僕らのこと トリック・スノウの来臨(5/7)
ずらりと甘いものが並ぶ広い木のテーブルは壮観ではあったが、食の細い自分にはある意味でグロ画像に近いものでもある。
速見は到着した甘味から次々に手を付けていった。すらりとした体躯のどこに入っていくのか、彼女は幸せそうな表情を浮かべながら、ぱくぱくと恐ろしいスピードで綺麗に皿を空にしていく。俺は目の前の光景にぞっとしつつ、これは何の時間なんだと思いながらコーヒーを啜っていた。
注文の半分ほどを平らげたところで、初めて速見がこちらの存在に気づいたような顔をした。
「どうしたの? 他人の顔をじろじろ見て。そんなに私が可愛い?」
「いや」
「ふふ、茅ヶ崎くんはあれだ。嘘がつけなくて損をするタイプの人」
コーヒーカップを持とうとする手が止まる。
本当にこいつは何なんだ? 初対面でこんなにずけずけと、人間性にまで踏み込んでくる人間とは会話した経験がない。ヴェルさんだって初めて会った日はここまでではなかったし、正直本気で不快な気分にさせられたことは今まで一度もない。俺は何かを試されているのか? 某かの面接でも受けているのだろうか。色々言い返したいのをこらえる。
俺の沸騰直前の感情を察しているのかいないのか、速見は楽しげに言葉を続ける。
「茅ヶ崎くんもコーヒーだけじゃなくて、好きに頼めば良かったのに。どうせ私が奢るんだし。どのスイーツも美味しいよ?」
「自分の分は自分で払う。貸しを作りたくないし」
「なるほど。そこで"自分が奢る"とは言わない人なんだ、茅ヶ崎くんは。ふふうん」
「それだけバカ食いしておいて言うことじゃないだろ」
「冗談だって、冗談」
相手がころころ笑うのが妙に気に障る。他人を勝手に分析するな、という抗議が喉元まで出かかった。努めて冷たく「で、本題は?」と尋ねる。
「本題? デートに本題なんてあるんだ?」
「俺に訊くなよ。そもそもデートじゃないんだろ」
「そう思う根拠は何?」
「何って……」
目の前に座る相手をじっと見る。彼女も影の関係者なのではないか、という俺の予想は当たっているのだろうか。転入したてにしてはこちらの事情に詳しすぎ、なおかつ二人きりで俺を連れ出す理由のある人間。そんなのひとつしか思いつかない。
でも、もしそうでないとしたら? その可能性を考慮するなら、軽々しく影の名を出すのは憚られる。現に桐原先生からは何らのサインもなかったのだ。確信か誤解か、俺はふたつを天秤にかけ続けている。天秤はどっちつかずに揺れていた。
黙考する俺に構わず、速見は食べる手と口を再開する。
「そういえばさ、担任の桐原先生だっけ? あの先生格好いいよねー。きっと頼り甲斐もあるんだろうね?」
「……何が言いたい?」
「別に? そう思ったから言ってみただけだよ」
そんな食えないことを言う。
まさか俺の思考を読んだわけではないだろうが、ここで桐原先生の名が出て、自分の中の天秤は大きく確信の方へと傾いた。速見が影の関係者でないなら、ここで桐原先生の名前を出して「頼り甲斐がある」なんて発言をする理由がないからだ。
もしかすると桐原先生もヴェルナーも知らない、"罪"に狙われている人間がいるのかもしれない。それがこの速見千雪で、それこそ彼女の存在自体が機密レベル五に相当するとか。
そこまで連想して、考えすぎではないか、と脳の冷静な部分が意見を述べてくる。速見は俺と同い年の女子で、その華奢な体格に大いなる秘密を背負っていると想像するのは難しい。何にせよ、相手の目的も正体も分からない以上、用心するに越したことはない。冷めてきたコーヒーを口に含むと、苦さが頭をすっきりさせたように思えた。
その後は当たり障りのないやり取りが続き、楽しんでいるのは速見だけだったが、本当に高校生同士のデートめいた様相を呈した。早く帰りたいのに、何が悲しくて初対面の人間が大量の甘味を食べるのを見届けねばならないのだろう。徐々に虚無感に襲われてくる。
驚くべきことに、速見はそう時間をかけずに甘味をぺろりと完食した。本人も至って普通の様子で、けろっと涼しい顔をしている。甘党にも程があるというか、好物の範疇を遥かに越えていて怖い。やがて運ばれてきた食後の紅茶にも、彼女は性懲りもなく角砂糖をどっさり投入したため、うげえ、と声が漏れそうになった。
こいつは本当にただ喫茶店に来て甘味を食べ、会話をしたかっただけなのだろうか? そんな思いも湧き始めた頃、速見が紅茶を掻き回しながら不意に唇を動かした。
「茅ヶ崎くん。君はさ、自分が選ばれた人間だ、って思ったことはない?」
その言葉が唐突すぎて、すぐには意味を図りかねる。
「選ばれた人間って、どういう……誰にだよ」
「それは、うーん。神さま、とかかな?」
「……」
小動物に似た丸い瞳が、こちらの反応を注意深く探っている。速見のにこにこ顔は先ほどまでと変わらない。が、俺には彼女の笑みが不審なものに見えてきて仕方なかった。もしかして、これから聞いたこともない宗教の勧誘話でも始まるのか?
