僕らのこと 邂逅、秘密(1/3)
─茅ヶ崎龍介の話
地上の人間が月の裏側を知ることはできない。月は、常に同じ方向を地球に向けているから。
月だけでなくて、人も世の中も、同じようなものかもしれない。
「茅ヶ崎。話がある」
そう担任の桐原先生に切り出されたのは、数学の授業が終わったあと、教室のドアの外まで呼ばれてからのことだった。
先生がひどく深刻そうな、険しい表情を浮かべていたため、俺は少し驚く。
「なんですか、話って」
「……ここではできない話なんだ」
俺たちの周りを、賑々しく生徒たちが通りすぎてゆく。
先生は苦虫を噛み潰したような渋い顔をしている。歯切れが悪いのは、彼にしては珍しい。
「君、放課後の予定はあるかね」
「いえ」
「そうか。……すまんが私の家まで来てくれないか」
先生の眼鏡の奥を見つめると、真剣な眼差しがそこにあった。虫の知らせと言うべきか、なんだか嫌な予感がしたが、予定がないといった手前、行かないわけにはいかなかった。
放課後、校舎の周りには既に夕闇が迫っていて、一羽のカラスが二階教室の欄干からこちらを窺うように見ていた。
その視線を振り切って、先生の黒いセダンに乗り込む。いつも悠々とした雰囲気を纏っている先生は今、切羽詰まったような、思い詰めたような、余裕のない表情をしている。俺の心中は穏やかではなかった。一体これから何が起こるんだろう。
先生が運転するセダンは、学校から二十分ほどの場所に立つ、新しそうなマンションの駐車場へと導かれるように進んでいった。そのマンションは、小綺麗だがおしゃれすぎるということはなく、どちらかというとシンプルで機能美というものを感じさせる造りをしていた。
小中高を通じて、先生の家へ上がるのは初めての経験だった。先生も自分と同じように普通に生活してるんだな、と妙な感慨にふける。
駐車場からエレベーターに乗り、先生の部屋へ向かうあいだ、先生は無言を貫いていた。俺も何を話していいやら分からず、互いに黙りこんでいた。
先生がカードキーで自室のドアを開けると、初めに淡いクリーム色の壁が目に入る。小さめの傘立てと靴箱が置いてある玄関から、短い廊下が続いている。
そして意外なことに、部屋の中には先客がいた。
三和土からフローリングに上がったすぐのところに、長身の、燃えるような赤毛をした欧米人らしき男が立っていた。年の頃は二十代後半といったところか。整った顔には薄く笑いが貼り付いている。光沢のある黒いジャケットに鮮やかな紫色のシャツを合わせ、胸元からはクロスのネックレスが覗いていた。
派手な人だな、と俺は思った。桐原先生とは正反対だ。
「来てもらったぞ」
先生は、男がそこにいるのが当然、といった様子で声をかけた。
赤毛の男はすい、と視線をこちらに寄越し、
「初めまして。君が茅ヶ崎くん?」
ほほえんだまま、流暢な日本語でそう訊いた。
マンションの間取りは一LDKで、一つ一つの部屋が広々としており、どの部屋もほとんど生活感を感じさせないほど整理されていた。ダイニングの四人掛けのテーブルに就くよう促される。桐原先生は、腹が減ったろう、あり合わせのものしかできんが何か作ろう、と言ってキッチンへ消えていった。放課後、先生の仕事が終わるまでしばらく待っていたから、時刻はもう七時を回っていた。
椅子に腰掛けると、赤毛の男が真向かいに座って正対する形になる。担任の先生の部屋で、なぜか見知らぬ外国人と向かい合うという状況に置かれている。非常に気まずい。部屋に余計なものが無いことが、居心地の悪さに拍車をかけている気がした。
目の前の男は端整な容貌を持っていたが、それよりも、強烈な赤の虹彩と髪とが目について仕方なかった。まるで血の色だ。男は口の端に微笑を浮かべ、その深い赤をたたえた瞳でこちらをじっと見ていた。
油断してはならない。この男に心を許してはいけない。頭のどこかでそんな声がした。
「あの」
自分でもびっくりするくらい不機嫌な声が出る。
「あなた誰ですか」
「ん? そういや自己紹介がまだだったか。俺はヴェルナー・シェーンヴォルフ。呼ぶときは気楽に、ヴェルでいいよ」
謎の外国人はにやりと笑う。長ったらしい名前を知れたところで、疑問は何も解決しない。
