、命令っていうのも正しくはなかったよ。正確に言うなら」


 ――これはおどしだ。

 千雪が囁くのと同時に空気がびりっと震え、またあの嫌な感じが肌を覆っていく。今度はそれだけでは終わらず、身体の知覚機能が末端から砂のように零れ落ちていって、体感したことのないその感覚にぞっとした。全身が動かせなくなり、このこわばりは絶対に精神的なものではなかった。

 固定されてしまった視界に、自分の影が伸びている。


「ヒロくんはね、他人の影にも潜りこめるんだ。ほら、見て」


 俺の影――棒立ちになっている俺の影が、物理的に俺のものであるはずの影が、ひとりでに動き出した。その動きはなめらかで、とても自然だった。両手もろてを挙げ、遠いところにいる友人に合図を送るごとく、右に左に大きく腕を振る。あろうことか俺の腕も意思に反し、影を正確になぞるみたいに、振り遅れて往復運動をしてしまう。

 すごいでしょう、と千雪が誇らしげに言った。年端のいかない子供が紙の金メダルを自慢するような、どこまでも無邪気な調子で。

 今の俺には、その邪気のなさが何より恐ろしい。

 己の影の動きが止まり、また金縛り状態になる。軽やかな二重奏が脳と鼓膜を揺さぶってくる。


「分かったね? 僕たちのことは誰にも言わないこと。君のことは影に潜っていつでも監視できるから。約束を破ったらすぐに分かるよ」

「そうしたらヒロくんに頼んで、今みたいに身動きを取れなくしてもらうかも? そしたら――ふふ、何でもできるねえ」


 千雪はにっこりと、十人男子がいたら十人をとりこにしてしまえそうな可憐な笑顔で、こちらに歩み寄ってくる。俺にできるのは来るな、と念じることくらいで、その祈りが届くわけもない。

 だらりと下ろしたまま固まっている両の手に、千雪のひんやりとした指がつ、と触れた。

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