速見はカップを一旦脇に追いやり、テーブルに肘をついて両手を重ね、そこに細い顎を乗せる。やや色素の薄い両目の奥が、いたずらっぽい光をきらりと反射するのが分かった。まるで何か不謹慎な企みをしているかのように。
「茅ヶ崎くん。僕はね、自分は選ばれた人間だって、そっち側の人間だって、そう思ってるよ。だって、他の人にはない能力があるから。茅ヶ崎くんもそうじゃないの? 君はそう思わない?」
――僕?
いつの間にか変化した一人称が、いやにざらりと耳に残る。もう帰った方がいい、今すぐ立ち上がって、コーヒーの代金だけ置いて速見から即刻離れるべきだ、と頭のどこかで誰かが囁く。なのになぜか、最後まで聞きたい、聞かなければいけない、という暗い好奇心と義務感が胸のうちでせめぎ合う。
「……新手の宗教勧誘なら、俺は帰る」
「待って待って、違うって。……影に関係すること、って言ったら分かるでしょ?」
「……! お前……」
やはりそうだったかと、相手を食い入るように見つめる。こうなるともう、相手が女子だとか男子だとかは関係なくなる。店内のしゃれたBGMに声を紛れこませるように、声量を抑えて低く尋ねた。
「お前も……そうなのか?」
「それは、僕が"罪"に狙われてるのかってこと? それとも、僕が影の一員なのかってこと?」
速見が小首を傾げると、つややかな黒髪がさやさやと肩を流れ落ちていく。ふたつの可能性を提示されて俺は押し黙った。速見が影の一員かもしれない、という発想は自分の中にはなかったのだ。
俺と同じ学年の高校生が、影の一員。そんな可能性もあるっていうのか? まごついていると、速見はゆっくりと人差し指を立て、弧を描いた口元にその細い指先を当てる。
「さあ、どうかな? 本当のことはまだ内緒」
「まだって……どういうことだよ」
声が上ずりそうになってひやりとした。速見の背後に、何か大きな存在みたいなものを感じ、肌がぴりぴりする。同学年の女子と対面しているだけなのに、その事実が信じられないくらいに雰囲気に飲み込まれ、自分が緊張しているのが分かる。
速見は退けていたカップをぐいっと呷り、やおら立ち上がった。こちらに、小さな掌をすっと差し出してくる。
「そろそろ出ようか。君に僕たちの力を見せてあげる。外の方が都合がいいから」
俺は当然、その手を取らなかった。
もう日暮れが近い。この時期、陽が傾くと足元から急速に冷えてくる。
速見は駅前から遠ざかるように、人気のない方へない方へとずんずん進んでいく。彼女は本当に何者なのだろう。さっきの喫茶店での会計の際も、財布にぎっしりと紙幣が詰まっているのが目に入ってしまった。清廉な第一印象とは異なり、もしかしたらだいぶヤバい人間なのかもしれない。
「ここらへんでいいかな」
立ち止まったのは、窓ガラスが無残に割れた空き家のあいだにある、立ち入り禁止のロープが張られた寂れた売り地だった。草がまばらに生えてはいるが、全体的には地面は平坦で、均されてからそう時間は経っていなさそうだ。速見はためらいなく、そのロープをひょいとジャンプして越えていく。