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女は、腹立ちのまま乱暴に外へ出た。すると、待たせているはずのタクシーがどこにも見当たらなかった。ぐるりと見まわすが、影も形もない。腹立ちが加速し、側頭部がじんじんと痺れるのを感じながら、女はその場で足を踏み鳴らした。
「待ってろって言ったでしょう! なんでいないよの!」
乱暴にバッグを開きスマホを取り出す。検索をかけてタクシーを呼ぼうとした。呼ぶついでに怒りのままにクレームも入れるつもりだった。だが。
「圏外っ。どんだけ田舎なのよ!」
ミシッと手の中でスマホが圧力に耐えかねた音を立てたが、それすら女の癇に障った。地面にスマホを叩きつけたい衝動にかられたが、さすがにそれはどうにか耐えた。見知らぬ土地の、それも商店街や繁華街から離れた場所でスマホをダメにする愚は犯せない。
当たり前だが、今出てきた家の住人に助けを求めることは出来ない。ぱっと見た限りでは他に家はない。そうなれば、女が取れる手段は一つしかなかった。
「馬鹿にしてっ……」
一言呟き、女はタクシーで辿ってきた道を歩き出した。
歩き出して五分もせずに、女の足は痛みを訴えだしていた。女は靴も新調していたのだ。見栄えで選んだヒールは、不慣れな道と、乱暴な足取りも相まって、あっという間に女の足を苛んだ。それでもなんとか歩き続けていたが、とうとう女は立ち止まった。
靴を脱いで痛む足の具合を見る。赤くなってはいるが血は出ていない。だが、その事実は何一つ女を慰めはしない。
「なんなのよ。信じられない。あの女……。あんな白髪頭で偉そうに。まなのやつもっ……」
足の痛みも加わって、ますます女の憎悪は膨れ上がり、口からあふれ出る。ぶつぶつと呪詛のように女は罵倒の言葉を吐き突けた。それは、妙に対してであり、まなに対してであり、陸也に対してであり、今日に至るまでに女が不利益を被ったと思っている全ての相手に対してであった。
合間に挟まれるのは、自身への憐憫の言葉。どれだけ自分がついていないのか、認められてこなかったのか、割を食ってきたのか。こんなにも懸命に生きているのに。世の中は理不尽だ。女はそう心から思っていた。自分に非など一つもないと、全ては周りが悪いのだと信じ切っていた。
脱いだその靴をそのまま脱ぎ棄ててしまおうかと思案した時。女の耳に、犬の鳴き声が聞こえた。野犬だろうかと女は身をすくませる。怯えつつ周囲を見回すと、女の目に脇道と、人家が飛び込んできた。女の中から野犬への恐怖が消える。スマホをみるとまだ圏外だ。あの家で電話を借りよう。靴を履きなおしながら、そう女は決めた。
一軒家かと思ったその建物は、店だった。様々なハーブが植えられた前庭。その前庭と道の境に高さ30㎝ほどのブリキのカエルの人形が置かれている。後ろ脚だけで立ったカエルの人形は小さな看板を持っており、看板には『茶gama』と書かれていた。
外観からは何の店かは分からなかったが、女としては、なんの店でも構わなかった。少し気になったのは、行きのタクシーに乗っていた時にこの店を見た覚えがなかった事だ。真剣に外を眺めていたわけではないので、見落としたのだとすぐに結論付けたが。
木製の扉を開けると、カウベルが軽やかに鳴った。
カウベルの軽やかさに反して、店内は薄暗かった。どうやら喫茶店らしい店内に客は居ない。居たのは、カウンターの中に店主と思われる男が一人と、客席側のカウンターの下に、犬が二匹。先ほどの犬の鳴き声はこの二匹のどちらかだったのだろうと女は判断した。
店主が女の方を向いた。店内の暗さのせいで顔ははっきり見えない。
「イラッシャイマセ」
錆び付いた金属をこすり合わせたような耳障りな声だった。女はその声に不快を隠すことなく顔を顰めた。手の中のスマホを再度見たが、圏外のままだ。仕方なく女は店主に声をかける。
「電話を貸して欲しいの。タクシー呼びたいんだけどスマホが圏外で。あ、そうだ。あなたがタクシー呼んで。タクシー来るまでここで待つから」
