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目を覚ましたまなは、自分が一体どこにいるのかさっぱり分らなかった。
最初に目に映った天井は、いつも見上げている天井ではなかった。訳が分らず五分ほどそのまま見上げていたが、やっぱり見覚えのない天井で。
見覚えがないのは天井ばかりではなかった。体を包んでいた布団も、頭を預けていた枕も、横になっていた寝床も、寝床が置かれた部屋も、部屋を囲む壁も、壁の大きな窓も、光が注ぐ窓の外の風景も。とにかく何もかも。見事に一つもまなの見知ったものではなかった。
恐る恐る起き上がり、まなは寝床がいつもの様に床に敷かれた薄い布団ではない事に気付いた。起き上がったばかりなのに、もう一度寝床へとうつ伏せに倒れこむ。肌触りのいい布の感触と、程よい柔らかさ。気持ちが良くて、コロンと今度は仰向けになってみる。右向きになったり左向きになったり、またうつ伏せになったり。
ここがどこだかわからない不安をよそにやって、いつもの布団では決してできない事をまなは楽しんでいた。
「朝から元気だねえ」
かけられた声に、枕を抱え丸まりながら寝床を転がっていたまなはガバリと体を起こした。声の主をまなは一瞬誰だか思い出せず、瞬きを三度ほどしてからやっと、自分を連れ出した相手であることを思い出した。
今いる場所が見覚えないのも道理。まなは見知らぬ家へ連れてこられたのだから。
「おはよう」
「うん」
「うんじゃなくて。お、は、よ、う」
「お、は、よ、う?」
「そう。これからは朝起きたらそう言うんだよ。いいね」
「うん」
「よし。じゃあおいでな。朝ごはんにしよう」
促され、寝床の端へ寄ると寝床と床とにはまなからすればいささかの高さがあった。不思議な布団だと、高さに感心していると目の前に手が差し伸べられる。
「ベッドは初めてじゃないだろう?」
「べっど」
「こういう、床にじかに布団を引くんじゃない高さのある寝床の事さ。昨日までもベッドだったろう」
言われて、まなは首を傾げた。
「ない」
「私が迎えに行くまでにいた場所でベッド使ってたじゃないか」
「おうち、ない」
「まなの家じゃなくてね」
「お、はな、ばたけ?」
かみ合わない内容に、妙がまじまじとまなを見つめる。
「……まな。お花畑から戻って私が迎えに行くまで、どこにいたか覚えてないのかい?」
「……おうち?」
まなは自信なさげに答えた。実際、自信はみじんもなかった。記憶を辿ってみても思い出せるのは、家とお花畑だけ。
妙は、それ以上まなに言い募ることはしなかった。
「いいよ。これからはここで寝るんだよ。慣れておくれね」
「たのしい」
「なら良かった」
妙の手をとり、ベッドのふちへ腰かけたまなは慎重に床へ足を伸ばす。木の床のつるりとした感触がつま先に触れ、そのままぺたりと両足を付けた。ほんのりひんやりとしていて、でもじんわり暖かみを感じる床の感触。それもまた、まなが知るものとはずいぶん違う。
「それ、やっぱり大きいねえ」
「ん?」
「今着てるやつだよ。パジャマにならいいと思ったんだがだぶだぶだ。肩が落ちちまう」
まなが着ているのは、体が泳いでしまうほどサイズが合っていなTシャツだった。前面に大きく描かれているペンギンが可愛らしいTシャツなのだがまなには大きすぎて、まるでワンピースのようになっている。
「あとでちゃんとしたのに着替えようね」
妙と手をつなぎ部屋を出て、廊下を少し行くと階段があり、階段の下には、さっきまで寝ていた部屋よりもさらに広い部屋が広がっていた。階段で隠れて見えない部分にも部屋があるようだ。目を覚ました部屋だって、まなには十分広い部屋だったというのに。
手をひかれながら階段をおり、大きな窓に面した明るい部屋へ導かれるとローテーブルにはまなの顔よりも大きい皿とまなの顔くらいの皿に簡単ながら二人分の食事の用意が整っていた。
大きさの違う皿には、全く同じ内容の料理が盛られている。とろりと半熟なスクランブルエッグ、カリカリに焼かれたベーコンとほんのり焼き色のついたアスパラガス。カップには小さく刻まれた野菜がたくさん入ったコンソメスープ。
妙は、まなに小さな皿の前に座ることを言いつけ、自分はその向かい側に座った。まなの側には分厚いクッションが置かれていて、その上に座るとテーブルの高さがまなにもなんともちょうど良い具合だ。
「パンはどのくらい食べる? 半分じゃ多そうだね。こんなもんでいいかい?」
三分の一ほどにナイフで切られたトーストが平皿の空いたスペースに置かれる。
「残念ながらジャムはないよ。何か飲むかい?」
「にゅうにゅ」
「ん? ああ、牛乳か。よしよし」
立ち上りキッチンに消えた妙は、戻ってくると片手に大きな瓶に入った牛乳、もう片方にマグカップを持って戻ってきた。マグカップになみなみと牛乳を注ぎ、まなの前に置く。
