僕らのこと トリック・スノウの来臨(4/7)
先生が一旦ドアまで戻り、そこに待機していた転入生を迎え入れる。うちの制服を着たすらりと背が高く姿勢の良い生徒は、教壇に着くと教室を見渡して、垂れ気味の眉と目を緩ませてほほえんだ。
「初めまして、速見千雪といいます。よかったら仲良くして下さいね! よろしくお願いします」
そう如才なく自己紹介して長い黒髪を揺らし、千雪と名乗った女子がぺこりと会釈した。
てっきり男子が来ると思い込んでいたらしいクラスメイトたちが、色めき立っているのを感じる。千雪が都会的な空気を纏い、見目も整った女子だからなおさらなのだろう。あまり興味のない俺でも思わず注目してしまうほどに彼女は色白で、くりくり動く黒目がちの眼も印象的だった。
「それじゃあ、速見にも席に座ってもらって――」
先生が空いている机を指すと、速見は優雅な動作で壇上から降り、腰まである髪をなびかせる。クラスの大多数がほうっとその様子に見入っていたが、俺が転入生について興味があるのはただ一点、この桐原先生の復職日というタイミングでこのクラスに転入してきた彼女が、"裏の世界"に関わっている人間なのかどうかについてだ。偶然だけで片づけるにはあまりに出来すぎている気がした。速見が影や"罪"の関係者――例えば俺のように"罪"に目を付けられた人間――であるなら、桐原先生から何らかのサインがあるに違いない。
先生の一挙手一投足をじっと注視していたものの、目配せや手振りなどの合図と思われるものは何もなかった。そういうわけで、俺は転入生に対する興味をそこで完全に失う。華々しい空気をまとった彼女は、明らかに俺とは違う層の人間だった。
その後、一人増えた教室での放送朝礼や授業は恙なく進んでいく。休み時間になると速見はクラスメイトの女子に囲まれ、さっそく盛り上がっていた。
「速見さん、モデルさんみたいだよね!」
「そうかな? 街のスナップに何回か載ったくらいだけど」
「それって東京でってこと? すごーい! 原宿とか? 渋谷?」
そんなきゃいきゃいとした会話が漏れ聞こえてくる。何人かの男子が女子の集団を羨ましげに盗み見ていた。
俺は転入生よりも、久しぶりに桐原先生と学校で話したかったのだが、彼も彼とて常に数人の生徒に囲まれており、戦略的撤退を選ばざるを得なかった。まあいざとなれば影を口実にして家で会えるし、と自分を強いて納得させる。先生の方は明日になれば多少は落ち着くだろう。今日のところは諦めて時間割を消化することにする。
俺の人生における大事件――ともすればルカの来襲以上の――が起こったのは、その日の最後の授業が終わった直後だった。
自分の席で鞄に必要なものを入れ直しているとき、ふとそばに人が近づく気配がある。未咲かなと見当をつけ、原稿はできたのか、という問いを舌の先に用意してから顔を上げた。
そこに立っていたのは果たして未咲ではなかった。決して交わらない存在であるはずの転入生・速見千雪が至近距離にいて、思わず体が仰け反りそうになる。
「こんにちは。君が茅ヶ崎龍介くん?」
それは問いではなく確認だった。朗らかに笑んだ速見の声はフルートを思わせる優美さで、なんだか甘く芳しい匂いが漂ってきて気後れする。そわそわとこの場から早く逃げ出したい気分になった。なんで俺なんかに話しかけてくるのだ。
冷や汗をかくような心持ちで、そうだけど、となんとか肯定するや否や、相手がずいと身を乗り出してきて、俺の机に両手をつく。
「ね。このあと、放課後の予定は何かある?」
「いや……」
目一杯椅子の背もたれに体を押しつける。ぐいぐい来る人間は女子であれ男子であれ苦手だった。
そのうえ、教室中の視線がこちらに集まっているのを感じる。みんななぜ転入生がいきなり問題児である俺に話しかけるのか、不思議に思っているのだろう。俺だって不思議だ。この場から一刻も早く可及的速やかにいなくなりたかった。このときほど透明人間になりたいと願ったことはない。
それなのに、相手はさらなる特大の爆弾を放り込んできた。
「それなら、これから私とデートしよう」
「は……?」
ざわっ、という音にならないざわめきの気配。
目尻を下げてほほえむ速見の前で、俺は蛇に睨まれた蛙のごとく萎縮し、たじたじになっていた。このシチュエーションを切り抜ける方法が分からない。悪夢なら醒めてくれ。
