はじまり
小さな幼い手に鉛筆を握りしめ、まなは一心に絵を描いていた。お気に入りの場所で。そこは一面の花畑。
黄色の小さな花が、見渡す限り広がっている。花の名前をまなは知らない。知らないながらも、この花に心捕えられたまなはこの場所を自分の秘密の場所とした。この場所で、絵を描いている時間がまなには至福だった。不満があるとすれば、絵に色が着けられないこと。まなは色鉛筆もクレヨンも持っていないのだ。
ふと、絵を描く手を止める。鉛筆を握っていた右手の小指側側面を見ると、鉛筆色に染まっていた。同じ色に絵の右側も汚れてる。絵の汚れをどうにかしたいが、まなは消しゴムも持っていない。
とりあえず、己の服で汚れた手を拭ってみた。白いワンピースの一部が、鉛色に染まる。ワンピースには、鉛筆の汚れ以外にもいろいろなシミが付いている。
だが、まなはさして気に留めていない。それよりも、絵のほうが気になった。上手く描けたのに汚れてしまったのがもったいなかった。
しかし、まなにはどうしようもなく。じっと絵を見詰め、一つ頷きまなは今まで描いていた絵を手元から下げ、新たに白い紙を己の前に広げた。今度は絵を汚さなよう、画面の左側から描きこんでいく。
もくもくと絵を描き続けるまな。
ここにはまな以外誰もいない。鳥もいない。虫もいない。風も吹かず、何の音もしない。ただ、黄色い花が広がっていてまなが居る。それだけ。まながこの場所に来るようになってから最近まで、ずっとそうだった。
変化が現れたのがいつだったか、まなは正確には覚えていない。
まなの秘密の場所に、いつの間にか一人の女性が訪れるようになった。多分、女性だろうとまなは思っているが、確証はない。確証を得られるほど近くで相手を確かめたことがないのだ。
最初にその女性を見かけたとき、女性はまなから離れた場所でじっとまなを見詰めていた。まなは女性に声をかけなかった。女性もまなに声をかけなかった。絵を描くことに夢中になっている間に、女性はいなくなっていた。
それから時々、その女性はやってくるようになった。女性が現れる頻度は確実に増し、現れるたびに少しずつ、まなの近くにやってくる。
いつも同じような白いシャツと青いズボンを着ていて、長い髪を後ろで一つにくくっているようだ。束ねられた髪は、真っ白だった。お年寄りなのだろうかとまなは思うが、はっきりしない。女性の顔から、年齢を読み取ることがまなにはできなかった。女性は、まなが見たこともない顔をしていた。
知らない人、ということではなく。
女性は、まなが知るいかなる人たちとも似つかぬ顔をしていたのだ。真っ白な肌。らんらんとした大きな瞳。奇抜な化粧。大きくとがった耳。変化のない表情。
女性のことが気になったが、知らない人に話しかけてはいけないと言いつけれられいたので声をかけることはできなかった。それに、少し女性のことが怖かった。
まなには絵を描く合間に、女性を伺い見ることしかできなかった。
そして、今日もまた女性が来ている。いつものように、まなを見ている。
まなは、姿が見えたその時だけ女性のことを気にしたが、すぐに絵を描くことに没頭した。だから、気付いた時にはとても驚いた。女性が、まなのすぐ後ろに立って絵を覗き込んでいたのだ。驚きすぎてまなは声も出なかった。
「よく会うね」
瞬きをしない大きな目がまなを見詰めた。まなは返事もできず、ただ瞬きを繰り返した。そうすると、女性の顔がまなの顔からまなの手元へと移る。
「上手いもんだ」
くぐもった声で言われた言葉を、数瞬、間をおいてからまなは理解した。絵を褒められたのだと。
「あ、ありがとう、ござ、い、ます」
「ちゃんと礼も言えていい子だ」
女性の細い手がまなに向かって伸び、わしゃわしゃとまなの頭をなでた。なでられるままにまなは頭を揺らす。
「一人かい?」
「お、るす、ば、ん」
「ここにいる時はいつもお留守番の時?」
「うん」
ふうん、と女性はしばし考え込むようなそぶりを見せた。何かおかしなことを言っただろうかとまながはらはらしながら女性の様子をうかがっていると、
「花が好きかい」
「す、き」
「そうかい。ここは一つの花しか咲いてないねえ。もっといろんな花を見たくないかい?」
「いろ、ん、な?」
「そう。色も形も違うたくさんの花をさ」
「み、たい」
「じゃあ見に行こう」
「み、に?」
「そう。たくさん咲いている場所があるんだよ」
反射的に頷きそうになったまなだったが、ぐっと何かをこらえるように口元を引き結び、首を横に振った。
「花が好きなんだろう?」
今度は頷くまな。
「じゃあどうして」
「お、かさん、が、」
「叱られるかい?」
また、まなは頷く。
「お母さんには私からちゃんと言ってあげるよ」
「でも……」
「たくさん咲いている所と言うのは、私が住んでいる所でね。そこに行くまでもこれからが花盛り。ピンクやら白やら紫やらの花がいっぱいいなんだよ。そりゃあ綺麗なもんさ」
「いっぱい」
「ああ。いっぱい、いーっぱいさ。お母さんが帰ってくるまで、そこでお留守番をしていればいい」
「う……」
「大丈夫。お母さんには叱られないさ。叱られないよう、魔法をかけてあげよう」
「ま、ほう?」
「そう、知ってるかい? 魔法」
知らない、とまなは首を横に振った。
「魔法っていうのはね、不思議な力のことだよ。そうだね、例えばあんたの名前。当ててあげよう」
女性がずいっと、顔を近づけた。鼻と鼻が触れ合いそうなくらいの近さだ。
「あんたは、まな。どうだい、当たったろう?」
まなは丸い目をさらに丸くして女性を見た。
「ど、して?」
「これが魔法の力さ。私は魔法使い、魔女なんだよ」
「ま……?」
「私は妙。まな。いろんなものを見せてあげるよ。だから私と一緒においで」
「たえ、さん」
「そう。ほら、行こう」
差し出された手を、まなはまじまじと見つめた。妙は、それ以上動こうとはしない。急かしもしない。まなが決めるのを待っているのだ。まなは、妙の手と、顔を何度も見比べた。
そして、花畑を見渡してから、恐る恐る妙の手に自分の手を重ねた。そっとまなの手を握りしめてきた妙の手は、とても温かかった。