僕らのこと トリック・スノウの来臨(1/7)
彼らは指命を帯びて、遍市へやってきた。
夕日が街並みを朱く染め上げる中、河川敷からターゲットの住まいの方角を眺める彼らは、密やかに軽やかに、会話をする。
「茅ヶ崎龍介くん、か。どんな子だろうね」
「さあね。僕たちを少しでも楽しませてくれればいいんだけど」
「そうだね、楽しみだ。下調べもしてあるし」
「じゃあ、月曜日の誘導は頼む。上手くやってくれよ。先生も期待しているし」
「分かってるよ。見ててね」
「見てるよ、一番近くでね」
彼らのうちの一人は涼風に長い髪をなびかせ、その足元には短い髪の影が伸びている。
* * * * *
―茅ヶ崎龍介の話
桐原先生の退院も明日に迫った土曜日、俺は彼の病室に呼び出された。先週にルカの襲来があったばかりだから、これはただ事ではないと気を引き締めて病院へ赴く。
消毒液と人の生活の匂いが混じった、拒絶と親しさが同居する独特な空気を感じながら、白っぽい病室の白っぽい扉をノックする。引き戸の向こうでは、先生が窓辺に置いた丸椅子に腰かけ、数枚重ねた紙を何やら難しい顔で睨んでいるところだった。
顔を上げた彼と俺の目が合い、先生の表情がやんわりと緩む。彼の髪は約一ヶ月に及ぶ入院生活で目に見えて伸びており、襟足や目元にかかった毛先には癖も出てきている。それがどこか気だるげな雰囲気を醸し出していて新鮮だった。
「よく来てくれたな、茅ヶ崎」
「こんにちは。横になってなくて大丈夫なんですか」
「ああ、もう怪我自体は治ったからな。むしろずっと体を動かしていたいくらいだ。入院中にだいぶ鈍ってしまったから」
そう言いつつ、入院着の上にカーディガンを着た先生が、俺のためにベッドの傍らから椅子を運んでくる。勧められて、その丸椅子にちょこんと座る。
「それよりも、すまないな。休日に呼び立てしてしまって」
「いや、全然大丈夫です。予定もなかったし」
「そうなの? 若いのに寂しいねえ、坊っちゃんは」
割り込んできた声にびくりと肩が跳ねた。いつからそこにいたのだろう、カーテンの裏側から仰々しく登場してきたのはヴェルナーだ。鮮やかなブルーのハイネックニットにブラックデニムを合わせ、ジャージ地のジャケットを羽織っている。
「なんでヴェルさんもいるんだよ」
「ちょっとォ、なんか錦と態度違くなーい? お兄さん妬けちゃうな~。こんな密室に二人きりで何しようとしてたのかな?」
「何って……話だよ」
「それだけ~?」
「ヴェル、ちょっと黙ってろ。そうでなければ私が貴様を永遠に黙らせる」
「やだー、怖ーい」
桐原先生に凄まれても、ヴェルナーは一切悪びれる様子はなく、けらけらと笑っている。体育館での一件の際に見せた引き締まった横顔はどこへやら、なんとも気の抜けた緊張感のない表情だ。
桐原先生がおほんと咳払いし、空気を改める。腰かけて静かに話し始める先生の話を、俺は椅子の上でやや前傾姿勢になりながら、ヴェルナーはベッドに腰かけ、腿のあいだで手を組みながら、聞いている。
「文化祭当日の一件については、ヴェルナーからすべて聞いた」
そう切り出され、やはりそれ関係か、と内心で得心する。体育館にいたたくさんの生徒たちが眠らされた、あの十数分の出来事。未知の闇との邂逅。あの時の複雑な心情が下から湧き上がってきて、膝の上で無意識にぐっと両拳を握る。
先生の視線がすい、とこちらに向けられた。
「その上で君に尋ねたいんだが――"蕾"という言葉に、心当たりはあるのか?」
「いや……それが、全然」
返答はどうしても歯切れが悪くなった。俺自身、寝る前に天井を見つめながら何度も何度も考えたけれど、一向に分からなかったからだ。
桐原先生はそこで立ち上がり、思索するように病室の中をゆっくりと歩き回り始める。
