どこかのこと・回想 月光と瞑目(2/3)
少年に日々の楽しみがひとつ増えました。
神父さんの取り計らいで、日曜礼拝のあと、音楽の先生のレッスンを受けられることになったのです。楽器はオルガンではなくピアノに変わりましたが、グランドピアノの鍵盤は、むしろオルガンよりも少年の指にしっくりと馴染みました。少年はすぐにこのつややかでどっしりした楽器が大好きになりました。
少年の腕は先生がびっくり仰天するくらいにめきめきと上がりました。最初の先生が、もう教えることがないからもっと上手な先生に代えてください、と申し出るまで長くはかかりませんでした。
少年が教えを受けているあいだ、神父さんは同じ部屋にいてくれ、にこやかに練習風景を眺めていました。レッスンの終わりには、たくさんあるクラシック音楽のCDを、立派なオーディオで自由に聴かせてくれました。お金のことは気にしなくていいんですよ、と神父さんに言われていたので、少年は少しでも早く上達して恩に報いることができるよう、集中してピアノに向き合いました。
少年のピアノの技術とは反比例して、おじさんとおばさんの機嫌はどんどん悪化していきました。
ある日とうとう、こんな時間まで何をしているんだ、何か良からぬことをしているんじゃないだろうな、人様に迷惑をかけてみろ、お前のような役立たずの愚図など、海に放りだしても誰も気にも留めないんだぞ、と問い詰められました。が、少年にはうまく答えることができません。押し黙っていると、いきなりおじさんが少年の腹を殴りました。
暴力を振るわれたのは初めてでした。衝撃で床に倒れこむ少年を、おじさんは今までの鬱憤を晴らすかのように、蹴って蹴って蹴り続けました。少年は動揺と、味わったことのない痛みと、恐怖とで身動きが取れず、背中をできるだけ丸めて、なされるがままに横たわっているしかありませんでした。
次の日曜日、少年はこれが最後だ、これを最後にレッスンを取り止めてもらおう、と心に決めて教会に出向きました。これ以上は誰かに迷惑がかかる。この幸せなひとときの思い出で、あの屋根裏の生活にもきっと一生耐えられる。少年は自分にそう何度も言い聞かせ、自らを納得させたのです。
礼拝のあと、神父さんにもうピアノを辞めたい、と伝えると、神父さんはゆったりした声でなぜですか、と問いました。少年は、理由を言うつもりはありませんでしたが、神父さんの強い光のこもった目を前にすると、その決心は緩みました。
少年はすべてを告白しました。親が死んで、遠い親戚の家で暮らしていること。学校に通っていないこと。満足に食事や服を与えられていないこと。音楽が心の支えだったこと。外出を歓迎されていないこと。昨日おじさんに詰問され、殴られ、嘔吐するまで蹴られたこと。
少年はいつしか、しゃくりあげるほどに泣きじゃくっていました。神父さんは、少年の骨ばった手を優しく握りながら、かさかさした唇が紡ぐ非道な物語に、じっと耳を傾けていました。
涙が枯れるほど泣き、すべてを語り終えた少年に、神父さんは安心して下さい、私が話をします、と言いました。
少年はきょとんとして、神父さんの顔を見つめました。
神父さんは少年を自分の居室へ導きました。こぢんまりとした、居心地のよい部屋でした。少年から家の電話番号を聞くと、ためらいなくダイヤルをプッシュします。神父さんの挙動を、少年ははらはらしながら見守ります。これから何が起ころうとしているのか、不安で仕方ありません。今日レッスンに使うはずだった楽譜を、無意識にぎゅっと抱きしめていました。
「こんにちは。初めまして。私は教会の神父を務めている者ですが……ええ、ええ、お宅のお子さんはこちらにいらっしゃいますよ。そのことでひとつお願いがあるのですが。……いえ、そうではありません。この子をしばらく、こちらに預けてほしいのです」
少年は目を見開きました。神父さんはいきなり何を言っているのでしょう。
慌ててわたわたと無為に手足を動かす少年の前で、神父さんは毅然とした面持ちで、電話に向かっています。
「この子には音楽の才能があるのです。今まで週一回ピアノのレッスンを受けてもらっていましたが、毎日ピアノに触った方が絶対にいいでしょう。もちろん、月謝を払ってほしいなどとは言いません。大切なご家族を預からせていただくのですから、むしろこちらから謝礼をしっかりとさせていただきたく……ええ、はい、そうですか、ご快諾ありがとうございます。それでは、今夜にでも」
少年は呆然としていました。電話の向こうの声が聞こえなくても、神父さんの話だけで、どんな内容か分かります。けれど、内容が理解できても、自分に訪れたまたとない機会を信じることができません。暗く長いトンネルを抜けたら、そこは天国だったのでしょうか。言葉にならない思いが胸に渦巻きます。
神父さんは、少年ににっこりと笑いかけました。とてもあたたかい、太陽のような笑顔でした。
