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青とエスケペイド  作者: 冬野瞠
第一部
101/137

どこかのこと・回想 月光と瞑目(1/3)

 少年はその日、月の光が射す部屋で死に、そして生まれました。

 少年が初めて人を殺したのは、十一歳の時でした。



 少年の名は、ルチアーノといいました。

 地中海に面した、南イタリアの小さな町が、少年の知る世界のすべてでした。そこは町のシンボルである、珍しい木造の教会以外には、変わったもののない静かなところです。少年の両親は、彼が幼いうちにやまいで息を引き取っており、いまは縁遠い親戚の家で暮らしておりました。

 少年は、その聡明そうな外見とは裏腹に、みすぼらしいなりをしていました。骨が浮くほどやせっぽちで、錆びかけた鋏で自ら切った黒い髪は、ぼさぼさでぱさぱさ。身につけているのは、生地が薄くなった洗いざらしのシャツに、当て布だらけのズボン、襤褸ぼろと見紛うほど汚れた靴という格好です。少年は親戚の家で、人間としての尊厳ある扱いを受けていなかったのでした。

 学校へは行かせてもらえず、与えられた屋根裏部屋は年中暗くて黴臭く、眠っていると枕元で鼠が駆け回る音がしました。食事は一日二回で、親戚の家族とテーブルを共にすることは許されませんでした。

 おばさん――といっても血の繋がりは無いに等しいのですが――は食事を運んでくる際に、部屋のドアに付いたベルをチリンと鳴らします。それを聞いたら、たっぷり十秒数えてからドアを開け、食事の乗ったトレイを部屋に引き入れるのです。なぜ十秒数えるかというと、おばさんと鉢合わせするのを防ぐためです。

 おばさんは少年と顔を合わせるやいなや、必ず金切り声をあげました。少年の琥珀色の虹彩を、狼のひとみだと言って忌み嫌っているのです。少年はおばさんを怖がらせないよう、ひっそりと食事を済ませて、用心ぶかくトレイをドアの外に置くのでした。

 少年は、本を読むことをたいそう好いていました。

 もちろん、間借りをしている家の本を手に取ることは禁じられていましたが、家人が寝静まった頃、こっそりとおじさんの書斎に忍び込み、一冊ずつ本を屋根裏部屋に運んでページをめくるのが、毎日の楽しみでした。少年は機転が利きましたので、本を抜き出すとき、跡が残らないよう細工することも忘れませんでした。家には少年より二、三歳年上の息子もおりましたが、少年のほうがその遅鈍ちどんな息子よりも、あらゆる分野においてふかい知識を持っていました。

 おじさんの蔵書のジャンルは多岐に渡っていて、少年は狭い屋根裏部屋にいながらにして、いにしえの異国で起こったいくさに思いを馳せ、大気圏外から青くうつくしい地球を眺め、ウィルスや細菌の恐ろしく、それでいて精巧な形に感嘆することができました。

 少年の楽しみはもうひとつあります。

 街のシンボルの教会で行われる日曜礼拝です。

 そこで毎週奏でられる讃美歌の響きが、少年は大好きでした。少年が外出することに、おじさんは良い顔はしていませんでしたが、神さまの手前、踏み込んだ文句は言えないようでした。

 神父さんが弾くオルガンの伴奏へ、合唱隊の面々が複雑に絡み合う旋律を乗せていきます。その音律は教会内によく反響し、芳醇なハーモニーとなります。豊かな音の波にたゆたい、浸り、至福を存分に味わった少年がきびすを返す先はしかし、いつも牢獄のような借り物の家でした。

 少年にとって、音の湯浴みとも言うべき、その時間は喜びでした。毎週の満ち足りた瞬間があればこそ、少年は閉塞感に満ちた生活にも耐えられていたのです。結局、少年が帰る場所はあの家しかないのでした。



