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まなと常若町の妖草紙  作者: 真鍋はじめ
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1

 二人の男は、磨かれた廊下で立ち尽くしていた。一人は強面で仏頂面の体躯の良い男。もう一人は、瓜実の優男。強面の男よりやや若い。強面の男の職場の後輩だ。

 二人は、目の前の白い扉を時折気にしながら待ち人の到着を待ちわびていた。待ち合わせ時間ちょうどに、相手は姿を現した。

 白い綿のワイシャツにジーンズ姿の女は二人の男に気安い様子で手を挙げ挨拶を示した。

「お前の言うようにアパートのほうは処理してきた」

 待ち人を目の前にするや否や、男は単刀直入に言ってきた。表情と同じく、言葉にも愛想はない。気の弱いものならば、叱られていると思うような口調だ。

 だが、目の前の女はまるで気にしていない。

「向こうからの連絡は俺が受け持つ」

「ああ」

「これがあの子の荷物だ」

 男からつっけんどんに突き出されたリュックを受け取り、その軽さに相手は首をかしげた。おもむろにリュックの中を確かめる。

「これだけかい」

「他はろくなのがなかった」

「仕方ないね」

 女はやれやれと肩をすくめた。

「調子は悪くないようだが、ずいぶんぼんやりしているらしい」

「ふん? 花畑にいすぎたせいかね」

「最初のうちは毎日様子を連絡しろ」

「あんたからしてきなよ」

「こちらからでは繋がらないことがあるだろう」

「そうだったかい」

 わざとらしい物言いに、男の眉間のしわが深くなる。

「今回のことで何度もお前に連絡をいれたが全く繋がらなかったと、愚痴を言われている」

「あんたからの連絡なら繋がったさ」

「こっちも出られないことが多い。留守電にいれておけ」

「はいはい」

「ちゃんと分かっているんだろうな」

「分かってるさ。細かい奴だね」

「当り前だろうっ」

 男の声に、後輩がびくっと体を揺らした。

「今回のことがどれ程のことか分かっていて、こんな真似をしでかしたんじゃないのかっ」

 声を荒げた男を、女はしばし見詰め

「──そうだね。当り前だし、大切なことだ。今のは私が悪かった。すまない。きちんと連絡を入れるよ」

 さっきまでの、のらりくらりとした態度を改め、女は男に頭を下げた。その様子に、男は一つ息をついく。

「頼むぞ」

「ああ。あんたも」

 言って、相手は扉を開き中へ入って行った。部屋の中を伺うようにしながら、後輩は隣の男に問う。

「いいんですか?」

「いいんだ」

「けど、ばれたら大事ですよ?」

「上は知ってる」

「それも問題なんじゃ……」

「問題ない」

「いやいや。問題大アリでしょう。だいたいあいつなんなんですか。うちの人間じゃないですよね」

「違う」

「つまり、協力者ですか?」

「聞いてないのか?」

「教えてくれてないじゃないですか」

「上から聞いているとばっかり」

 後輩はため息とともにがっくりと肩を落とした。

「上は、あなたが説明したと思ってるでしょうね。そんなに特別な事態なんですか?」

「いや。言い方は悪いがごくありふれた事だ」

「じゃあ……」

 なおも後輩が言い募ろうとした所に、中に入った相手が出てきた。腕には毛布に包まれた何かを抱えている。

「あちらに着いたら一度連絡を入れるよ」

「そうしてくれ。駅まで車を──」

「いや。天気もいい。これもさして重くない。歩くよ」

「そうか」

「じゃ、貰っていくよ」

「くれてはやれんぞ。預けるだけだ」

「似たようなもんだ」

「どこがだ」

「私に預けたんだ。くれてやったようなもんさ」