お願いではなく、決定事項として女は店主に告げる。店主の返事を待たず、女は入り口に一番近いテーブル席に腰を下ろした。そんな女に何も言うことなく、店主はカウンターから姿を消した。
「水くらい出してから行けばいいのに、気が利かない」
はっきり口に出して言うと、その音に反応したのか、カウンターの下に居る犬が二匹とも女の方を向いた。黒い犬と灰色の犬。どちらもなかなかに大きい。犬種は分からないが、ハスキーに似ていると女は思った。じっと女を見つめてくる二匹。居心地の悪さと少しの恐怖を感じ、女は目を逸らした。
きつくなった靴から足を半分抜き、女は靴をつま先でぶらぶらと揺らした。静かな店内には、こそとも音がない。女の目の端に映る大きな犬たちも大きさに似合わない静けさを保っている。
無音の店内で、待つこと以外やることもない女の思考は、再び先ほどのやり取りへと向いた。ふつふつと怒りと苛立ちが女の中で煮えたぎりだす。
(いったいどうやってあの女の鼻を明かしてやろうか)
女の頭には、自分の立場の悪さなど欠片も入っていなかった。常若町に来る前に会った男とのやり取りなど忘却の彼方だ。それどころか、まなを使って金銭をたかろうとしていた事さえ忘れている。 今、女の全てを占めているのは妙から侮蔑と嘲りを受けた怒り。
同性から下に見られる事、それが女が一番嫌っている、いや、憎んでいることだった。
「あの白髪ババア。ちょっと見目良い年下の男が知り合いだからって調子乗って。あの男もなんなのよ。あんな女より、可愛くて可哀そうな私に味方するべきでしょ? 目が悪いの? 女の趣味が悪いのなら救いようがないわ」
ぶつぶつと再び怨嗟を漏らしつつ、女は頭の中ではどうすれば効果的に妙に嫌がらせが出来るのか考えを巡らせていく。
(やっぱりまなをどうにかするのが一番効きそう……。まなのやつ、私に盾突くなんて最悪。まなをどうにかしてやれば、私に恥をかかせたお仕置きもかねられる。でも、連れて行くには車が必要か……。ううん、連れて行く必要なんてないんじゃない? 適当な所に置き去りにすればいいのよ。口塞いで手足縛ってその辺の鬱蒼とした場所に転がして置けばいいじゃない。まながいなくなったらあの白髪女、どんな風に慌てふためくのかしら。無様な姿を想像するだけで笑える。ああそうだ、まなが私を追って来たってことにしたらどうだろう。本当の母親が良かったのねって言ってやったら気持ち良いだろうなあ)
女が妄想にふけっていると、外から車のエンジン音が聞こえた。
「来たのかしら」
携帯をまた見る。まだ圏外を示している画面をみて、女は気づいた。まなに会うと言う条件を満たしたのだから荷物を取り返すことが出来る事に。
「あの男に連絡しなくちゃ」
妙から蔑まれた腹立ちはまだ消えはしないが、目先の利の方へ女の気持ちは大きく傾いていた。
女は入り口をうかがったが、誰かが入ってくる様子はない。呼んだタクシーではなかったのだろうかと、女は靴を履きなおしバッグを持ち、扉から外を窺った。音は聞き間違いではなかったようで、前庭の向こうに車が一台止まっていた。
「ここよ! 私が呼んだの!」
女は車に向かって大きく手を振り、そのまま車へ小走りで駆け寄り、そのまま乗り込もうとした。乗り込もうとして、車の向こう側にいた人物に目を大きく見開いた。
「まな!」
そこには、つい先いほど会ったばかりのまなが一人で居た。まなは、名前を呼ばれ女の方を見ると慌てて身を翻した。
「待ちなさい!」
常にない俊敏な動きで女は車の反対側に回り込み、たどたどしく走るまなに追いつき、その襟首を掴み、力いっぱい引き寄せた。まなの小さな体は簡単に女に引き倒されてしまった。
女はまなを引きずるようにして運ぶと、ドアを開けたまま止まっていたタクシーの中へ放り込み、今度こそ自分も乗り込んだ。
走り出した車の中で、女は昂る気持ちを抑えられずにいた。運転手の存在がなければ大声で笑っていただろう。
(やった! やった! あの女、ザマーミロ!)
