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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
103/137

どこかのこと・回想 月光と瞑目(3/3)

 青年は少年の様子をじっと観察していましたが、おもむろに少年の手を引くと、薄暗い裏道へと連れていきます。


「何があったんだい。ぼくに話してごらん」


 青年は穏やかな声音で問いました。

 少年は、既に彼は一から百まで承知なのではないか、という不思議な思いを抱きながら、神父さんに話したように、たどたどしくもすべてを伝えました。神父さんの前で嗚咽おえつしたのが、まだ今日の夕方の出来事だなんて、少年には信じられませんでした。

 天使にそっくりな容姿の青年が、少年の頭を撫でます。


「君にいいことを教えてあげよう」


 青年は、ほほえんでいるように見えました。


「この世には、神なんていないんだよ」


 そう、神さまに祝福されて生まれてきたはずの青年は言い放ちました。

 少年は口をぱくぱくさせます。ショッキングな台詞に、口の中がからからに乾いていました。


「そん、な……こと……」

「だって、考えてもみてごらん。君には豊かな才能がある。それが神からの贈り物なのだとしたら、どうして君に、こんなむごい仕打ちをするだろう」


 青年の言葉は、ひたひたと打ち寄せる冷たい波のように、少年の心を浸食していきます。

 だったら彼はなぜ、礼拝堂で神父さんの話にじっと耳を傾けていたのでしょう。もう、少年には何もかも分かりません。分かりたくもありません。少年の目は、それ以外に機能を失ったかのように、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし続けます。


「帰るところがないなら、ぼくと一緒に来るかい」


 それは、雲間からすうっと差す月の影のような、絹の肌触りのような、なめらかな声でした。少年は青年の顔を見上げました。暗がりにいるのに、青緑の双眸はきらめき、少年の心を吸い寄せます。まるで特別な魔力を持っているようです。

 少年は、こくりと頷きました。まるで、何者かに操られているみたいに、すんなりと。

 青年はその麗貌を崩し、にこりと破顔しました。


「じゃあ、ひとつ条件があるんだ」


 青年は、仕立てのいいジャケットの内側から、何か細長いものを取り出して少年の手に握らせました。懐にあったのにそれは冷たく、ずしりとした手応えがありました。

 少年は手の中にあるものを見ます。刃渡り十五センチメートルほどの、鞘がついた銀いろのナイフでした。

 暗い予感がします。少年の声や体はぶるぶると震えます。


「な、に、これ……」

「これで君の家族を、君にひどいことをした悪魔を、殺してくるんだ。それができたら連れていってあげる」


 その声音にたかぶったところはなく、穏やかに歌うような口調でした。


「ころ、す……? 僕が……?」

「そう。君がやるんだ」


 少年の顔から血の気が引きました。

 殺す。僕が。

 あの人たちを、これで、刺す。

 現実に言われていることとは信じられず、少年の顎が振動し、歯ががちがちと鳴ります。青年はゆったりとしとやかな手を差しのべ、少年の掌ごとナイフを掴みました。


「君は憎いはずだよ、あの人たちが。彼らが、君に何をしてくれた? 彼らは君を痛めつけた。君の才能を食い潰し続けた。君はもっといい生活を送れたはずなのに。生きるのに値する人たちだと思う? 君には何もなくなってしまったのに、彼らは今までと同じように食べ、笑い、生活していくんだ。それが許せる?」


 青年の冴えざえとした言葉たちは、少年の脳髄に、ひたりひたりと冷たく浸透していきました。永い時間心の奥に追いやって、あえて見ないふりをしていた、どろりとしたくらい本能が呼び覚まされる、そんな感覚がありました。

 青年の手の内で、少年はナイフをぐっと握り直します。


「復讐するんだよ」


 青年はやはり、微笑していました。



 元の家を訪ねると、いぶかしげな顔をしたおばさんが玄関に姿を見せました。

 少年は自分の靴の足先に目を落としています。後ろ手には銀いろのナイフを隠し持って。心臓がどくどくと脈打っています。背中に、あの青年の視線を感じます。


「なんだい、まだ何か用があるのかい」

「忘れ、ものを……」

「忘れ物? この家にお前のものなんかないよ! お前にはもうこの家に入る権利はないんだ、ほら、突っ立ってないでさっさとお行き!」


 少年はゆるゆると面を上げました。おばさんが憤怒の形相で、薄汚れた野良猫でも追っ払っているように、手を勢いよく振るっていました。それは同じ人間に対するものではあり得ませんでした。