「どこの鬼婆だ」

 女はその言葉にさも愉快そうに笑った。

「魔女も鬼婆もそう変わりゃしないだろうに」

 そう言って、女は笑いながら二人の男に背を向け先ほどやって来た廊下を戻って行った。

「魔女だなんて……。大丈夫なんですか、あいつ」

「実際そう間違ったもんでもない」

「あなたまでそんな」

「あいつは(とこ)(わか)(ちょう)の人間だ」

 後輩が目を見開き、硬直した。たっぷり十秒は停止し恐る恐ると言ったように、

「常若町、ですか? 本当に?」

「だから、なにも問題ないと言っている」

「確かに……」

「常若町と関わったことは?」

「一度だけ」

「十分だな」

「……ええ」

 自身を魔女と言った相手の消えていった方を見つめながら、

「まるで普通に見えたのに……」

 後輩のつぶやきに、男が苦笑した。

「あれが普通に見えたか」

「え? ええ。普通だったじゃないですか」

「なら聞くが、あいつの容姿を説明できるか?」

「そりゃ。白の綿シャツ着て、穿き込んだジーンズとスニーカーでした」

「恰好じゃない。顔だ、顔」

「顔は、あー。えー、あれ? えっと……」

「髪の長さや、目鼻立ち、眼鏡の有無、化粧の感じ。なんでもいい。首から上で覚えてることがあるか」

 さらに聞かれ、男はより頭を悩ませた。つい今まで目にしていた相手なのに。ほんの僅かだが言葉も交わしたというのに。何も思い出せなかった。思い出そうとしても、顔の部分だけ靄がかかったようにぼやけてしまう。何とか形にしようとするが、形にしようとすればするほど頭の中で映像が霧散していく。

「思い出せません……」

「そうだろうよ」

 情けない顔をする後輩に、男は言った。

「あいつはお前に一度も顔をさらしちゃいないんだからな」



 ゆらゆらと、心地よい揺れを体に感じながらまなは目を覚ました。肌触りのいいタオルケットに身を包まれ、誰かの腕の中にいるらしいことに気づき、顔をあげた。そこには、見知った白い顔。相変わらずの無表情でまなを見下ろしている。

「おはよう」

「たえ、さん?」

「そうだよ。眠けりゃまだ寝ていて構わないよ。ただ、今あんまり寝ちまうと夜寝られないかもねえ」

 あやすように、まなの後頭部を優しく妙の手が撫でた。

「約束どおり、迎えに来たよ」

「お、む、か、え」

「ちっと距離を歩くから、このまま抱かれていておくれね。電車に乗ったら下ろすから」

「でんしゃ」

「知ってるかい?」

 なんとなくは知っていたが、はっきりとこういうものと説明できるほどには知っていない。いくらか迷って、まなは首を横に振った。

「そうかい。じゃあ、乗るのも初めてだね」

「うん」

「なかなか悪くないもんだよ。特に、今回は景色の良い場所を走るからね」

「け、し、き」

「田んぼや畑、草や木や花が電車の中からたくさん見られるよ」

「ほんと?」

「ああ。本当だとも。楽しみにしておいで」

「うん」

「いい返事だ」

 まなは、妙に抱えられながら流れる風景、行き過ぎていく人々を興味深く眺めていた。何人もの人と行きあった。やはり、妙のような顔をした人はいなかった。なのに、誰一人として妙を気にする人はいない。まなは、自分が感じるほどに妙の顔は珍しくないのかもしれないと思いだしていた。

 風景から、目線を妙へと移す。何度見ても不思議な顔だった。まじまじと眺めていると、顔と首の肌の色が違うことにまなは気付いた。ちゃんと見てみれば、手の色とも違う。首や、手の色はまなも見慣れた色だ。

 また、肌質も違うように見える。首や手は、まなの手や首と同じように柔らかだが、顔は硬い質感を醸している。どうしてだろうか、と首をかしげると妙が笑いを含んだ声で聞いてきた。