 ある日のことです。

 少年が教会の長椅子に腰を落ち着かせ、礼拝が始まるのをいまや遅しと待っていると、見慣れぬ男性が斜め前に座ってきました。こぢんまりとした街ですから、名前は知らなくとも礼拝に来る人とは皆顔なじみです。しかしながら、少年はその男性――少年と青年の境の年ごろでしょうか――に、まったく見覚えがありませんでした。

 彼の髪は珍しい、まばゆいほどの銀白色でした。彼が羽織っている小綺麗なジャケットは、教会の素朴な調度品の中で、場違いなほどつややかな光沢を放っています。その華やかさは、そういう方面には疎い少年の目にも、明らかな高級品と映りました。

 少年がこっそり彼の横顔を盗み見てみると、驚くほど整った面立ちがそこにはあります。まるで、ルネサンスの絵画から抜け出てきたのか、と見紛うほどの人類の理想の極致と思えました。露のきらめく清潔な朝の光景も、水平線に投射される幾すじの天使の梯子も、彼の美の前ではすべて霞んでしまうでしょう。

 少年の心はうち震えました。それは歓喜でした。こんなにも彼がうつくしいのは、神の祝福を受けて生まれてきたからに違いない。大いなる超越者の介入なくしては、この美は誕生し得ない。青年の存在は、神の実在の証のように、少年には思われたのです。

 そこでふと、何の前触れもなしに、その青年が振り返りました。熱い視線を覚っていたのか、少年に向かってほんのりと麗しいほほえみを投げかけてきます。その笑みは、非の打ちどころも、一点の曇りもありません。

 少年は自分の小汚ないなりが急に恥ずかしくなり、どきまぎしながら俯きました。そして一度も顔を上げられないまま、礼拝は終わりを迎えていました。あんなに楽しみにしていた讃美歌も、今日だけは少年の右耳から入って、そっくり左耳から抜けていってしまったようでした。

 神父さんの挨拶のあと、そろそろと頭をもたげると、青年の姿はどこにもありませんでした。うつくしい微笑を少年の記憶に刻みつけて、いずこへと消えてしまっていたのです。

 はて、自分は幻でも見ていたのだろうか、と少年は首を捻りました。



 またある日のことです。

 少年以外の家族が旅行に行くというので、間借りをしている家からは人の気配が消えていました。食事は保存食で済ませ、外出は控えるようにおじさんからはきつく言い渡されていましたが、少年は夜暗に紛れ、こっそりと家を抜け出ました。少年にはしたいことがありました。それは、夜のあいだしかできないことでした。

 夜の街を、少年はほとんど見たことがありませんでした。家々からはあたたかい明かりと食事の匂いが放たれ、そこかしこで人びとががやがやとざわめき、陽気な歌を歌っている者さえいます。大通りから外れた裏路地の奥では、淀んだ暗がりに下着のような格好の女が佇み、下卑た笑みを浮かべた男と、何事か言葉を交わしています。煙草の煙が漂ってくるそこには目もくれず、少年はある場所へと駆けていきました。

 少年の向かう先は教会でした。尖塔のてっぺんにある十字架は夜の闇に沈んで見えず、日中よりも建物が一回り膨れたように、自分の体が一回り縮んだように感じます。教会はいつでも門戸を開いていましたから、夜気に冷やされた扉に手をついて力をこめると、大きな暗がりが少年を迎え、すっぽりと体を包み込んでくれました。

 屋内はひっそりと静まりかえっていました。ここだけ、時の流れから解き放たれたようにも思えます。窓から射し込む月明かりで、おぼろげながら物の形が見えました。目が慣れるのを待ってから、少年は用心ぶかく、しずしずと歩みを進めました。その先には、オルガンがあります。神父さんが讃美歌の伴奏に使う、ちんまりと慎ましいたたずまいの、足吹きのオルガンです。