「いや、なんで……」
「駄目な理由なんてないでしょう? 君は彼女もいないし、部活もやっていない。予定がないなら、今くらい私に付き合ってもいいんじゃない?」
「ええ……と」
なんでそんなに詳しいんだ、と胃の底あたりが寒気に襲われる。初対面のはずの人間にデートを申し込まれるなんて恐怖でしかなかった。しかも相手は何故かこちらの事情に異様に詳しいときている。どう考えてもおかしいし怪しい。「速見さんと茅ヶ崎くんって知り合いなの?」という周囲からのひそひそ声が耳に届く。いいや、そんなわけはない。俺はこんな奴は知らない。
浴びせかけられた矢みたいに、四方八方からの視線が突き刺さる。腋の下あたりを嫌な汗が伝う。前方にいる得体の知れない転入生は微笑してはいるが、目の奥に少々剣呑な光を灯している。逃げ出すタイミングは既に逸していた。
ごく小さい声で渋々、分かったよ、と速見の申し出を了承するほかなかった。
相手はぱあっと笑みを深くし、やにわに俺の袖を掴む。そのまま引っ張られてほぼ連行される形の俺を、まだ教室に残っていた未咲がじっとりと睨んでいて、衝動的に死にたくなる。
長いストレートヘアをさらさらなびかせ、アーケードの下を進む速見。その後ろを、不承不承の重い足取りで着いていく自分。タイツに包まれた彼女の脚のリズムは軽やかで、訳は知らないが楽しそうですらある。
速見に対する俺の感情には、今のところ不信感しかなかった。着いていった先に屈強な男が三、四人いて、一も二もなく拘束される、なんてことはないよな。あちこち見渡して警戒しながら、速見に疑問をぶつける。
「なあ、俺たち初対面なんだよな?」
「そうだよ? あ、どこかで会ったことないかって、これからナンパするつもりだった?」
「そんなわけないだろ! 大体、どこまで行くつもりだよ」
「そんな遠くないよ。あともうちょっと」
返る声は取りつく島もない。
教室から引っ張り出されたところで腕を解放された、まではまだ良かった。折を見て途中で逃げてしまおうと隙をうかがう俺を、速見は絶妙のタイミングで振り返ってきて、そのたびに威圧感のある笑みを浮かべてきたのだ。その表情は確かに柔らかいのに有無を言わさない迫力があり、俺は次第に戦意を喪失した。こうなれば早く用事を済ませる方向に集中するしかない。
速見は商店街の横路へ入り、迷いなく裏路地を進んでいく。こんなところ、俺でも来たことがない。転校してきたばかりだというのが信じられないほど、その足取りは躊躇がなかった。
やがて辿り着いたのは、個人が経営するしっとりした雰囲気の喫茶店であった。
「ここね、フルーツサンドが美味しいお店らしいんだ。引っ越す前から来てみたかったんだよね。さ、入ろ」
歌うような速見の言葉が、俺にはなぜか判決文のように聞こえた。
店内にお客はまばらで、低くクラシックだかジャズだかが流れている。速見は観葉植物がたくさん置かれた店内の奥へと進み、一番隅のテーブル席に陣取った。そのままメニュー表を見ながら楽しげに品定めを始める。今から一体何が始まるのか内心戦々恐々としながら、俺はホットコーヒーを頼むことにした。
メニューを訊きに来た女性に注文を告げる。速見はここの名物らしいフルーツサンドを頼むのだろうな、とぼんやり思っていると、
「私はイチゴサンドと、バナナサンドとキウイサンドとオレンジサンド、マスカットとグレープサンドに、あとモンブランとチーズケーキと……」
怒涛のオーダーが始まって俺も店員も呆気に取られた。速見は凍りつく空気を意に介さず、延々と注文を続ける。一人で食べる量じゃあ全然ない。一体どういうつもりなんだ。そんなに食えるのか?
やっとオーダーがストップし、青い顔をした店員が注文を繰り返す。もはや帰りたい気持ちが最高に高まっていたが、せっかく注文したコーヒーを飲まないのも癪だ。「以上でよろしいですか?」との確認に頷く速見の笑顔には、憎らしくなるほど一点の曇りもない。
どこかほっとした様子で踵を返そうとする店員の女性を、なぜか速見は呼び止めた。ああ、さすがに品数を減らすのか、食べられるわけないもんな、と胸を撫で下ろす俺と店員の思いは、
「やっぱりチョコケーキと抹茶パフェとプリンアラモードも下さい!」
無邪気な速見の声に打ち砕かれる。店員の顔は完全に引きつっていた。