「さっきから何をそんなに不思議そうにして」

「おかお、が」

 思っていたままに答えると、

「ああ。あんたは目が良いんだねえ。これがちゃんと見えているんだ」

 妙は、片腕でまなを抱きなおし、空いた手を自分の顔に向けた。

妙の手が、顔をつかみ、白く堅そうな顔を持ち上げた。白い顔がずれ上がり、その下からさらに顔がのぞいている。

 驚きのあまり、声もなくその様子をまなが見ていると、白い顔の下は、まなにも馴染みのある肌質があった。

「もしかして、これを本当の顔だと思ってたかい? これはね、顔じゃないのさ。面だよ」

「めん」

「顔を真似て作ったものさ。もっとも、この面は人の顔を元に作ったもんじゃない。これは狐だよ」

「きつね?」

「そういう動物がいるのさ。まあ、あまり似てないがね」

 言って、妙は再び面を顔に着け直した。

「ど、して、めん」

「これも魔法さ。誰も私を気にしないようにね」

「まほう」

「たまに、まなのように効かない相手もいるけどね」

「ご、ごめん、な、さい」

「謝るこたあないさ。ちっとも悪いことじゃない。あんたはとってもいい目を持っている。それだけだよ」

「いい、の?」

「──良いことか、悪いことかと言う意味なら、それを決めるのは私じゃない。まな、あんたが自分で決めるんだ。今じゃないよ。いろんなものを見て、いろんなことを知って、いろんな出会いと経験をして、その上であんたが決めるんだ。わかるかい?」

「すこし」

「今はそれで十分だ。さて、ちょっと買い物してこうかね。まな、お腹は空いてるかい?」

「すこし」

「じゃあ、軽いおやつと飲み物を買おうか。電車のお供にね」

「おやつ」

 心なしか弾んだまなの声に、軽やかな笑いを返し妙はまなを抱えて道沿いのコンビニに入って行った。店内でも、誰も面を着けた妙に注目する者はいなかった。見えていないわけではない。現に、カウンターの若い女性店員は、抱えられたまなと目が合うと微笑んで手を振ってきた。まなが認識できていて、妙が見えないはずがない。妙が言ったように、見えているが気にしていないのだ。

 妙はお菓子のコーナーに立ち、

「どれがいい?」

「……ううん……」

わからない、と言う意志で返すと妙はまなの気持ちを正確に読み取ってくれた。

「私が決めていいかい?」

「うん」

「甘いのがいいかね」

「すき」

「じゃあ甘いのにしよう」

 妙はじっくりと棚を見据え

「お。これがいいかね。ビスコ。どうだい」

「び、すこ?」

「さくさくしたやつに甘いクリームが挟まってるんだよ。よい子のお菓子だよ」

「よいこ? まなが?」

「ああ、もちろん」

「よいこ……」

 そう言われ、まなは嬉しそうに顔を輝かせたが、すぐにその喜びは顔から消えてしまった。

「まな、よく、ない、の」

「そうなのかい?」

「うん」

「どうして?」

「……ううん……」

「そうかい。じゃあ、分かったら教えておくれ」

「うん」

 返事をして、まなは妙に抱かれたまま、じっと何かが行き過ぎるのを待つかのように静かに、ぎゅっと体に力を入れていた。妙はそんなまなに、続けて問いかけることはしなかった。

ただ、まなのいいようにさせていた。


まながようやく体の力を抜いたのは、駅に着いてからだった。多くの人が行きかうの様子を物珍しげにしている。

「駅に来るのも初めてかい?」

「うん」

「ここで電車に乗るんだ。あの入口、改札というんだよ、その向こうに電車がやってくる場所、ホームがあるんだ」

 行こうか、と妙は人の流れに乗って改札を通った。前を行く人達と同じように、改札をくぐる前に画面に何かをかざした。

 まなは、他の人達が画面に何かをかざした時は画面が青く光ったのに、妙が何かをかざした時には別の色に光ったのに気付いた。白いような黄色のような、紫のような、まなでは言い表せられない色だった。妙の体越しに後ろにいた人達を見てみると、その時は青く光っていた。赤く光らせて改札を通れない人がいたが、妙の時ような色で光ることはなかった。

 興味津津のまなを抱え、妙は改札を入って左のホームへと向かった。他の人たちは右のホームへと向かっていく。妙とまな以外、誰も左へは来ない。


 左のホームには、『000 常若町方面』と掲げられていた。



 ホームにも人っ子一人いなかった。まなが目を向けた向かい合ったホームには、たくさんの人がいる。たくさんの人がいながら、それほど遠く離れているわけではないのに、なんの音も聞こえない。

 居心地の悪い静けさではないが、不自然な静けさであることにまなはなんとなく気付いていた。意外と世の中には音があふれていることをまなは知っている。

「来たよ」

 妙が顔を向けている方向を見ると、空色の四角いものがどんどんと近づいてきていた。トタンチタン、カタントタンと軽快な音をさせなが四角い箱のような物が三つ連なってホームに入ってきた。側面には、扉が三つ付いている。