 少年は礼拝に通ううちにいつしか、一度でいいからこのオルガンに触れてみたい、という願望を胸の内に育てていたのです。

 オルガンの椅子に座ると、ギギッと耳障りな音が講堂いっぱいに響きました。少年はぎくりと身を強ばらせましたが、気を取り直して足を動かし、そっと鍵盤に触れてみました。

 瞬間、少年の指先から、弾けるように音が生まれました。予期していたよりも大きく、金いろになびく麦畑のように、ふくよかな音でした。少年は指を曲げ伸ばししながら、色々な位置の鍵盤に指を乗せていきます。右にいくほど高い音、左にいくほど低い音。

 少年のなかで、何かがぱちんとぜました。それはおそらく、目覚めの合図でした。少年は、この楽器を理解しました。

 すう、と息を吸い込んで、簡素な伴奏と、大好きな讃美歌のメロディーを思い浮かべます。そして、頭のなかで鳴っている響きの旋律を、なめらかに十の指へと乗せていきます。

 少年は完璧でした。完璧に、複雑な讃美歌の旋律を再現できていました。自分の指が奏でる響きに酔いしれながら、少年はいつしか、目を瞑って演奏していました。

 やがてアーメン、の残響の終息とともに、あたりは再び静寂に包まれました。少年はゆっくりとまぶたを持ちあげます。そこで初めて、自分のすぐそばに人影があることに気づきました。少年はびくりと凍りつきました。

 そこには、驚き、呆然とした表情の神父さんが立っていました。

 長いことオルガンを弾いていたのだから当然の成り行きとも言えるのですが、少年はすっかり誰かが教会に入ってくる可能性を失念していました。それくらい、自分の世界に入り込んでいたのです。一瞬拍動を止めた心臓は、今度はばくばくと早鐘を打ちはじめました。


「あ、あの、ごめんなさい――僕、僕……」


 もつれる舌で、少年はなんとか弁明を試みようとしましたが、なかなか言葉が形になりません。そうしているうち、少年は次第に泣きそうになってきました。ぼろぼろのズボンを握りしめながら、歯を食いしばって、目の縁から滴がこぼれるのをこらえます。

 少年の反応をほぐすように、神父さんは優しげな声をかけます。


「君は、いつも日曜礼拝に来てくれている子ですね?」


 少年はびっくりして思わず、神父さんの顔をまじまじと見ました。日曜の午後のような柔和な微笑がそこにはありました。しかし少年の心は、動揺と混乱と焦燥とでいっぱいでした。

 どうしよう。まさか顔を覚えられているなんて。どうしよう。もしも家族に連絡されたら。どうしよう。こんな時間に教会に忍び込んだなんて知られたら、帰る場所がなくなってしまう――。


「僕……ごめんなさい、ごめんなさい……」


 とうとう、少年のひとみから涙があふれだしました。滴はとめどなく流れます。あんな冷たく不快な場所でも、少年にとっては唯一の居場所なのです。少年にはあの家以外、()りどころとなるものは何ひとつ無いのです。

 神父さんはちょっと困った顔をして、それでもほほえみながら、少年の頭をそっと撫でました。


「おやおや、泣かなくてもいいのに。とても素晴らしい讃美歌でしたよ。驚きました。あの曲は口伝えで歌い継いできたもので、楽譜もないのです。それをどうして弾けるんですか?」


 少年は困惑しながらも、どうやら神父さんは怒っているわけではなさそうだ、と悟りました。同時に、問いかけに対して首を傾げました。あの讃美歌は、毎週毎週何回も聴いて覚えているのです。それをそのまま鍵盤に移し換えればよいのです。それができない理由などありましょうか。

 少年は自分の思いをなかなか音にすることができず、もごもごと口元を動かし続けました。何しろ、少年は普段ほとんど人と話す機会がないのです。おじさんの家では質問は禁止されていましたし、家族から声をかけられることもまったくと言っていいほどありませんでした。心の声をどう実際の音にすればいいのか、少年には分からなくなりかけていたのです。

 神父さんは、もじもじする少年の様子から、何もかもを察したようでした。己を納得させるようにひとつ深く頷いて、厳かな声でこう言いました。


「君、音楽の教育を正式に受けたくはないですか」

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