「君はこれから私のところで生活なさい。ご家族からも許可をいただきましたし、これで毎日レッスンを受けてもらえます。今夜はご家族と食事をしてくるといいでしょう。最後の挨拶をして、それが済んだらいつでもこちらにおいでなさい」
少年の体の内側に、熱いものがぶわっと広がります。十一年間生きてきて、こんなに嬉しい瞬間があったでしょうか。
少年はまさしく天にも昇る心持ちでした。これまでにない大きな声で、ありがとうございますっ、と感謝を述べ、駆け出しました。そんな少年の後ろ姿を、神父さんは柔和な笑みで見送っていました。
家に戻ると、家族は気持ち悪いほど優しく少年を迎えてくれました。猫なで声で喋る三人の眼は、やたらてらてらと光っています。
少年は、三人とともに食卓に就きました。少年には名前の分からない料理がずらりと並んでいます。おじさんの蔵書には料理に関する書籍はありませんでした。三人と同じものを食べるのも、三人と食事の時間をともにするのも、何もかも初めての経験でした。
「良かったな、ルチアーノ。これでやっと、私たちの役に立つことができるな」
「本当に、今までどれだけ我慢と世話焼きを強いられてきたことか。私たちにお礼を返すつもりで、せいぜい頑張りなさいな」
「お前は今の今までただのお荷物で穀潰しだったんだから、これからきっちり金になることをしてもらわなきゃ」
そう言い合って、おじさんとおばさんと息子は愉快げに笑いさざめきました。少年は最後の晩餐を口に運びながら、彼らの言葉を黙って受け取っていました。少年から語るべきことは何もないようでした。
夕飯が済んでしまうと、少年はその夜に身ひとつで家を出ました。鋼鉄の檻のようなその家に、少年の持ち物は何一つとしてありませんでした。
「もう帰ってこなくていいからな」
おじさんからの餞の言葉はそんなものでした。
心地よく冷えた夜気が、少年の頬を滑って流れていきます。少年は鼻歌を歌いながら、教会への道をたどります。旋律は覚えたばかりのベートーヴェンのソナタでした。これからは、大好きな神父さんとともに、大好きなピアノの勉強を毎日できるのです。どんな素敵な語彙を尽くしても足りないほど、自分で自分の境遇が信じられないほど、少年は幸せでした。幸運を与えてくださった神さまに、何度も何度も感謝しました。
意気揚々と歩みを進める少年の鼻を、ふと、何か嫌な臭いがつんと突きました。なんの臭いでしょう。ものが焼けるような不快さが、鼻腔を埋めます。教会に近づけば近づくほど、その焦げ臭さは徐々に強まっていきます。少年の胸には暗雲が広がっています。
次の角を曲がったとき、目指す教会の尖塔が姿を現しました。
なぜかその上空の雲が、赤く染まっています。
少年が息せききって教会の前に駆けつけると、そこは黒山の人だかりになっていました。
火事です。
あの珍しい木造の教会と、隣接する神父さんの住まいは、天を焼き尽くさんばかりの炎の塊となって、ごうごうと燃え盛っていました。ばちばちと何かが爆ぜる音もします。少年は開いた口を塞げずに、しばらくそこに立ち尽くしていましたが、やがて人混みにやみくもに突っ込んでいき、人の壁からふらふらと教会に近寄りました。
火は赤々と、見上げるほどに燃え盛り、頬が焦げつきそうな熱さで、まともに目も開けていられないほどです。その目映さは圧倒的な熱量でした。教会は黒い影となり、焔の中で身悶えするように揺らめいています。消防士が水を放射していますが、生き物めいた炎は身をくねらせるだけで、勢いが衰える様子はありません。
神父さま、と少年は呟いて、熱で陽炎う教会の中へ走りこもうとしました。そんなことをしても、自分が火勢に飲まれるだけだと、少年の頭に声が響きます。それでも、少年はそうしなくてはいられなかったのです。
「坊主、何してる! 近づくな!」
誰かが叫びますが、少年の耳には届きません。
行かなきゃ。僕が。
だって、あそこに、神父さまが。
少年の体はしかし、がくんと何かに引かれて止まりました。少年がのろのろと後ろを振り向くと、そこにいたのは、いつかの礼拝で見かけた美貌の青年でした。
青年はまったく落ち着いていました。以前の邂逅でも驚嘆したうつくしさは、何ら変化していませんでした。彼は細腕で少年の肩をしっかりと掴み、どこまでも静かな光を目にたたえています。
「離し、て……。神父さまを、助けなきゃ…………」
「君まで死ぬことはないよ」
うわ言のように震える声を押し出す少年に、青年は凛とした声で告げました。
君まで。じゃあ、神父さまは。もう。
少年の口がわなわなとわななきます。全身から力が抜け、少年はその場にへたりこみました。
「さあ、おうちへお帰り。ここは危ない」
「帰るところなんて、ありません……」
声は弱々しく、蚊の鳴くようでした。少年は絶望の奈落に突き落とされていました。ついさっきまであんなに幸福だったのに、もはや少年には、本当に何もなくなってしまったのですから。これから始まるはずだった明るく朗らかで豊かな生活は、炎によって灰になり、吹き消え、永遠に失われました。