「これが電車だ。大きいだろう」

「うん」

 まなの返事と同時に、電車のドアが開いた。

 電車の中には誰もいない。妙は、四人がけのボックス席を一つ陣取り、自分の向かいにまなを座らせ、面をずらした。

「やれやれ、やっと一息だ」

 妙は、面を頭に横かぶりにすると、コンビニで買ったお茶をあおる。

「やっぱり人込みは苦手だねえ」

「うん?」

「人が多い場所は疲れるって言ったのさ。さあ、じき電車が動き出すよ。お菓子はいいのかい?」

「たべる」

 お菓子を受け取ると同時に電車のドアが閉まった。小さな衝撃があり、電車が動き出した。

「うあ」

「動いたね。少ししたら眺めが良くなるよ。楽しみにしておいで」

「うん」

「それと、一つ」

 妙は、まなに人差し指を立ててみせる。

「誰かに声をかけられても私より先に返事をしちゃいけないよ。たまに性質の悪いのがいるからね。わかったかい?」

「うん」

「じゃあ、なにをしちゃいけないか言ってごらん」

「へんじ、しな、い」

「よし。返事をしちまっても、何とでもなるとは思うが一応ね」

「うん」

「よしよし」

 妙の手がいささか乱暴にまなの頭を撫でた。

「さ、お食べ」

「うん」

 電車に揺られながら初めて食べるその菓子は、優しい甘さをしていた。大事に大事に菓子をかじるまなに、妙は一緒に買っておいた牛乳にストローをさして渡した。

「にゅうにゅ、すき」

「そうかい。そりゃ良かった」

「うん」

「花が好きで絵を描くのが好きでお菓子が好きで、牛乳が好き。他に何が好きだい?」

「……ううん」

「そうか。じゃあ、それも思い出したら教えておくれ」

「うん」

 牛乳をすすりながらまなは、自分は何が好きだろうかと考えようとしたが、思考は頭の中ではっきりとした形を結ぶ前に描き消えてしまった。今までまなは、日々の大半をただぼんやりと過ごしてきた。そうすることが、まなには一番過ごしやすかったのだ。

 ふいに、妙がまなの隣に座り窓の外を指さした。つられてまなは指の先に目を向ける。

「分かるかい?」

 妙が指さした先には、愛らしいピンク色がポツリポツリと見えていた。色はどんどんと近づき、妙の指先に乗る程度だったものがやがてまなの視界いっぱいに広がった。

「おおぉぉ」

 窓にへばり付き、まなはただただ感嘆の声をあげた。視界いっぱいに広がったピンクは、次第に見上げる状態に広がった。まなは口を開けたまま上を見上げ、呆けたように頭上を彩る花を見詰めた。

「これは桜だよ。八重桜だ」

「さ。く。ら」

「窓が開けられたらいいんだけどねえ。昔は開けられたってのに」

「これ」

「ん?」

「これ、すき」

 頬を紅潮させ、大きな目をきらきらと輝かせながらまなは言った。

「すき」

「──それは良かった」

 妙はまなの頭を抱きかかえ

「それだけでも連れてきた甲斐があるってもんだ」

 妙は満足そうに眼を細めた。そのまままなを抱きかかえた妙は、とても機嫌が良さそうだった。まなは、妙に頭を抱き込まれたままずっと移り行く風景を眺めていた。



 どれ程そうしていただろうか。

桜並木が途絶え、最初に見たような田園風景が広がりだした。名残り惜しく、遠ざかる桜をまなは見送っていた。その遠景も捕えられなくなった頃。

 妙はまなを離し、隣の席で眠っている。そして、まなの向かいの席には男が一人、いつの間にか座っていた。

 本当に、いつの間にか。

 まなに気付かれることなく、何の音もなく、気配もなく。まるで、その場ににじみ出てきたかのように。

男は帽子を目深にかぶり、うつむき加減で座っているため、顔を確認することはできない。顕わになっているのは口元だけ。薄い唇は、笑みを形どっている。

 唇が、笑みをたたえたままゆっくりと開いた。

「熱心に、外を見ていらっしゃいますね」

 知らぬ声に、まなは文字通り飛び上るほど驚いた。驚きすぎて声も出ないほどに。

 まなが大きな目をさらに大きく見開き、窓から向かいの席へと顔を向けるとなんとも奇妙な同席者の姿。つばの大きな黒い帽子に、黒い服、黒いズボン、黒い靴。手には真っ白な手袋。帽子からのぞく鼻から下の肌も白い。