「食べようか。いただきます」
「い、たきま、す」
まなが妙を真似て言うと、
「そう。食べる前にはいただきます。食べた後にはごちそうさま。小さいうちにこそ挨拶はきちんとね」
「う、ん」
「スープと牛乳をこぼさないように」
「うん」
昨日の失敗を思い出したのか、まなは力強く答えた。
と、首をかしげ、
「んー?」
「どうした?」
「ちやこさん、いない」
「ん? ちやこさんは昨日のお店にいるよ。あそこに住んでるんだ。お店を出るときにバイバイしたろ?」
「バイバイ? した?」
「そうか。お前さん半分寝ていたもんねえ。覚えてないんだね。この家に着いた事も覚えてないね?」
「うん」
昨日千夜子の店で、まなは食事を完食すると同時に船を漕ぎだした。そんなまなを妙は背負い、千夜子に挨拶をして店を出た。まなは覚えていないが、ちゃんと千夜子に手振り付きで別れのあいさつをしている。妙の背に揺られ、まなはほとんど夢の国の住人だった。
だから、家に着いた事も、妙に歯磨きをしてもらったことも、お風呂に入れてもらったことも、着替えさせてもらったことも、全く覚えていなかった。
「ふらふらだったけどちゃんと自分で歩いてたし、声をかければ返事もしたのにねえ。面白いもんだ」
「ご、め、」
「怒っちゃないよ。ほれ、さめちまう前にお食べ」
まなは小さな口でトーストに齧りつくと、途端、おなかが空きだしてきてもくもくと用意された朝食を食べ進めだした。その姿には昨日水を倒してしまった後の緊張した様子はなく、それを確認すると妙も自分の食事に手をつけだした。
朝食を終え、二人で後片付けをすると、今度は妙はまなに家の中を案内した。
一階には玄関、リビング、キッチン、トイレ、お風呂、書斎、たえの仕事部屋、応接室があり、二階にはまなが目を覚ました寝室、トイレ、一階よりも小さな書斎、客間が二部屋。
それはちょっとした冒険の様な時間だった。とにかく、まなからしてみればこの家はとてつもなく広く、また物珍しいものがたくさん溢れていた。
書斎は壁一面に本棚が威圧的に据え付けられ、分厚く物々しい雰囲気の本がみっしりと詰め込まれているかと思えば、棚一段使って写真立てに入れられた可愛らしい猫の絵葉書並べられていたり、陶器の人形や、木彫りの鳥、奇麗なガラス瓶と本以外のものも所狭しと並べられていた。
二階の書斎もみっしりとしていたが、こちらの方がまだ、一階の書斎に比べてなじみのある雰囲気を漂わせていた。
妙に言わせると、
「こっちは今時の小説や童話や漫画、写真集、画集、なんかがメインだから取っつきやすいよ」
なにがどう違うのかまなには分らなかったが。
書斎よりもさらに不思議だったのは、妙の仕事部屋だった。妙は魔女を仕事としているのだとまなに言った。それがどういう仕事なのかまなにはさっぱり分らなかったが、大体は誰かから頼まれたことをこなすのだと言う。お祈りであったり、もの探しであったり、人探しであったり、仕事を頼む人によっていろいろで。
そんないろいろの事をこなすための部屋には、書斎よりもいろいろな物が散らばっていた。まさに、散らばっていた。
机は上も下も書き散らされた紙と積まれた本で埋まってしまっていて、天井からいくつも吊るされたかさかさに乾いた植物は生花にも負けない芳香を放ち、床には植木もたくさん置かれのびのびと葉を茂らせている。
壁には、昨日妙が被っていた狐の面のや、どこか愛嬌のある鬼の面、おおらかに笑う木彫りの老爺の面、真っ赤な口を開け牙を見せつける女の面、怖そうなもの、可愛らしいもの、色鮮やかで楽しげなものさまざまな面が雑然と飾られている。
他にも、色とりどりで丸かったりとげとげだったりする石に、部屋に入ったときからずっとカタカタと小刻みに震えている木箱、昼間なのにつけっぱなしのランプの火は、赤かったり青かったり緑になったり、三つも四つもある時計は柱時計だったり、けたたましい目覚ましだったり、レトロな置時計だったり、そのどれもが全く違う時間を指していて。
「今は良いけど、時々危ないからね。駄目と言った時には、絶対にはいっちゃいけないよ。まあ、お前さんがいるのにそうそう危ない仕事は引き受けないつもりだがね」
「あぶない?」
「ほんの時々」
身の丈に合わない仕事はしないからね、と妙はにやりと笑った。
ふと、まなは思いついた事を聞いてみた。
「まなのこと、おしごと?」
問われ、たえは意表を突かれた表情をしたが、
「いや。魔女はよく、仕事じゃなくこういう事をするんだよ」
「こういうこと」
「そう、魔女には付き物だからね。子取りは」
「ことり?」
「空飛ぶ鳥じゃないよ。お前さんみたいに小さい子を連れてきちまう事さ」
にやりと妙は笑う。
「さ、案内はおしまい。お茶にしよう。グレープフルーツがあるよ」