女は興奮で爛々と目を輝かせ、口には歪な笑みを浮かべる。
(どうしてやろう。どうとでもしてやれる。だってまなが手元にいるんだもの)
脳内に、妙に対する報復が次々に浮かぶ。その想像だけで女は楽しくて仕方がなかった。自分が受けた屈辱を何倍にもして返せるだろう事にどんどんと機嫌は上昇していった。
女はそこではたと気づいた。まなだ。そう。自分に逆らったまながいるのだ。すぐ横に。
まなに対してどす黒い感情が渦巻いた。すぐさま殴りつけてやりたい衝動にかられる。が、タクシーの中であることが女をとどめた。
暴力をふるう事だけは。
シートに倒れこんだまま動かないまなの体を女は揺さぶった。揺さぶりながら嬉々としてまなに向けて毒のある言葉を吐き出した。
「まな。悪い子にはお仕置きだっていつも言ってるよね。分かってるよね。帰ったらお仕置きだからね。まな悪い子だったもんね。まながいけないんだからね。約束破って外に出て、ひどい言葉口にして。本当、悪い子。私のこと困らせてばっかり。お母さん、まなのせいでいっつも大変なのに。なんでそんなに悪い子なの。まなみたいな悪い子いないよ? あーあ、もっと良い子が欲しかっ、きゃ!」
女の声が徐々に大きくなりだした時、突然、車が止まった。女の体が急な停車の勢いに負け大きく傾いだ。
「ちょっと! 危ないじゃ、」
崩れた態勢で後部座席から怒鳴りかけ、女は己の目を疑った。
「え?」
どうしても信じられず、ゆっくりと運転席に近づく。
「え?」
間近で見てもやはり信じられなかった。
運転席に、誰もいない。
「え? なんで?」
つい今まで車は動いていたのに。
車が急停止してすぐに女は運転手に文句を付けた。車から運転手が降りられるほどの間はなかった。もし車を降りたのだとしても、気づかないはずがない。しかし、現に運転手は居ない。なら、外に出たとしか考えられず、女は外に目をやった。
「え?」
そしてまた、己の目を疑った。
女が妙の家を訪れたのが十四時。そこから三十分もせずに妙の家を出た。その後、携帯の電波を確かめるために何度も画面を見ている。最後に見たのがタクシーに乗る前。十五時になってもいなかった。当然タクシーに乗った時はまだまだ明るかった。
なのに。
タクシーの外には、黄昏が広がっていた。
「なにこれ」
女は窓に張り付き、どれほど見ても変わることのない景色を見続ける。唐突に降りかかった事態に頭がついて行かず、疑問の言葉ばかり口からこぼれた。
窓の外を見続ける女の背後で空気が動いた。女が振り返ると、まなが体を起こしていた。女に背を向け俯いたまなの顔は見えない。それどころか、暗くなった車内ではまな自身がぼんやりとして見えた。
女はまなの肩を強く突き飛ばした。理解できない状況の苛立ちをぶつけたるためと、今、まなに動かれては面倒であったからだ。まなの体は再びシートに沈んだが、すぐにまた起き上がった。
「今大変なの! 邪魔になるからじっとしてなさいよ!」
もう一度突き飛ばそうと女が手を伸ばしたのと同時にまなが顔を上げた。
「ひっ」
女は弾かれたようにまなから距離を取った。狭い車内では当然ろくに離れることは叶わず、背をドアに張り付かせるに終わったが。
顔を上げたまなの表情は車内が薄暗いためよく見て取れない。だが、目が。薄闇の中、煌々と光を放っていた。まるで夜行動物のように。
恐怖で限界まで体を車内の端へ寄せる女に、まなはゆっくりと首を傾げた。ゆっくりと首を傾げ、ぐにゃりとその形を闇に滲ませるように歪ませた。歪み縮んだまなだったモノは、ゆっくりと手のようなモノを女に向けて伸ばした。
「きゃあああああ!」
悲鳴と共に女は車内を転がり出た。まさに、転がり出た。力が入らずもつれた足は女の体重を支えず、肩から地面に倒れこんだ。地面は舗装されていなかった。土の匂いが鼻につくがそんな事を気にする余裕はなかった。ひいひいと喉を鳴らし、起き上がれないままに、それでも女は少しでも車から離れようと、服が汚れるのも肌が擦れるのも構わず、全身で地面をはいずった。
「おや」
聞き覚えのある声がした。恐怖を追いやれないまま、女は声のした方へ顔を上げた。顔を上げた先には、夕闇に半ば溶け込むように人影があった。
目を凝らせば、そこには祭りの子供のように狐の面を頭に斜めに被った女と、寄り添う男が。
「先程ぶり。どうなさいましたか、そんななりで」
「あんた……」
からかうようなわざとらしい丁寧な口調でそう言って、うっすらと笑みを浮かべた狐の面を被った女は、妙だった。