僕らのこと トリック・スノウの来臨(3/7)
「茅ヶ崎、二枚目の写真も見てくれ。そこに、今の"罪"の首領が写っている」
桐原先生に水を向けられ、え、と思わず声が漏れた。写真を持つ指に無駄な力が入り、ごくりと唾を飲みこむ。人類の殲滅を目論み、ルカのような危険人物を意のままに操る人間。どれだけ恐ろしい姿をしているのだろう、と薄目になりながら俺は下に重ねられた写真を見た。
「うわ……」
半目にしていた両目を見開く。視界に飛びこんできたのは予想外の人間であった。とても綺麗な人。それが率直な第一印象だった。
ルカとは違い、ポートレイトのようにくっきりした写真。線が細く、肩まで銀髪を伸ばした中性的な容貌の人物が、こちらをじっと見つめ返している。背筋が冷えるほどに、その顔立ちは恐ろしく整っていた。まるで作り物のように。
テロリストの首領とあまりにも結びつかない人物像に、俺は少なからず動揺した。
「本当に、この人が……?」
「ああ。名はディヴィーネ。まだニ十五、六の男だ。まあ、名前は偽名だろうけどね」
「ディ、ヴィーネ……」
馴染みのない発音を舌の上で反芻する。もう一度写真の顔をじっと見た。この先、もしかしたら人生が交差するかもしれない人間。その顔かたちを、料理の工程で材料を裏ごしするように、脳に丁寧に刷りこませていく。
そろそろいいかい、とヴェルナーに声をかけられはっとするまで、俺は彼の写真にじっと見入っていた。
「ほどほどにしといた方がいいよ。そいつには人を惹きつける魔力があるみたいだから」
「魔力、って」
「ああ、ただの比喩表現だよ。でも、あながち冗談でもないかもな。こいつのために、若者がたくさん命を投げ出してるのは確かだから」
俺から写真を受け取りながら、ヴェルナーはさらりとそんなことを口にする。世界の日常風景が描かれた薄い書割、その裏に広がっている、想像したこともない広大な暗闇。俺はそちらへ、一歩一歩近づいているような気がした。
目の前の大人二人は目配せをして、浅く頷き合う。
「とまあ、君に授けたい知識はひとまずこんなところかな。今後に活かしてくれ、坊っちゃん。活かす機会が来ない方がいいかもしれんけどな」
「どうやら君は、奴らにとって特別な存在のようだ。こういう言い回しは個人的にはしたくないが……そのことを十分自覚して、行動してほしい。お偉方からの伝言だ」
「……分かりました」
これから俺は、身の振り方をどうしていけばいいのだろう。戸惑いもあったが、しっかりと顎を深く引く。
全身に力が入る俺を見て、ヴェルナーがふっと破顔した。
「そこまで深刻に捉えることもあるまいよ。明日になればこいつも退院するし、護衛は手厚くなる。ま、病み上がりでどれだけ戦力になるのか、個人的には正直疑問だけどな」
「見くびるなよ、ヴェルナー。すぐに万全の状態に戻してみせるさ」
「言ったな? 俺は忘れねえぞ」
「ああ、脳に百回刻んでおけ」
桐原先生は挑発的に台詞を返すと、俺の入室時に持っていた数枚の紙を持って、バルコニーへの扉をおもむろに開ける。あれらの紙にはおそらく、俺に授けられた情報たちが書き込まれているのだろう。
晩秋の乾いた寒風が室内に吹きこんでくる。先生はちらと曇天を見上げたあと、手に持った銀色のライターで紙に火を点けた。赤く燃え上がった炎が一瞬で紙を舐め尽くして、風が灰を彼方へと運んでいく。
少しだけ先生と世間話をし、暗くならないうちに辞去することにした。二人に挨拶を告げ、病室を出ようとドアに手を伸ばした、ちょうどそのとき。
扉の向こうがノックされ、虚空を掴む自分の指越しに、ドアがするするとスライドしていく。おや?と思っていると、目線の下の方に知った顔が現れた。
「あ」と驚きの声を上げ、ぱっちりした目をさらに丸くしているのは水城先生である。いつものスーツ姿ではなく、頭にはもこもこのニット帽を被り、全体的にふんわりとした可愛らしい私服姿だ。学校ではシンプルな髪型やアクセサリーも凝っている。
俺と視線が合うと、水城先生はあせあせした様子で笑みを作った。漫画なら頭の周辺に汗が描かれるところだ。
「こ、こんにちは! 茅ヶ崎くんも桐原先生のお見舞いに来てたの?」