 これまでは感じることのなかった、熱く煮え返る激情が、少年の喉の奥からこみあがってきました。

 そうだ。僕は。

 この家の人たちが憎い。

 体の熱さとは逆に、頭はひどく冷めきって凪いでいました。おばさんが閉めようとするドアの隙間からするりと室内に入り、体を反転させて相対します。おばさんは怒りで顔を歪めましたが、少年が構えているものを見た途端、表情が凍りつきました。少年はナイフをしっかりと握って、おばさんに息もつかせず肉薄し、長きにわたって自分を飼い殺してきた人間の心臓めがけ、何の逡巡もなく鋭利なそれを突き立てました。

 深く、どこまでも深く。

 おばさんの顔が驚愕に染まります。顎ががくがくと動いています。少年がナイフを引き抜くと、赤くぬめる血潮がどばっとあふれでました。少年は熱い返り血にぐっしょり濡れましたが、全然気になりませんでした。

 倒れ伏したおばさんの体の周りを、どす黒い液体が彩っていきます。呼吸を止めた肉の塊を玄関に残し、少年は二階への階段を昇ります。

 おじさんは書斎の椅子に腰かけていました。階下の騒動に気づく様子もなく、机の前で背中を丸め、パソコンに何事か打ち込んでいます。少年は扉を慎重に開け、背後からそうっと音もなく近づいて、左側の首の頸動脈めがけ、ナイフを降り下ろしました。ひゅっと風を切る音がしました。おじさんの蔵書の、解剖学の分厚く小難しい本を読んでおいて良かったと思いました。

 おばさんの時よりもひどい血しぶきが、びゅう、と吹きでました。おじさんは身悶えして床に倒れこみ、血走った目で、そこにいる少年を見上げました。少年は、妙に白けた気持ちで、自分に手酷い暴力を振るった人の、最期の悪あがきのように痙攣する体を眺めていました。

 息子はいちばん簡単でした。彼はもう自室のベッドですうすう寝ついていましたので、彼の体にただ刃を突き刺すだけで終わりでした。少年の心臓はいつからか、完全に静けさを取り戻していました。三人を手にかけ終えても、何の感情も湧いてはきませんでした。短い人生を終えた息子の全身は、うっすらとした月明かりの中でもはっきり分かるほど、赤黒く濡れていました。

 階下へ降りると、照明を落としたリビングに、凶行を命じた本人がうっそりと佇んでいました。満足そうな表情を浮かべつつ、少年の元へ歩み寄ります。リビングには淡く月光が射していて、仄かな光の筋の向こうから青年が進みいでる様は、どこか幻想的な光景に見えました。

 青年が手を伸ばし、少年の顎をくいと持ち上げます。


「もう終わったかな」

「……はい」

「そう。いいになったね。合格だ」

「……」

「シャワーを浴びておいで。そうしたら出発しよう」


 少年は自分の格好を見やりました。体の前面が、三人の血にべったりまみれていました。少年のそんな姿を見ても、青年は眉ひとつ動かしませんでした。

 少年の着替えが済むと、青年はいつの間にか見つけていた鍵で、玄関をきっちり施錠しました。ねえ知っているかい、君はもう死んだことになっているんだよ、と青年は手を動かしながら呟きました。驚いたことに、おじさんは少年を社会的に抹殺してしまっていたのです。でもこれで、事件が明るみに出ても少年が疑われることはないでしょう。二人は連れ立って、みっつの骸が沈黙する家をあとにしました。

 青年に手を引かれながら、少年は彼と言葉を交わしました。


「そういえば、君の名前を聞いていなかったね」

「……。ルチアーノ……」

「そう。……ルチアーノ。今日までの君は今夜死んだ。君の名前はこれから、ルカだ」

「ルカ……」

「いいかい、ルカ。君の心も体も、今夜からはすべてぼくのものだ。これからはぼくの言うことだけを聞くんだよ。誓えるね」

「……はい。誓います」

「それじゃ、行こう。ぼくのことは、ディヴィーネって呼んでね」

「はい」


 少年は、しっかりと頷きました。

 青年の横を歩きながら、聡い少年には分かっていました。この先には地獄しかないことを。もはや後戻りはできないことを。それでもなお、青年の手を取ったのです。

 少年の中には、青年と交わした呪いめいた誓いの他は、何もありませんでした。青年との誓いだけを空っぽの胸に抱き、他のすべてのものに、目をつぶると決めたのです。

 こうしてルチアーノは死に、ルカは生まれました。

 まだ焦げ臭い空気を縫って、どこからか月光ソナタが聞こえてきていました。

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