「そうか。では質問を変えよう。君と"罪"との関わりについてだ。君は昔、誘拐されたことがあるんだったね?」
誘拐事件の顛末を先生に伝えたことはないはずだが、きっと影のつてで聞いているのだろう。それしきのことではもう驚かないし、何とも思わなくなった自分がいて苦笑する。
「そうです。山羊の被り物をした人たちに……」
「なるほど。おそらく彼らが"罪"のメンバーか、組織の息がかかった人間であったのは間違いないだろう。その時彼らに、何かされなかったか? 思い出すのが嫌なら、無理に答えなくても大丈夫だ」
立ち止まった先生が俺を真っ直ぐ見つめてくる。そこには気遣わしげな色があった。確かに俺にとって、あの夜の記憶は恐怖そのものでしかなかったけれど、今はルカのような現実の存在の方がはるかに怖いし、物理的に差し迫っている肌触りもある。眉間を押さえ、記憶の中の細い糸を懸命に手繰り寄せた。
「そういえば、その人たちに……何か飲まされました。たぶん小さい粒みたいな、薬くらいの大きさのやつを――」
言いかけて、俺の口を無理やり開かせる手の感触が驚くほど鮮明に甦った。フラッシュバックが引き起こした悪寒が、胃の中のものをせり上がらせる。慌てて口元を押さえると、先生がそばに来て背中をさすってくれた。大きな掌の感覚に、胃のむかつきはすうっと治まっていく。
「すまないな、思い出させてしまって。大丈夫か?」
「はい……」
「それで坊っちゃん、そのあとは? ブツを飲まされてから、何ともなかったのか?」
前のめりになったヴェルナーが訊いてくる。俺の心情は彼にとってはどうでもいいらしい。何も、とぶっきらぼうに答えると、閃いたとばかりに尋ね主がぱちんと指を鳴らした。
「分かったぜ、そいつだ。その飲まされたのがカプセルか何かで、中に珍しい植物の種でも入ってたんじゃねえか? 年月が経って、坊っちゃんの体の中で、芽生えが今や蕾に成長したって筋書きよ」
「"蕾"は文字通り蕾だというわけか? しかしな……」
ヴェルナーの推理を受け、桐原先生は渋い表情で眉をひそめる。
「人体の内部で何年も種子が排出されずに、しかも花が咲く手前まで成長するなんて……現実的じゃないだろう。当時、わざわざ茅ヶ崎を選んだ必然性も感じない。"蕾"はもっと婉曲的な表現だと考えるべきではないか? それに、こう言っては悪いが……」
「そうさな。その蕾が欲しけりゃ、坊っちゃんの生死は問わねえはずだ。わざわざあれほどの大物が日本まで来て、あんな大それたパフォーマンスめいたことをやる必要も、言葉を交わす必要もないだろうな。ちぇっ、割といい線いったと思ったんだが」
つらつらと論理を述べたヴェルナーは、すべてを投げ出すようにしてベッドにごろりと横たわる。本人がいる前で"生死を問わない"発言をした男を、憤慨の形相で桐原先生が睨む。
「ヴェル、貴様は本当に……気遣いという言葉を知らんな……」
「先生、いいですよ。もう慣れたし、気にしてないんで」
今にも掴みかかりそうな先生の腕を慌てて引いた。
「そうか? 君は寛大なんだな……。まったく、辞書の『無神経』の欄にヴェルナー・シェーンヴォルフの名が載る日も近いだろうよ」
「何それー、格好いいね」
皮肉の真意に気づいているのかいないのか、赤毛の色男は寝転がったまま、あっけらかんと邪気なく笑う。
「んまあ……正直謎だらけだが、分かったこともあったな。まず坊っちゃんは"罪"にとって、我々が思ってたようなただの脅威じゃないってこと。そして相手の狙いが、坊っちゃんの命を奪うことではないこと。最後に坊っちゃんが生きてるのが重要らしいこと。この三点だ」
ここまでの話をヴェルナーがまとめ、そうだな、と桐原先生も納得する。その先生が続けざまに、くるりと振り向いて俺の目を見つめてきた。