 笑みをたたえる唇だけが紅い。

 紅い唇は、まなに母親を思い起こさせた。

 だからだろう。その口から発せられた声が男のものだったことが、まなにひどく不自然に感じられたのは。

 男の唇が再びゆっくりと動き、

「そんなに外の景色が楽しいですか?」

 たのしい、そう返事をしようとしてまなはあわてて口をつぐんだ。返事をしない、と約束していたことを思い出したのだ。代わりに、まなは大きく顔を上下に振った。

「ありふれた、春の景色ですけれどねえ。ねえ、良ければわたしの話し相手になっていただけませんか。一人で時間をもてあましているんですよ」

 まなは、眉を下げ非常に困った表情を見せながら、頭を横に大きく二回振った。大人からの頼みを断るなんて、まなにしてみればあり得ないことだ。

 だが、まなは既に妙と約束をしてしまっている。今、目の前にいる男の希望を叶えることは妙との約束を破ることになる。

「少しでいいのですが」

 言い募る男に、まなはますます眉を下げた。

「どうしても?」

 なおも言われ、まなは俯いた。俯きながら、小さく頭を上下に一つ振った。

「そうですか」

 ため息交じりに男は言い、席を立った、かのように見えた。

「では、これではいかがでしょう」

 男の頭の位置がぐんと高くなった。

 だが、男は、席から少しも動いてはいない。顔をあげたまなは、下から覗き込むような格好で男の顔を見る。帽子の下に隠れた目が、見えた。瞼のない、大きな金色の瞳がらんらんとまなを見据えている。

 男の首が、白い肌をさらし、長く長く、伸びていた。

 紅い唇は相変らず微笑みをたたえていて、薄く開かれたその内側に唇よりさらに紅い舌が。

 天井近くまで伸びた首は、そこで鎌首をもたげまなの頭上すぐ近くまで顔を下げてきていた。男の顔が、見上げるまなに近づいた。

「ねえ、本当に少しで良いんですよ。私と話をしていただけませんか。でないと……」

「でないと、なんだい」

 おもむろに伸びてきた細い腕に、まなの小さな頭は引き寄せられた。引き寄せた腕のほうへ頭を巡らせば、眠っていたはずの妙が皮肉気な笑みを浮かべ、けれど目には剣呑な色をにじませていた。

「人のものと分かっていて手を出すたあいただけないねえ。喧嘩なら買うよ」

「御冗談を。勝てるものなら、寝ている隙を突いたりいたしませんよ」

「そうかい。私はもう起きちまった。退散願おうか」

「そうするよりないようですね」

 まなの目の前で、長く伸びた男の首が、今度はするすると縮んでいく。まなは、ただ茫然とその様を妙の腕の中から眺めていた。

 男は、すっかり元の長さまで首を納めると相変わらず口には笑みを浮かべたまま、席を立った。

「御機嫌よう。良い旅を」

「ああ、お前さんも」

 まなは、立ち去る男の背中に

「さよなら」

 小さく声をかけた。

 妙よりも先に返事をしない、という約束だった。妙が男と会話を交わした今、まなに課せられた制限はなくなっている。

 小さな、小さな声だった。声は、それでもちゃんと男に届き、男は肩越しにまなを見詰め帽子を少し持ち上げるしぐさを見せた。そして、男の姿が空気に溶けるように霧散して消えた。

「いない」

「ああ。せこい手を使う割に、引き際は潔いね。悪くない。それより」

 妙の長い指がまなの髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。

「寝ちまって悪かった。約束を守って良い子だったね。それに肝が据わってる。大したもんだ」

「きも」

「怖がらなくて凄いっていうことさ」

「びっくり。けど、こわい、ない」

「そうかい。ま、さして悪い奴でもなかったようだ。もし、怖いと思ったらそいつは絶対に相手にしちゃいけないよ。良いね」

「うん」

「よしよし。まあ、あちらに着いちまえば問題ないんだが。もうじき到着だからね」

「うん!」

 まなが今日一番良い返事をした時、電車がちょうど目的の駅へと到着した。ホームに掲げられた駅名には『常若町』と書かれていた。


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