「そういうことじゃなくて……何者なんですか、あなたは。桐原先生の知り合いですか」
「んー、まあそうだねぇ、あいつの昔の友人てところかな?」
ヴェルナーと名乗った男は軽やかに笑って、椅子の背もたれに腕をかけた。かなり偉そうな格好となる。
「しかし錦が今や学校の先生とはねえ。人生何があるか分かんねぇもんだな。君もそう思わないかい?」
男は含み笑いを漏らしながら俺の目を見た。思わないかい、と投げかけられても、思わない、としか答えようがない。俺は桐原先生が先生である姿しか見たことがないのだから。
先生を下の名前で呼ぶところを見ると、この人はかなり先生と親しいのかもしれない。生真面目な先生と軽薄そうなこの外国人、一体どんな接点があったのか想像もつかない。
俺が黙っていると、ヴェルナーが短く嘆息した。
「あのさ君……なんか俺のこと警戒してるみたいだけど、別にとって食ったりしないから。はいリラックスしてリラックス。人生にはリラックスが一番重要だぜ」
本気とも冗談ともとれない台詞のあと、ヴェルナーはうーんと伸びをして腹減ったなあと呟いた。
そうこうしているうちに、キッチンから桐原先生が戻ってきた。両手に炒飯が盛り付けられた丸皿を持っている。先生が紺色のエプロンを身に付けていたので面食らってしまった。学生が調理実習で着るような、いかにもエプロンといった形のエプロン。それがいやに似合っていて、思わずまじまじと先生を見てしまう。
「口に合うか分からんが、よかったら食べたまえ。……何かおかしいかね、茅ヶ崎」
「い、いえ」
丸皿は俺とヴェルナーの前へと置かれた。先生自身は食べないらしい。皿の上の炒飯はほかほかと美味しそうな湯気をたてている。
ヴェルナーが先生に向かっておい錦、と呼びかけた。無遠慮にも俺を人差し指で指しながら。
「なあ、このお坊っちゃん、お前の若ェ頃にそっくりじゃねーか。驚いたなあ、息子か?」
ヴェルナーの愉快そうな笑い声に対し、先生は不愉快そうに顔をしかめる。
「馬鹿を言うな、そんなわけないだろう。彼を何歳だと思っている。御託はいいからさっさと食え」
ヴェルナーはじゃあいただきまーす、と能天気に言い、遠慮なく炒飯を口へ運び始めた。
「君も食べたら? 錦の料理うまいよ」
「……いただきます」
やや逡巡してから、スプーンですくって、口に入れる。途端に香ばしい薫りが鼻腔にに広がった。ご飯はぱらぱら、卵はふわふわで、細かく刻まれてほどよく甘い玉ねぎがしゃきしゃきと音をたてた。
「……おいしいです」
「でしょー?」
なぜかヴェルナーが誇らしげに微笑んだ。それを、エプロンを脱いでヴェルナーの隣に座った桐原先生が呆れ返った表情をして見る。
「貴様はもう少し遠慮というものを覚えろ」
「えー今さらなんでよ? 料理作ってくれるようになってから何日も経ってるじゃん。それに、俺とお前の仲なんだから遠慮なんていらんだろ?」
「あのな、貴様は居候としての自覚が足りんのだ。少しくらい申し訳なさそうにせんかこのたわけが」
先生はヴェルナーに向かってくどくどと何ごとかぶつけはじめた。大体貴様は昔から云々、いい加減に精神構造を云々、そういった説教めいた文言を、ヴェルナーはもりもり食べながらへいへいと適当に聞き流していた。
小言の内容はよく理解できないけれど、なんだか母親みたいだなと思った。
「あの、ところで話って」
切り出すと、それまでこんこんとヴェルナーに言い聞かせていた先生が、はたとこちらを見る。途端に表情が曇り、目に陰が射す。
「ああ、そのことだが。この男から、話してもらう」
「そうですか。あの」
俺が促そうとするのを、ヴェルナーは手で制止するような動作を見せ、まあ待ちなさいお坊っちゃん、と芝居がかった調子で言った。
「そう慌てなさんなって。まずは空いた腹を満たすのが先決だ。日本には"腹が満たされざる者喋るべからず"という金言があるだろう」
「ありません」
「あ、そう?」
ヴェルナーは人を食った笑みを浮かべ、炒飯を食べる作業を再開する。俺も仕方なくスプーンを動かす。
そのあいだ桐原先生は、沈痛さと憐憫が入り混じったような複雑な視線を俺に向けていた。心がざわざわする。胸が騒ぐというのは、こういう状態をいうのだろう。