「お見舞い……まあ、そんな感じです」
「そそ、そっか、偉いね! 私と一緒だねっ」
彼女の様子はどことなく何かを誤魔化しているような雰囲気で、うきうきした気持ちが隠しきれず滲み出ている全身から、色々と察するものがあった。
水城先生と入れ替わりに廊下に出た俺は、好奇心からちらりと室内を振り返ってみた。二人の先生は眩しいものを見るみたいに、互いが目を細めて見つめ合っている。水城先生が桐原先生を見る眼差しは優しさそのもので、教室で見るそれとはまったくの別物だった。彼女がヴェルナーとも顔見知りらしいのが俺には驚きだったが、あちらにも事情があるのだろう。
病室から遠ざかりつつ、あれが仲睦まじいということなんだろうなと、胸に広がるじんわりした温かさを感じながら考えた。
月曜日。待ちに待った桐原先生の復職日である。
HRが始まる五分前に教室に入ると、いつもと違うささやかな熱気がそこには満ちていた。そわそわと落ち着かないクラスメイトたちが、抑えきれない興奮を低く囁き合っている。担任が戻ってくるからか、と見当をつけて席に座るが、どうもそれだけではないらしい。耳を澄ますと、色んな会話が次々に飛び込んでくる。
「桐原先生、やっと戻ってきてくれるの嬉しいわ~」
「分かる。なんか別の先生だと全然理解できないよな」
「それ。俺自分が数学得意じゃないんだなって思った」
「ねえねえ、今日から転校生が来るってほんとかな。机増えてるよね?」
「こんな時期に? それに転校生じゃなくて転入生だから」
「細けえな。なんか、"みちひろ"って名前らしいよ」
「じゃあ男子じゃん、格好いいといいな~」
「夢を見るな、夢を」
転入生? 噂が本当ならすごいタイミングで来るものだ。桐原先生も復帰後すぐにそんな仕事があるとは想像していなかっただろう。
自分の席に着き、ぼんやりと未咲の席を見やる。席の主は背中を丸め、机にかじりつきそうな勢いで紙に何かを書きつけている。もう一人の幼なじみである輝が机の横に腰を屈め、何やら未咲に進言しているようだ。おそらく応援演説のための原稿だろうな、と俺は考える。
生徒会長の代替りのための選挙が近づいていた。生徒会長に立候補する生徒など例年は一人か二人らしいが、現会長の九条の精力的な活動の影響か、今回の選挙には何人もの一年生が名乗りを上げている。そのうちの一人の、俺たちと同じ中学出身の女子生徒に、未咲が応援演説を頼まれたと輝から聞いた。文章を書くのも苦手な未咲のことだ、文才がある輝の手を借りているのだろう。
文化祭が終わってから、未咲とほとんどまともに話せていない。誰かが意図的に俺たちの邪魔をしているのか? そう疑いたくなるほどの絶妙な間の悪さである。
桐原先生が教室にゆっくり入ってきたのは、HRのチャイムが鳴るまでまだ間がある時刻だった。伸びていた髪も日曜のうちに切り揃えてきたらしく、入院する前と同じさっぱりとしたシルエットになっている。皆がその姿を認め始めると、ざわめきが不思議なほどぴたりとやみ、教室中から自然と拍手が巻き起こる。彼を毛嫌いしている未咲すら、ペンを置いてぱちぱちとまばらに手を打った。あちこちからの「お帰りなさい」「お帰りなさい!」のコールに、当の桐原先生はだいぶ戸惑っているようだった。
「あー……私の不注意でしばらく穴を空けてしまってすまなかったな。今後はこのようなことがないように気をつけるから、またよろしく頼む」
先生が小さく頭を下げる。クラスメイトの中で本当の入院理由を知っているのは俺だけだ。生徒に対する彼の律儀すぎる様子に、なんだかほほえましくなる。
彼は自分の復帰は些細な事柄だと言わんばかりに、話題を次へと進めた。
「今日は出席を取る前に、君たちに伝えることがある。今日からこのクラスに転入生が一名、加わることになった。朝礼の前に紹介しよう」
その言葉に、ひそひそ、ざわざわ、と場がさんざめく。本当だったんだ、という軽い驚きの声と、期待の雰囲気が広がっていく。
高揚する空気とは裏腹に、転入生というのは大変だよな、と俺はひねくれたことを考えていた。迎える方はどんな生徒なのかと少なからずわくわくするものだし、自分が転入生だったら教室中のがっかりする気配に耐えられないだろう。